rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評「仏教・キリスト教 死に方・生き方」

2011-09-05 20:09:27 | 書評

書評「仏教・キリスト教 死に方・生き方」玄侑宗久・鈴木秀子 講談社+α新書 2005年刊

 

臨済宗僧侶で芥川賞作家でもある玄侑氏と聖心女子大教授でシスターである鈴木氏の仏教とキリスト教からみた死生観、人生観の違いを対談形式でまとめた物です。両氏ともに宗教の教義や価値観について厳格ではなく、柔軟な考え方を持っておられるので仏教とキリスト教の類似点や熱心な信者でない一般人にとっての宗教のあり方(すがり方?)を理解しやすく解説しています。

 

特に死と死後の世界について両宗教の考え方にとても興味があったので、それらについて語った1−2章は興味深く読めました。本来宗教とは「いかに生きるか」という生について語っているものですが、一般の日本人にとっては「死んでからが宗教の出番」という認識があるように思います。葬式仏教と揶揄され、日本人の日常生活に積極的に係わることを放棄したように見える仏教界にも問題があるかも知れませんが、寺院が江戸時代の檀家制度のような統治機構の一部に組み込まれてきた反動で、日本人が仏教を「生き方の範を示すありがたいもの」とあまり考えなくなった事もあるかも知れません。

 

仏教で死後の世界を引き受けるようになったのは浄土教からで、それまでは現代医学と同様、大日如来や薬師如来による病気治療に主眼がおかれていたと言う指摘はとても面白い。阿弥陀如来が出来て死んでからも極楽浄土で生活できると説かれるようになって初めて「死が全ての終わりではない」と死への恐怖を仏教によって癒せるようになった、死に行く人に阿弥陀経を枕経として唱えて安らかな死をいざなうという仏教的ホスピスの原形が鎌倉時代からあったというのは奥深いものがあります。

 

キリスト教においては、死は土で作られた肉体から霊魂が天上に帰ることを意味しているので審判は受けないといけないようですが、やはり死が全ての終わりではない。臨死体験で洋の東西や宗教を問わず類似した「光に包まれるような体験」をしていることは「死が全ての終わりではない」という希望を人間に抱かせて、自分たちのそれぞれの社会に合わせた宗教を形成してきた原動力になっているという考察を我々読者に与えてくれます。

 

両者の共通の考えとして、諸宗教の原則はしっかりあるけれども百人百通りの宗教があって良いのではないか、という日本人にはありがたい考え方で内容が書かれているところがあります。これは一神教のキリスト教ではなかなか許されない所でしょうが、本来「天主様」とか「デウス様」とか訳していたGODを種々雑多な神がいる神道における「神」と同じ訳を使い出した時点で(本書によるとこれは戦後のこと)、キリスト教の厳格な一神教としての存在感が日本において薄れてしまったのではないかと私は考えます。結果は裏目に出た訳ですが、多分占領軍は日本人をキリスト教徒に改宗させたかったために日本人になじみのある「神」という言葉をGODの訳として使うようにしたのでしょう。結果としてキリスト教は日本的な緩い解釈が広まってしまって、結婚式だけ教会でみたいな使われ方になってしまいました。

 

死に向かう宗教のありかたは、どの宗教においても死に行く人に「死の向こうには平安がある」という安らぎを与えようとする、と言う点で皆共通のものであるように思いました。

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