ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

ブタがいた教室@京都シネマ

2008-11-14 00:07:52 | 映画感想
小学校の1クラスが、先生の提案でブタを育てて最後には食べましょう、という実際にあった教育実践をもとにした映画。


  注:今回の日記、ダラダラと無駄に長いです。

  「暇な人しか読まないでくださいっ!」


映画としてはとても良い出来だったとおもいます。
なによりも子どもたちの生き生きとした表情。それから途中から始まるPちゃん(ブタ)を食べるか食べないかの真剣な議論。
なんでも子どもたちには結末の書いていない台本を渡して生の議論になるように仕向けたとか。その思惑は見事に的中しているのではないかと。

しかし、妻夫木さんはどうしてこーも頼りない感じの役ばかりなのでしょう(苦笑)
今度は先生役という事なのでようやくしっかりした妻夫木さんが見られると期待していたのだけれど。

映画に対しての賛否両論なんて聞くけれど、映画自体に対して賛否両論にはならないところがちょっと残念ですよね。
映画自体に対してではなく、この題材とその取り上げ方や結末についての賛否両論になっちゃうでしょ?とか言いながら、儂もだらだらとその話をしてしまうわけです(苦笑)
まぁ、それがこういう映画の狙いだと思うのでいいのですが。。。

あ、映画自体に対しては勿論「アリ」ですよ。ありあり♪

んと、この映画の評価として、というより題材の中身について考える時、大きく2つの事が論点になるのじゃないかな、と思うわけです。

一つはこの映画の題材になっている教育実践に対しての評価。
一つはこの教育に対しての教師の態度。

密かに教育学を軽くかじってる儂としての感覚は、授業の一環としてやる以上、きちんとした目的と指導計画が絶対に必要なわけで、それを考えると、映画の中の星先生は新任早々で、若干思いつきで始めたようにも感じられる(一応教育計画は最初に提出していますが。。。)ところは残念かなと。でも、そのその(頼りない)星先生の気持ちを認めてサポートする校長先生の言動と眼差しはステキだな。
映画的には教育計画に自信満々の担任ではちょっとイマイチっぽい出来上がりになるかもしれないから、そこらへんは映画的な効果を狙ったという事にしておきましょう♪

ただ、最後まで子供たちに決めさせるのだ、という態度を貫くところは(見る人からしたら無責任にも感じられるかも知れないけれど)スバラシイね。星先生の性格的に決められなかったように描かれているのでそう取られないかもしれないけれど、やっぱり大人って決めたがりやん。ましてやフツー先生って仕切りたがりやん(偏見)。あのシチュエーションで「先生はどう思うんですか?」って子どもたちに言われたらフツーの大人なら我慢が出来ずに意見を言っちゃうよ、きっと。
ところが、星先生は最後の最後まで引っ張ったのだ。勇気があると思うなぁ。

最終的にどうするか、という問題とそれを議論することの意義は実は別の問題なのだ、と思うのだけど(というのはちょっと理解してもらいにくいかもしれないけれど、最終的にPちゃんをどうするか決定を下すのは教師の責任で、それを議論するのは子どもたちの責任、といえば分かりやすいかな)、最後の最後まで引っ張ったことでその2つを分けることが出来ると同時に子供たちにとってもしこりの少ない結果に持ち込めたのではないかなと思うのです。
議論の途中で決定を下してしまうと、勝ち負けという意識やら後悔やら物足りなさやら後味の悪さを感じる時間やらが出来てしまう余地が生まれるからね。

で、この実践自体に対しての評価。

先に言っておくと、ブタを最後に食べるのがいいのか、食べないのがいいのか、という問題は、ここでは全然問題じゃないからね。ややもすると自分でもそこの議論に行きがちだけど、上でも書いたように、それは子供たちにとっての問題であって大人の問題ではない、ってこと。

これも先にまとめると
・食育をするのに生身の生き物を使うことへの評価
・この実践を通しての子どもたちへの影響への評価
・議論のさせ方への評価

まぁ、大人目線での評価です。

結論から言うと、大人が気にするほど子どもは気にしていない、というのが儂の意見です。
さらに言えば、子どもがたとえばこの教育実践を通して何らかの影響を受ける!と主張する大人は多いのだろうけど、基本的に子供たちに影響を与える事を目的としているのが学校教育ですからね。

「ちゃうやん、悪い影響が出るっちゅーねん、どうしてくれんねん、このせいで豚肉食べられへんくなったら!」

とかね。
別に豚を飼わなくったってテレビでの話とか見聞きして食べられなくなる子だっているだろうし、経験としてその子が考えてそれを選択するなら何の問題もないし、感情的にそうなってしまった時にフォローするのは親の役割でもある。そもそも菜食主義の人や動物愛護をとなえる人からすれば豚をたべないと言っても全然変でも何でもないだろうし。

じゃぁさ、この授業を通して食べることの尊さを肌で感じて、食べ物を粗末にしない感謝の気持ちを持てる子どもになる、のと、食べ残しに胸を痛めることも無く、無駄遣いも平気な子どもでいるのとどっちの方が良いことだい?

「そんなん、そうなるとは限らないだろ。」
そう、そのとおり。豚肉が食べられなくなるとも限らない。
悪い影響を想定するならいい影響も想定してあげなくちゃ子どもに対して失礼だ。
そもそも可能性の上の仮定でで論議したって虚しいさぁ。

根本的にさ、何が悪い影響なのか、っていうのはこういう場合大人が勝手に押し付ける価値観でしかないのだ。だいたいにして。この事例を通して自分で考え自分で判断し、自分で納得しようとする子どもたちの自主性を尊重するなら、ヘタなことを言っちゃいけないわなぁ。
#まぁ、そういう子どもの自主性を尊重できる大人がどれくらいいるのか知りませんが

「でも、わざわざブタでなくても。。。」

なら鶏ならいいの?ニワトリ飼ってその卵をとって食べるくらいならいい?
ニワトリの卵だって命を奪っていることには変わりないですよねー。線引きなんか出来ないのですよ、子どもたちの議論にも出てくるけれど。
「ブタでなくても」と言ってしまうのは、きっと生理的な嫌悪の問題。あと、ブタ?なんだか面倒くさいなー、って感覚はあるかも。

もちろん子どもたちの中には感受性の強すぎる子どももいるから配慮は必要(殺して食べるという生々しさについてね)だけれど、それだってブタもニワトリも同じこと。
そのせいで(実践自体を止めてしまうとかして)ホンモノに触れられる貴重なチャンスを無くすのは勿体無いわけです。

議論の仕方ってのは難しいのだけれど。。。

一つ。
どこかで「ディベート」って言葉を使っている感想を見たけれど、ディベートってのは(自分の主観に関係なく)二手に別れて討論して、優劣を競う競技。。。ですよね?論を尽くしてとことんまで話し合うのでなく、時間を切ってジャッジが審判するのだ、確か。
教育の場でこのディベートを取り込む事はあるのだろうけど、この映画で子どもたちがしている事はディベートではなく、単に本気の議論。だから意味がある。

今の子どもたちは本気で議論することが少ない、という(まぁ、その真偽はちょっとどうかと思っているのだけど)。たしかに(学校とかの大人の目がある)きちんとした場所で真剣に議論するってのはないかもしれない。何しろ大人にその土壌がないからなー。儂だって、子どもの時でも学級会で議論したことはあるけど、果たしてクラス全体がこんなに本気になって議論できる題材があっただろうか。。。とは思うのです。
だって、クラスの学級会っつったって、意見を言う人なんかいつも決まっていたでしょう?早く終わればいいと、ひたすら時間の経過を待っていた人も多いでしょう?意見が出ずに指名されるのを必死で避けようとしたり、当たっても「○○さんと同じです」でお茶を濁してた人もいるでしょう?
クラス全体がこんなに真剣な議論が出来るってのは子供たちにとっては幸せなことだと思います。だってねー、喧嘩できるほど真剣なんだよ。羨ましい。

先に書いた「ディベート」ってヤツは。「競技」だから「冷静さ」や論法といった「作戦」や「演出」があります。

子どもたちの議論はあらかた冷静さに欠け、理屈に対して感情で反論したり、議論が行き詰まったと思ったら最初の話に戻ったり、相手に響くよう言葉遣いや例えを使って工夫する子もいるけれど、相手が論に応じなかったりと、おおよそディベートの技巧の世界とはかけ離れてる。

日本人の議論下手の克服に、もっとディベートを、っていう人がいて、それはそれで頷けるのだけど実は儂は懐疑的なのだ。それだけでいいのかなと。
感情的な熱のこもった議論も知らずにディベートだけ覚えて、技巧ばかり上達した人間が、果たして血の通った話ができるのか、とね。仮に政治家になって国民の方を向いた議論ができるのか、とね。

この子どもたちみたいに感情のぶつかり合いもあるプリミティブな議論の経験っていうのを経験した上でこそ、そういった議論のテクニックも生きるのではないかなと。

子どもたちの議論はかみ合わないし、歯がゆいし、イライラするところもある(-"-)のだけれど、そう言った議論を経験することの教育的な意義はでかいよねー。非効率だっつーても貴重な彼らの経験に水を差したくはないな。

子どもは私たち大人が考えているよりもしっかりしているしさっぱりしているし情熱的だよなー。

最後には子どもと同じ視線でPちゃんとの別れに涙する、いい大人たちが映画館に何人もいましたよん。

#あと、儂的には成志さんがツボでした♪

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