活字デジカメ

益なし,根拠なし,言いっ放しの電脳写真機机上妄想コラム。できれば毎日更新したい。

デジタル写真の不気味の谷と萌えの山。

2008-06-08 10:08:50 | Weblog
梅田のビジュアルアーツで瀬戸正人写真展「binran」を観てきたわけだが,思ったのが“不気味の谷”。
【不気味の谷】
ロボットがその外観や動作においてより人間らしく作られるようになるにつれ、より好感的、共感的になっていくが、ある時点で突然強い嫌悪感に変わる。しかし,人間の外観や動作と見分けがつかなくなると再びより強い好感に転じ、人間と同じような親近感を覚えるようになる,という仮説。(ロボット工学者、森政弘が1970年に提唱)

「binran」は台湾のビンロウ(噛みタバコのような嗜好品)を売るお店の娘たちを高画素の中判デジタルカメラで撮った作品。
そこでは彼女達はまるでひと時の恋人のように振る舞うのだそうだ。売っている商品は檳榔やたばこであっても、じつは彼女達は檳榔やたばこを売りながら、自分というものをも売っていると云うわけである。
肌をあらわに露出した彼女達なしにはこの商売は成り立たない。文字通りの看板娘ということなのだろう。台湾全土では数万とも十万とも言う檳榔売りがいると云う。

中判デジタル(3400万画素とか)の描写はリアル過ぎで不気味。
ガラスケースの中の看板娘たちはとても生身の人間には見えない。ラバー製のオタンダ妻みたい。
ハイパーリアリズムの絵にも似た博物性というか,やはり一種の異物感,嫌悪感を感じます。

デジタル写真も普段モニターで見ている分にはピクセル等倍で観て,おーこんなところまで写ってるのかいと感嘆したりするのが,プリントして細部を観るとあまりにリアルなために記憶と照合してみてちょっと違和感を感じる―そういうことありませんか。
プリントが小さければまだしも,大きく伸ばすと特に感じるなあ。
留まることを知らないデジカメの画素数インフレですが,物理的な回折限界以外にも心理的な不気味の谷があるのではないか,と思った次第です(ま,大伸ばししなければ関係ない話ですが)。

ところで,“不気味の谷”の対極にあるのが“萌えの山”。
浮世絵やアニメでスーパーフラットの伝統を持つ日本にこそ科学の限界を越えるカギがあるのではないか(と大げさに)。
写真でいうならば,かつての「光と其の諧調」,今であればガリーフォト,トイカメラかしら。
不気味の谷を越えて行け。

付)
思えば初音ミクも“不気味の谷”を飛び越えて“萌えの山”に達したものかも。
科学の限界♪(・∀・)

付2)
「これって、みんなデジタルで撮ったんですかねえ」と云う声に振り向いたら、首からでかいズームレンズのついた重たそうなデジカメをぶるさげたおじさんがいた。
そのようなかれにとってはここに写っているちょっとエッチいな女性のことよりも、それがデジタル・カメラで撮られたのかどうかのほうが気になるらしい。
わたしが「これって中判サイズのCCDのカメラで撮ってるみたいですよ」と云うと、しきりにそのカメラが何なのかを気にしながらなにごとかをブツブツつぶやきながら去っていった。
ニコ爺最強~(;・∀・)