ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

サラエボの花@京都シネマ

2008-01-12 22:37:31 | 映画感想
しかし、
年明けて一発目が鷹の爪で2つ目がコレって。我ながらこの振り幅は如何なモノかと。。。

はてさて、

社会派の重い映画を見る時は、それがフィクションなのかノンフィクションなのか、ノンフィクションならば誰が作っていてどのような意図が込められておりどれだけ信憑性があるのか、ドキュメンタリーであっても製作者側の意図は何処にあるのか。っつー事を念頭に置いてみるわけだけど、だからなのかなんなのか、これがフィクションであった時のほうが、より現実に近いことであるかのように感じてしまうという事がある。なんか逆説的だけど。
これ、きっと儂の悪い癖。

しかし、伝えたいことを明確にするための意図はどんなものでも入るのが常であり、ノンフィクションの場合は揺るがせにしない真実があるから、そこを基準にどれだけねじれ伝わっているかという視座が生まれるのに対して、最初からフィクションであれば、そういった余計な推測(邪推?)無しに製作者のメッセージを受け取ることができるわけで、そう考えればそれはそれで純粋なメッセージと捉えることもできるわけだ。
あ、なんか言い訳めいているけど。

言わずと知れたボスニア紛争の影を取り扱ったこの映画。
言わずと知れた、などとしゃぁしゃぁ言いながら、十数年前に起きたこのバルカン半島での悲劇を実はきちんと知らない事に愕然とする。
この映画を見て常に感じていた不安感はここから来るのだと思う。

勿論、当時儂も学生だったし、当然の事ながら折に触れニュース等で見聞きしていたし、ざっとは調べたこともあった。けど、その時からすでにこの紛争の複雑さはあまりに現実離れしたもので、へなちょこ学生の儂には到底理解できるものではなかった。そして、それは映画を見終わった今も同じこと。

結局この映画をきちんと理解する為にはあまりに自分は知らなさ過ぎるのではないか?
と感じているわけです。

ストーリーとしてはわかりますよ。
主人公の抱えている戦争でのトラウマと、それにも勝る娘への愛情。トラウマの原因も映画の中できちんと明かされるから、理解に苦しむことは無い。
しかし、どうだろう。
カフェで外を眺めるシーン。 広場には何気ないほのぼのとした平和な光景が映し出されているけれど、この一見平和な町で十数年前にあった、組織的なレイプという卑劣な行為を使っての他民族への肉体的かつ精神的な攻撃。ほほえましい光景の一枚下には悲劇の舞台が横たわっており、表面的には平穏に見える人々の心の中に一歩踏み込めば生々しい辛い記憶があふれ出る。
その影の部分にまで思いを馳せるにはあまりに知識不足だ。
グルヴァビッツアでの悲劇。

映画の主人公とするには、あまりに人間くさいエスマというキャラクターの設定がよりリアルで(戦争によるトラウマからくる苛立ちという事なのかもしれないが)、それが現実的なイメージに繋がっています。

映画としてみるならば
エスマが抱えるトラウマを、戦争や実際の記憶といったものを描いているわけではないのに、生なましく伝えているところは見ている人にかなり訴えかけるものです。それに対しての思春期のサラがみせる危険な程の奔放さ。それがぶつかったときに呆気なく明かされる秘密。ただ、全体的には映画的なダイナミズムとか面白みには欠けるかもしれません。
それでも、最後に髪を坊主にしたサラがエスマに手を振り車内に響くみんなの歌声に合わせるシーンは、明かされる現実に対峙することが出来るかどうかはわからないけど、とにかく希望に向けて進んでいこうとするこの国を象徴しているようで心地良い感じがしました。

そう、悲劇は確かにあった。
でも人々はそこでこれからも生きていく。それが現実。どうにかこうにかして生きていこうとする、現実を生きていくための希望は、やはり美しい花の存在なのであろう。
花を見つけることの出来た人は幸いである。

世界に目を広げれば、現在も新しい悲劇が繰り返されている現実。人間はいつまで同じことを繰り返すのでしょう?

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