ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

ベトナムからの笑い声第22回公演「ヘンダーソンVSアンダーソン」@スペースイサン

2007-08-12 23:01:23 | 演劇レビュー
儂がもっともおススメする、もっとも万人受けしないであろう、すんばらしくナンセンスな劇団の公演です。
#褒めています

冬にあった前回の公演では「長編をやる」といっていたような気がするけど。。。またもや短編オムニバスになってしまいました。
もう慣れっこです、っつーか、これもネタやろ多分。

ってなわけで、とりあえず一つずつ見てみましょう♪
簡単な内容付き(親切)

☆ACT1.「妖精たちの挽歌」
ある男が森を歩いていると前方に空き缶やらチェーンやら体にくっつけてるへんてこなおっちゃんが登場。実は彼はアルミの妖精なのだ。妖精は人に見えてはいけない、見られちゃったアルミの妖精大いに慌てる。が、周りには男に見えない妖精が沢山いるのだ。
登場するのは(しないのは?)昔は美しかった(ので、アルミの妖精も付き合っていた事もある)が、人間が汚すので今は見る影もなくなってしまった川の妖精や、蔑ろにされているので怒っている幾千もの石の妖精、偶然アニメになったト○ロとそっくりだったので、人間に姿を見られたと勘違いしてすっかり痩せ細ってしまったトト○にそっくり。。。。じゃなくて○トロがそっくりな大木の妖精、昔は可憐やったのに人間のせい(変な本を森に捨てたりするからその変な知識のせい)ですっかりすれて淫乱になってしまった花の妖精。などなど。
この話はすごいよ。一見ネタのオンパレードに見えるけど期せずして人間の傲慢さを非難することになった。
だんだん体に纏っていたアルミ缶が落ちるのもそれはそれでネタということで。
ベトナムがよく使う手だけど、スライドショーの使い方も上手。
妖精のほかにも妖怪が出てきて、次に出てきた幽霊は実は男が殺してきた女だったという、最後の持って行き方はちょっと普通で些かベトナムっぽさにかけたけどね。

☆ACT2.「スパイダーマンに告ぐ」
黒川君お得意(推測)の作家シリーズ。
昆虫の御題が出され、それを元に新たな○○マンを作り出す試み。蟻で働くことに目覚めた「アントマン」とか他に「バタフライマン」「テントウムシマン」(テントウムシって英語でなんて言うんですか?)。 最後の2連発「ガマン」と「ブッシュマン」は個人的にめちゃめちゃ受けました。今回の公演の中で一番受けたネタ。
この話もすごいよ。単なる言葉遊びにも聞こえるけど期せずしてアメリカンヒーローに代表される安直さと某国の某大統領を嘲笑することになります。
まいど思うことだけど、言葉のバリエーションと韻を踏むおもしろさがよくもこれだけ有機的に結合するもんだと感心する。ここらへんは素直に天才か、黒川君は!と思うところ(ヨイショ)

☆ACT3.「天覧コント~大森ヘップバーンの『チャンピオン』」
そう、あのお方が演芸会をご覧になるのだ。 緊張の面持ちで打ち合わせの控え室で待つコントグループ大森ヘップバーンの4人。そこに現れた担当者はメンバー個々の(下ネタや下品さ、ナンセンス、乱暴な突っ込み粗雑な言葉遣いといった)毒気のある持ち味を失礼だからといって禁止する。最後には「ギャグをハズす」事まで。一旦は辞退しようとするが逆にタブーに挑戦しようとするメンバー。が、本番では予想以上のプレッシャーに持ち味を発揮することができない。
この話はホンキですごいよ。っつーか、まともな話(にも見えます)。
タブーと人間の性と日本社会の持つ病理をそれこそストレートに扱っちゃった。
芝居やってる方は「そんな意図はないんだけどー」って言いそうだけど、きっとこいつらは確信犯だ。
こんなにシビアな問題を提起しておきながら、「僕達は笑いが目的だから題材の中身よりもそれを笑うことだけが問題で、それ以外は知りませーん」って言いながらニヤニヤしているのだ。ホントはわかっているくせに。
さらにズルイのは彼らは一生懸命に演技しやがる。くさいほど。
ACTとしてはそんなにおもしろくないんだけど(をい)、後半のコントの部分も長すぎてだるいんだけど(をい)、それでもなんとなく許せてしまうのは何故だ、慣れたか?(をい)。

そう。今回のベトナムはナンセンスなんかじゃない。
センスのあるベトナム。うむ、新たな発見である。
意外にも嫌いじゃない。意外ってアンタ。。。

次回はなんとベトナムの今までにやった公演のリクエスト版です。
次回は間違いなく意味をもたないベトナムが見られます。
 2008年2月8日(金)~12日(火) 大阪精華小劇場にて
メチャメチャおすすめです!(ただし、不真面目なアナタに♪)

ベトナムからの笑い声第22回公演「ヘンダーソンVSアンダーソン」@スペースイサンの画像



ヒロシマ・ナガサキ@京都シネマ

2007-08-12 11:36:56 | 映画感想
日本にとって8月は祈りの季節である、という言葉をどこかで聴いたことがある。
いろいろな思いは去来するけれど。日本にとって8月という季節が特別な季節であることだけは間違いない。

仕事を言い訳に今年は6日も9日もさして何かをしたわけではなかった。せいぜいテレビに合わせて黙祷が出来ただけ、何かというのは私にとって考えること全般です。15日はNHKの特別番組なんぞ見ていましたが。
その代わりにというわけではないけど、やっぱりこの映画を見ておこうと思っていたのだ。

監督はスティーブンオカザキ。名前から察するに日系人なのでしょう。
だとしてもこの映画がアメリカの映画だということには十分意味がある。
14人の被爆者と4人の原爆投下に関与したアメリカ人との発言の間にある埋めがたい感覚の差をこの映画は淡々と映し出す、淡々としたドキュメンタリーであるこの映画、ただそれだけの映画。

だけど、そこに何を感じる?そこから何を考える?60年という年月が経過した今、どんな意味がある?

この映画は今までに日本で作られたドキュメンタリーや、広島長崎にある原爆資料館で得られる衝撃に比べたら、格段に生易しいものだ。なんだか妙な言い回しで申し訳ないが、そんなドキュメンタリーや原爆資料館の資料や峠三吉の詩や映画の中にも出てきた「はだしのゲン」(作者の中沢啓治さんも証言者として映画に出ています)の地獄絵図のような生々しさは映画の中では控えられているように感じる。
もちろん映画に出ている被爆者の証言だけでも十分に原爆の悲惨さは伝わるし、多少の写真や被爆した人たちの絵だけでも初めて原爆の話を聞く人には間違いなくショックなものであっただろう。

この映画を見て、何も感じない人はいないと思うし、考えざるを得ないし、現在の世界情勢の中で60年前にどんなことがあったのか、それにしっかり向き合うことの大切さをかみしめずにはいられない。

当然ながら考えなくてはいけないテーマは多すぎる。
当に核兵器の問題、日本とアメリカの関係についての問題、被爆者補償の問題、朝鮮からの強制連行の問題、憲法の問題。
しかし、それすべてに向き合う必要がある。日本もアメリカも、そして世界も。
そのきっかけになれば嬉しく思う。

あと数十年経てば、原爆で被爆した人も太平洋戦争を経験した人もホントにいなくなってしまう。
それまでにできるだけ多くの証言を聞き、戦争の真実(いわゆる被害者的な部分も加害者的な部分も)を刻み付けるのは今を生きる私達の責務なんじゃなかろうか。

映画の冒頭、あふりらんぽの演奏にあわせてインタビューに答える日本の若者が哀しい。
「1945年の8月6日に何があったか知っています?」
もちろん映画の演出として答えられなかった子の映像だけ集めたのだろうけど。

多くの祈りがささげられ続けている8月。
果たして人々の祈りはどこかに届けられ続けているのだろうか。

ヒロシマ・ナガサキ@京都シネマの画像