ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

朝日のあたる家@京都みなみ会館

2013-10-31 12:55:29 | 映画感想
誤解を恐れずに言うと、牧歌的なタイトルから想像できないほどズケズケと無遠慮な映画だった。いや、現実はまだまだこんなもんじゃないんだよ、そんな声も聞こえてくるような気がするけど。

東京電力フクイチの事故で現実にあった事を場所を変えて再現しているという感じ。ハンパではないリアルさ。
ただし、いくつものトピックスをこの家族の周辺に盛り込んだ感じがするので、見る人によっては逆に現実味は薄く感じられるかもしれないな。

問題の端緒が網羅的に次々と出てくる。
マスコミ、政府発表への過信。正常化バイアス。家族の確執。行政対応の理不尽。故郷の喪失。予測できない病魔への恐怖。避難と土地への愛着の葛藤。生きる望みを失った人々を襲う悲劇。
次々と出てくるので、一つ一つのことを深く考える余裕はないけれど、二年前のあの事故が何をもたらしたか思い出すには十分だ。

なにもそこまで詰め込まなくても、と思わなくもないけれど、詰め込まなくては伝えた事にならないのもまた事実。同じようにフクイチ事故後に別の場所で原発事故が起きたと想定した映画「希望の国」でも同じようにいくつも同様のシーンが再現されていた。

そして、なにより話題になっているのは山本太郎の存在。
っつーか、儂のツイッタタイムラインでは基本的に「山本太郎の出ている朝日のあたる家」っつーのが枕詞ごと流れてくることが多くて、そーゆーことなんだろうな、と思っているんだけど、ちょっと待て。もう一人脱原発俳優のいしだ壱成クンも出てるやないかーい!しかも出番多い重要な役どころやし、もっと注視してあげてー!
#いやそんなことゆーたら藤波心ちゃんも出ているわけですが。。。え?チョイ役? ええやん!儂はファンじゃ!<開き直った

ま、でも太郎ちゃんのあれは演技じゃないわ。もう山本太郎という俳優の特性でもあると思うんだけど、役柄をそれになり切って演じるのではなく、山本太郎というキャラクターがそれを演じているので、儂らはこの沖縄でお好み焼き屋をやっているオジ役を通して山本太郎の言葉を聞いている感じだ。
もちろん、この映画の中ではそれは大事なトピックスなのだと思う。

逆にいしだ壱成クンはそれと比べると、がんばって演じているな、という感じには見えてしまうかな。
いやいや、比べるのは間違いか。。。

場所的なものではどうなのだろう?
地理的に浜岡からの風向きが、直接湖西のあたりにホットスポットを生み出すということはあるのだろうか?プルームがストレートに来るとしたなら、途中で100万近くの人口を抱える浜松を通る事になるので、それはそれはえらいことだ。
いや、しかし浜岡も「山岡」と言い換えている以上、あくまでフィクション、実在の静岡とは別と捉えて考えるべきか、うーむ。と、どうでもいいようなことが、幼少の砌に浜松に住んだ事のある儂としては気になって仕方ない。

新居の関とか浜名湖とか懐かしいな(遠い目)。

映画の話に戻しませう。

主人公家族は、この災厄に対して主体的に何かが出来るわけではない。何がどう起きているかも分からずに、ただただ翻弄されるだけだ。
唯一、主体的に判断する事を促す、沖縄のおじの言葉に応えるチャンスにも動けなかった。(残念乍ら、それを責める事は難しい)

こんなにとんでもない事がおこっていようが、儂ら庶民には何の主体性も与えられない。
情報は隠蔽され、自分たちが勝手に動く事は著しく制限される。決定は突如としてやってきて抗う事は出来ない。そこは自分たちの故郷なのに、ある日突然奪われ、それを埋めるに十分な保証などされる事はない。体や心を蝕まれても、その原因を認めてもらう事は期待できない。

戦争から70年。何度も見て来たこの景色を、なのに既視として感じる事が出来ない人が多いのは何故だろう。ジャメヴュ(jamais vu)か?

繰り返す儂ら国民のこの苦しみを、またこの国は受忍義務だというのだろうか?

そう言って、またエライ人たちは責任取らずに、国民に苦しみを押し付け後ろ向いて舌をペロッと出しているのだろうか?

太平洋戦争の頃から何ら変わらないこの国のシステムの話だ。民主主義とは程遠い、この国の現実。


朝日のあたる家@京都みなみ会館の画像

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