本日号では、読者の皆様に『批評の読み比べ』をして頂きたく、まず4本リンクを貼っておく。掲載順である。
皆「音楽評論家」の手に拠る「演奏会批評」である。中身に付いて語る前に客観的事実を記す。
ここからは、私高本の主観に拠る「批評の批評」である。
伊熊よし子 は、現在油の乗った「クラシック音楽界の書き手」である。本人がブログに再三再四掲載しているように「インタビュー」「通訳」の仕事がバリバリ来ている。「音楽の友」を始めとする「クラシック音楽界情報」で、伊熊よし子 の名前を読まない月は記憶に無い。
・・・で、この「インタビュワー&通訳型」評論家 は、1つの大きな共通点がある。
これは、私高本 が察知したことではない。
である。渡辺和 本人は「だから、作曲家批評 や 作品批評 は実行しているが、演奏会批評は一切していないので自身は評論家ではない!」と断言していた。大見識である!
ちなみに
ので、伊熊よし子ブログ を覗くのは、年に数回である。 渡辺和「やくぺん先生 うわの空」 は、面白いので毎週のように読んでいる!
東条碩夫 は、昔々「FM東京」の名前の時代に、オリジナルクラシック番組が週2本(火 & 木の21:00~22:00)あった当時のディレクターだった人。各興行主から押し寄せてくる「放送の売り込み」から最適なプログラムだけを選び出し、「NHK-FM」よりも魅力的な番組を作ろう、の視点が出発点、と推測される。
現在も、確か「クラシック音楽CS放送」の仕事をしているハズ。私高本はCS放送は1度も見たことが無いのでよくワカラン。カネ無いからなあ、、、
である。
このスタイルには、「大きな落とし穴」がある。私高本自身が経験しているので、自信を持って断言できる(爆
この1点だけである。私高本 は「岡原慎也 との出会い」が無かったら、 今も尚「印象批評垂れ流しヒョーロンカ」を続けていたような気がする。
東条碩夫 の批評の特徴は
「インタビュワー&通訳」タイプでは無いので、悪い時は「悪い」と明言するのが好感持てるのだが、その根拠が希薄なのだ。「音楽の友」「モーストリー・クラシック」両雑誌に毎号書く欄がある人だが、「印象に残る批評」が皆無である。
に感じる。私高本 の興味を惹かない評論家なので、やはり年に数回覗くだけである。
自分自身のことは、自分ではよくわからないのは誰もが同じ。私高本は猫頭なので、他の人よりも「パー」である。
について、ここで語る(爆
と言う点。ピアノ演奏だけに限定して話を進める。
である。だから「ブレンデルの弟子=フェルナー」を絶賛する(爆
聴いてわからない評論家が多いことには驚くばかりである。
私高本は、「佐伯周子 のシューベルト完全全曲演奏会」を実行する間にも、岡原慎也、原田英代、宮谷理香 などの素晴らしい「シューベルト弾き」を嬉々として聴きに行き、高く評価して来た。原田 と 宮谷 は「佐伯周子 とは全く異なるシューベルト解釈」である。(岡原慎也 とは近い。)岡原慎也 については、わざわざ大阪にまで出掛けて聴きに行ったことも多いほどだ。
私高本の脳内に「唯一無二のシューベルト像」は無い。佐伯周子 や 岡原慎也 で超名演を聴いた曲でも「唯一無二のシューベルト像」とは思っていない。まして、CDで聴いた演奏を崇め奉る神経は一切持ち合わせていない。「ブレンデルのシューベルト」は好きな演奏で、東京公演の全てを聴きに行ったが、良かった演奏会もあれば、不調な時もあった。また「CD録音」も素晴らしい点もあれば、首を傾げざるを得ない点もある。例えば「D960第1楽章呈示部の反復を実行しないこと」などなど。
私高本の猫頭理解に少しはお役に立ったでしょうか?
今年の3月末にて、国立音楽大学教授を定年退官して、4月からは「招聘教授」になった 礒山雅。普通の人 = 国立音楽大学関係者以外の人 には
だと思う。毎日新聞も読んでいる私高本は、少なくとも「上の行」のように感じているし、毎日新聞読者のクラシック音楽ファンならば、ほぼ間違いなく感じるだろう、と思う。
だからである。ウソだと思う人は毎日新聞購読してちょ。「クラシック音楽記事」の量は相当に多く、読み応えはあるぞ > 中身は「個人の判断」に拠るが。「梅津時比古の姪っ子 = 梅津美葉」の絶賛記事の嵐とか読むと「引く」わな(爆
伊熊よし子 の『パドモア+フェルナー : シューベルト「冬の旅」2011.12.04公演批評
東条碩夫 の『パドモア+フェルナー : シューベルト「冬の旅」2011.12.04公演批評
私高本 の『パドモア+フェルナー : シューベルト「冬の旅」2011.12.10公演批評
礒山雅 の『パドモア+フェルナー : シューベルト「冬の旅」2011.12.04公演批評
皆「音楽評論家」の手に拠る「演奏会批評」である。中身に付いて語る前に客観的事実を記す。
伊熊、東条、私高本 の3名は「演奏会当日」の批評掲載で、礒山 だけ10日後掲載(毎日新聞に掲載するため)
伊熊、東条、礒山 の3名は 2011.12.04 公演、私高本 だけ 2011.12.10 公演
私高本は12月4日は デュトワ + N響「マーラー:千人」を聴いていた。伊熊、東条、礒山 は12月3日公演を含め聴いていない。
ここからは、私高本の主観に拠る「批評の批評」である。
伊熊よし子 = 『インタビュワー&通訳型』
伊熊よし子 は、現在油の乗った「クラシック音楽界の書き手」である。本人がブログに再三再四掲載しているように「インタビュー」「通訳」の仕事がバリバリ来ている。「音楽の友」を始めとする「クラシック音楽界情報」で、伊熊よし子 の名前を読まない月は記憶に無い。
・・・で、この「インタビュワー&通訳型」評論家 は、1つの大きな共通点がある。
「取材した演奏家」については(聴いた内容うんぬんを別にして)決して悪く書くことは無い = 『インタビュワー&通訳型』
これは、私高本 が察知したことではない。
尊敬する 渡辺和 から教えられたこと!
である。渡辺和 本人は「だから、作曲家批評 や 作品批評 は実行しているが、演奏会批評は一切していないので自身は評論家ではない!」と断言していた。大見識である!
ちなみに
「褒めることが大前提の批評」には、私高本は全く興味無い
ので、伊熊よし子ブログ を覗くのは、年に数回である。 渡辺和「やくぺん先生 うわの空」 は、面白いので毎週のように読んでいる!
東条碩夫 = 『大量印象批評型』
東条碩夫 は、昔々「FM東京」の名前の時代に、オリジナルクラシック番組が週2本(火 & 木の21:00~22:00)あった当時のディレクターだった人。各興行主から押し寄せてくる「放送の売り込み」から最適なプログラムだけを選び出し、「NHK-FM」よりも魅力的な番組を作ろう、の視点が出発点、と推測される。
現在も、確か「クラシック音楽CS放送」の仕事をしているハズ。私高本はCS放送は1度も見たことが無いのでよくワカラン。カネ無いからなあ、、、
東条碩夫 は年間300本くらいの演奏会を聴き、全てブログ上に掲載するスタイルを数年継続している。
「Daily Classical Music Critique in Tokyo 時代の私高本」と全く同じ「演奏会批評」スタイル なので大いに共鳴する評論家 = 東条碩夫
である。
このスタイルには、「大きな落とし穴」がある。私高本自身が経験しているので、自信を持って断言できる(爆
年間300回も演奏会批評を書くと「印象批評」ばかりに陥る
この1点だけである。私高本 は「岡原慎也 との出会い」が無かったら、 今も尚「印象批評垂れ流しヒョーロンカ」を続けていたような気がする。
東条碩夫 の批評の特徴は
「ジャンル」や「外来と日本人」などに囚われない「巾広い窓口」
NHK関係オーケストラ(N響 と 東フィル)を不必要に悪く書く(民間放送従事者の僻みか?)
総じて「印象批評」
「選択基準」が私高本の感性とは大きく異なる。「デュトワ + N響」で「マーラー:千人」を(スケジュールが空いているにも関わらず)選択しない気が知れない
「インタビュワー&通訳」タイプでは無いので、悪い時は「悪い」と明言するのが好感持てるのだが、その根拠が希薄なのだ。「音楽の友」「モーストリー・クラシック」両雑誌に毎号書く欄がある人だが、「印象に残る批評」が皆無である。
「評論家」と言うよりも、むしろ『テレビのバラエティ番組の「レポーター」のレポート』に近い文章
に感じる。私高本 の興味を惹かない評論家なので、やはり年に数回覗くだけである。
私高本 = 『楽譜基準演奏家意図重視型』
自分自身のことは、自分ではよくわからないのは誰もが同じ。私高本は猫頭なので、他の人よりも「パー」である。
佐伯周子 からさえ理解されていない私高本の思考回路
について、ここで語る(爆
「シューベルト解釈」は多種多様な方法があり、「解釈が徹底されれば」素晴らしいシューベルト演奏が実現する
と言う点。ピアノ演奏だけに限定して話を進める。
現在「シューベルトのピアノ音楽」と言えば「アルフレート・ブレンデル 系列が唯一絶対無二」と信じる ピアニスト,ピアノ教師,評論家が多数
である。だから「ブレンデルの弟子=フェルナー」を絶賛する(爆
フェルナー は根本的に指が廻らない上、ダイナミクスレンジの巾が狭く、さらにリズム感が欠如している
聴いてわからない評論家が多いことには驚くばかりである。
私高本は、「佐伯周子 のシューベルト完全全曲演奏会」を実行する間にも、岡原慎也、原田英代、宮谷理香 などの素晴らしい「シューベルト弾き」を嬉々として聴きに行き、高く評価して来た。原田 と 宮谷 は「佐伯周子 とは全く異なるシューベルト解釈」である。(岡原慎也 とは近い。)岡原慎也 については、わざわざ大阪にまで出掛けて聴きに行ったことも多いほどだ。
私高本の脳内に「唯一無二のシューベルト像」は無い。佐伯周子 や 岡原慎也 で超名演を聴いた曲でも「唯一無二のシューベルト像」とは思っていない。まして、CDで聴いた演奏を崇め奉る神経は一切持ち合わせていない。「ブレンデルのシューベルト」は好きな演奏で、東京公演の全てを聴きに行ったが、良かった演奏会もあれば、不調な時もあった。また「CD録音」も素晴らしい点もあれば、首を傾げざるを得ない点もある。例えば「D960第1楽章呈示部の反復を実行しないこと」などなど。
私高本の猫頭理解に少しはお役に立ったでしょうか?
礒山雅 = 『権威型』
今年の3月末にて、国立音楽大学教授を定年退官して、4月からは「招聘教授」になった 礒山雅。普通の人 = 国立音楽大学関係者以外の人 には
「毎日新聞クラシック音楽批評の大看板 = 礒山雅」の印象!
だと思う。毎日新聞も読んでいる私高本は、少なくとも「上の行」のように感じているし、毎日新聞読者のクラシック音楽ファンならば、ほぼ間違いなく感じるだろう、と思う。
2012.04.06時点の瞬間の「東京の6大新聞」中、最も「我が強い記者 = 梅津時比古」が「毎日新聞クラシック音楽批評のエース」扱いしているのが 礒山雅!
だからである。ウソだと思う人は毎日新聞購読してちょ。「クラシック音楽記事」の量は相当に多く、読み応えはあるぞ > 中身は「個人の判断」に拠るが。「梅津時比古の姪っ子 = 梅津美葉」の絶賛記事の嵐とか読むと「引く」わな(爆