山之内英明 の「休憩時の大声談合」と「自己擁護」のおかげで、「音楽ヒョーロンカ」の実態が Piano Music Japan読者の皆様に垣間見える状況になったと感じる。本日号では、
を掲載する。
まず初めに騒動の持ち上がった「ヴァンスカ指揮読響の一連の演奏会批評」をお読み頂きたい。掲載順である。
どちらもトロトロと掲載してるな(爆
山之内英明 は、2ちゃんねるの「晒し」に心が痛んだらしく、4週間以上経過してからの掲載である。
いくつか誤解の無いように書き記す。山之内英明 も「楽譜を眺めた批評」は書いている。ヴァンスカ指揮読響「チャイコフスキー:悲愴」批評ではガラにも無く、楽譜を引用している。(昨年4月の「カンブルラン + 読響」「ノリントン + N響」以降全部のクラシック音楽批評を読んだが、ここだけ楽譜を引用していた。)
但し、これは「楽譜を読んだ批評」では無く「楽譜を眺めた批評」である。
である。岡原慎也 に嫌味を言われても返す言葉も無かった「苦い思い出」がある(爆涙
ここで「原点」に戻りたい。
もっともっと「景気の良い業界の談合」に目を移して考えてみたい。まず「談合と言えば土建業」が代表。彼らは、主として「公共事業」を大きな利鞘で交替に儲けるために「談合」することは有名。「日本最大手ゼネコン」から「田舎の土建屋」まで「談合まみれ」の業界であった(今もか?)ことは数々の新聞報道や著書で暴かれた通りである。
翻って「クラシック音楽評論家」は儲かるのだろうか? と言う疑問がある。私高本も「雑誌批評に寄稿」した経験があるが、
「交通費込み」である。南武線、東急田園都市線、東京メトロ を使ってサントリーホールまで往復すると 1,200円掛かる。これに参考CD1枚買うと当時は約2,000円前後だったので、これだけで足が出る。とても楽譜は買えない!
・・・ってなことを考えているのは、私高本のような「貧乏で単独行動のアホ」だけである。
のだ。特に「補助金ジャブジャブ」でおいしい公演は「絶賛の嵐」にしておく必要がある。
のが常道。
ここで、「ヒョーロンカ対策費」が大きい公演と小さい公演の見分けるコツをこっそり読者の皆様に伝授する。
尚、これは私高本が初めて言ったのではなく、『モーストリー・クラシック』に連載している 作曲家 = 青島広志 が「モーストリー・クラシック連載上」に書いていたことである!
そう言えば「ヴァンスカ + 読響」は特集組まれなかったなあ(爆
誤解なきように、書いておかなければならない点が後1つある。
土建業と同じで、「談合には談合の基準」が必要である。その基準は「誰もが容易に判るモノ」の必要がある。「譜面を読んだ解釈」なんて主観的なモノは使えない。「他人の解釈」なんて、理解するまで時間を喰うばかりだ。「東京の談合評論家」の基準でわかり易いのは「インバルのマーラー」だ。都響が熱心にCDリリースしてくれる熱意もあり、これが利用されている。「インバル」に「バーンスタイン」や「テンシュテット」や「ベルティーニ」をちょちょいと振り掛けたのが主流。これで意思疎通は万全!!
「一匹狼」で吠えるしか無いのである(爆
やっぱ、私高本 は「カネにはならない」アホな「ビンボー評論家」で一生を終えることになるわな(爆
『談合評論家』手法の解明
を掲載する。
まず初めに騒動の持ち上がった「ヴァンスカ指揮読響の一連の演奏会批評」をお読み頂きたい。掲載順である。
私高本 の「ヴァンスカ + 読響」批評
山之内英明 の「ヴァンスカ + 読響」批評
どちらもトロトロと掲載してるな(爆
山之内英明 は、2ちゃんねるの「晒し」に心が痛んだらしく、4週間以上経過してからの掲載である。
山之内英明 の「批評」の特徴
山之内英明の「脳内」に『理想演奏像』が特定されており、それ以外の解釈を受け入れる『柔軟な脳』が皆無で、「不愉快という単語」がお好き
「山之内英明 > ヴァンスカ」と思い込んでいる
「談合仲間」の意見と大筋で一致していること強調し、自分の「正当性」を主張
「細部の乱れ」を強調する
「リズム」「アーティキュレーション」には一切触れない(触れることができない?)
「作曲家の意図」「指揮者の意図」の視点はほぼ皆無
結論として『好みのCD演奏と比較しての好き嫌い』の視点が最前面に打ち出された批評
いくつか誤解の無いように書き記す。山之内英明 も「楽譜を眺めた批評」は書いている。ヴァンスカ指揮読響「チャイコフスキー:悲愴」批評ではガラにも無く、楽譜を引用している。(昨年4月の「カンブルラン + 読響」「ノリントン + N響」以降全部のクラシック音楽批評を読んだが、ここだけ楽譜を引用していた。)
但し、これは「楽譜を読んだ批評」では無く「楽譜を眺めた批評」である。
私高本の事例で言えば「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を グルダ + シュタイン + ウィーンフィル盤 を聴きながら眺めていただけ」程度
である。岡原慎也 に嫌味を言われても返す言葉も無かった「苦い思い出」がある(爆涙
ここで「原点」に戻りたい。
なぜ「談合評論家」は「談合」するのか?
もっともっと「景気の良い業界の談合」に目を移して考えてみたい。まず「談合と言えば土建業」が代表。彼らは、主として「公共事業」を大きな利鞘で交替に儲けるために「談合」することは有名。「日本最大手ゼネコン」から「田舎の土建屋」まで「談合まみれ」の業界であった(今もか?)ことは数々の新聞報道や著書で暴かれた通りである。
翻って「クラシック音楽評論家」は儲かるのだろうか? と言う疑問がある。私高本も「雑誌批評に寄稿」した経験があるが、
演奏会1本批評して、各種経費込みで3,000円程度だった。
「交通費込み」である。南武線、東急田園都市線、東京メトロ を使ってサントリーホールまで往復すると 1,200円掛かる。これに参考CD1枚買うと当時は約2,000円前後だったので、これだけで足が出る。とても楽譜は買えない!
・・・ってなことを考えているのは、私高本のような「貧乏で単独行動のアホ」だけである。
「談合仲間」で「雑誌インタビュー(または通訳)」「チラシ広告文」「プログラムノート執筆」「お手盛り批評」を交替で廻す、とカネが湧いて出る!
のだ。特に「補助金ジャブジャブ」でおいしい公演は「絶賛の嵐」にしておく必要がある。
その逆の「ヒョーロンカ対策費」の少ない公演は、懲らしめの「晒しモノ」のために糾弾しておき、バランスを図る
のが常道。
ここで、「ヒョーロンカ対策費」が大きい公演と小さい公演の見分けるコツをこっそり読者の皆様に伝授する。
『クラシック音楽宣伝雑誌=モーストリー・クラシック』で特集を組んである演奏家が「対策費」豊かな演奏家(演奏会)
尚、これは私高本が初めて言ったのではなく、『モーストリー・クラシック』に連載している 作曲家 = 青島広志 が「モーストリー・クラシック連載上」に書いていたことである!
そう言えば「ヴァンスカ + 読響」は特集組まれなかったなあ(爆
誤解なきように、書いておかなければならない点が後1つある。
「談合評論家」は研究熱心である。「人気CD」を聴き込むことには!
土建業と同じで、「談合には談合の基準」が必要である。その基準は「誰もが容易に判るモノ」の必要がある。「譜面を読んだ解釈」なんて主観的なモノは使えない。「他人の解釈」なんて、理解するまで時間を喰うばかりだ。「東京の談合評論家」の基準でわかり易いのは「インバルのマーラー」だ。都響が熱心にCDリリースしてくれる熱意もあり、これが利用されている。「インバル」に「バーンスタイン」や「テンシュテット」や「ベルティーニ」をちょちょいと振り掛けたのが主流。これで意思疎通は万全!!
私高本のように「オレが読み込んだ楽譜解釈が批評の基準だ!」 では「談合」は成立しない!!
「一匹狼」で吠えるしか無いのである(爆
やっぱ、私高本 は「カネにはならない」アホな「ビンボー評論家」で一生を終えることになるわな(爆