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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

ビートルズのすべて 10 グループから声(5)

2012-07-29 | ビートルズ
そして、ジョージは「ピッギーズ - Piggies」「サヴォイ・トラッフル - Savoy Truffle」など3曲を提供している。そのうち、「ピッギーズ - Piggies」は社会的なメッセージを込めた作品だとジョージが語っている。「レヴォリューション」「ブラックバード(Blackbird)」も社会的なメッセージを持つ作品である。特に、「ブラックバード(Blackbird)」はポールがアメリカ南部の公民権運動をテーマにした作品とされている。

さて、ジョージの作品の中でもっとも話題になったのは、やはりエリック・クラプトンをゲストに迎えた「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス - While My Guitar Gently Weeps」ではないか。

ここで、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス(While My Guitar Gently Weeps)」を聞いてみる。

ポールはこの「ホワイトアルバム」を振り返って、「すごくいいアルバムだったと思う。何かを訴える力があった」。しかし、「作っていて楽しいレコーディングではなかった。でも、ある種の緊張感がアートに有利に働くことがあるんだ」とも。楽しくないレコーディングながら緊張感をもたらしていた要因の一つは、ジョージの言葉にあったように、それぞれが強い自意識を持つようになっていたこと、それに強い自我、エゴをむき出しにするようになっていたこと。お互いのライバル意識がより高まっていたことなどがあった。
解散。離別の危機をじわじわと迎えつつあった。

ビートルズのすべて 10 グループから声(4)

2012-07-22 | ビートルズ
ポールは、ロックンロール、バラードに加え、彼特異のラグタイム、ディキーシー調、そんなほのぼのとしたユーモアのある作品、そして、今回レゲエに挑戦したオブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ - Ob-La-Di,Ob-La-Da などがある。
その中で、ポールらしい親しみのあるメロディ、歌詞を持ち、じっくり聞かせるのが、バラードやソフトなポップスナンバーです。マザー・ネイチャーズ・サン - Mother Nature's Son ブラックバード - Blackbird がそれに当たる。

ではここで「ブラックバード(Blackbird)」を聞いてみよう。

こうした親しみやすい作品の一方で、幕開けを飾った「バック・イン・ザ U.S.S.R.(Back In The U.S.S.R.)」、「バースディ(Birthday)」などのロックンロールナンバーもポールらしい作品です。

そうした作品の中で異色といえるほど、過激でワイルドな歌・演奏を展開しているのが、「ヘルター・スケルター(Helter Skelter)」です。こうしたとんがり具合、過激さもポールならではのものですが、いつも以上に過激さを増しています。「イエスタデイ(Yesterday)」という歌曲を書いたポールだが、反対に、振幅の度合い、そのゆれの大きさを物語るようにこうした作品も手掛けている。

では、「ヘルター・スケルター(Helter Skelter)」を聞いてみよう。

ビートルズのすべて 10 グループから声(3)

2012-07-15 | ビートルズ
ジョンは、思いついたまま、感情を一気に吐き出す歌、演奏を特徴としていますけれど、それはジョンの直情的な性格を物語る。ロックンロール、リズムアンドブルースといったルーツミュージック色を濃くし、荒削りでタフで野性味のある歌、演奏を展開している。しかし、ブルース嗜好を見せながら、ブルースのスタイルを踏襲し習うのではなく、そこに変則的なリズム変拍子を織り込んだ。「ヤー・ブルース(Yer Blues)」は、その最たる作品だ。
メロディ・コード進行にもその独自性のあるものを織り込み、それがオーソドックスな手法に変わるといった意表を突く展開も見せている。ジョンらしさでもあり、ビートルズらしさを特徴付けるものでもある。
そして、今回収録された作品の多くは、メロディなり、リフなり、コードなり、そうした断片、ある程度形成されたものを素材として、ジャムセッションにおいて作品が形成され、そこに偶発的要素をふんだんに織り込みながら、仕上げられていったといった製作工程を経ているのも関係しているのではないか。
そうした作品の一つである、「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン(Happiness Is A Warm Gun)」 を聞く。

最初はシンプルなポップ風なメロディから始まるが、どんどんメロディもコードもそして、リズムも変化していく。音圧が高くなったり、ギターもだんだんフィーチャーされていく。ロックンロールのいろんな要素を取り入れているのが、特徴で、次から次への変化していく、楽しさが聞き所になっている。

ビートルズのすべて 10 グループから声(2)

2012-07-01 | ビートルズ
この4人のコメントは、ホワイトアルバムの内容、制作時の4人の思考、有りようや関係を物語っている。ホワイトアルバムを聞いて、はじめに思ったのは、4人の個性がよりl際立ってそれぞれの作品は作者の個人的な嗜好を反映しているものだということ、しかも、ビートルズは4人がサウンドを展開し、一体化するグループ・バンドではなくなってしまったのではないかと思ってしまった。
1人作曲者が主導権を握り、ほかのメンバーはその要求に追従して応える。すべて、あるいは大半を単独で手掛け、時にほかのメンバーの手を借りる。といった方法でレコーディングが行われたのは明らかだ。それは、事実でもあり、同時期、同時間べつべつの場所でレコーディングが行われるということが続いた。
4人、特にジョン、ポール、そしてジョージがそれぞれ個人的な嗜好を強くし、持ち味、個性を反映させた結果、このアルバムにおける演奏、サウンドはバラエティ豊かなものになっている。それが特長にもなっている。

ビートルズのすべて 10 グループから声(1)

2012-06-17 | ビートルズ
「ビートルズのすべて」。13回シリーズの10回目はいよいよ『ホワイトアルバム』「グループから声」だ。

1968年(昭和43年)11月22日、ホワイトアルバムこと「ザ・ビートルズ(The Beatles)」は発売された。
真っ白なカバーに、小さな文字で「ザ・ビートルズ(The Beatles)」とグループ名が浮き彫りにされ、ナンバリングの入ったそのアルバムは、斬新で強烈なインパクトを与えるものであった。カラフルな色彩の「サージェント・ペパーズ」とは実に対照的で、日本人が白という色から感じる、無垢、純粋、潔癖さ、潔さというイメージも加味してその意味合いを組した。アルバムの内容は、2枚組みのアルバムを一気に聞き終えたとき、今までのビートルズとは確実に違うものを感じた。

トップを飾るのは「バック・イン・ザ U.S.S.R.(Back In The U.S.S.R.)」

「サージェホワイトアルバムント・ペパーズ」「リボルバー」「ラバーソウル」と違い、実験的な要素が薄れている。ポールは、僕らは一歩下がってみるときだと感じていたんだ。それがメンバー全員が望んでいることだったんだ。必ずしも前に進まなくてもいい音楽は作れる。

ジョンは、これは僕の曲だ。僕らはこんな風にやろう。あれは君の曲だ。君はそんなふうにやるんだね。そんな風にやっただけなんだ。3人の音楽を1枚のあるばむにするというのはとてもたいへんなことなんだ。だから2枚組みにした。エレクトリックスや凝ったアレンジに興味を持った後、最終的にそういう要素をすべて振り払うことにした。2枚組みに入っている僕の曲はきわめてシンプルでプリミティブ(原始的な、素朴な)だ。「サージェント・ペパーズ」とは180度違っていた。僕はいつだってこっちの音楽が好きだ。

ジョージは、インドから帰国したとき、1枚では収めきれないほど多くの曲があることが明らかになった。だからホワイトアルバムは2枚組みなんだ。ほかにやりようがないだろう。だって僕らはたくさん曲を作っていて、その中から新しい曲のために独自の曲を吐き出したかった。バンドの中では、それぞれが強い自意識を持つようになっていたんだ。

リンゴは「サージェント・ペパーズ」はやるべきことを果たした。60年代、あるいは20世紀を代表するアルバムだ。曲はすばらしく、とても革命的だ。ほんとうに楽しかったし、参加できたことをうれしく思う。だけど、ホワイトアルバムができてみると僕はこっちのほうが好きになった。

ビートルズのすべて 9 愛こそはすべて(5)

2012-05-20 | ビートルズ
68年(昭和43年)5月30日、ビートルズは新作アルバムのレコーディングに取り掛かる。レコーディングは10月半ばまでの長期にわたり、結果、シンプルに彼らのグループ名をタイトルにしたアルバム『ザ・ビートルズ(The Beatles)』が発表されることになる。

真っ白なカバーに、小さな文字でグループ名が浮き彫りにされ、ナンバリングの入ったそのアルバムはやがて、ホワイトアルバムと称されることになる。それまでに68年8月、アルバムに先駆けて、A面に「ヘイ・ジュード - Hey Jude」B面に「レヴォリューション - Revolution」を収録したシングルが発表され、ヒットし、話題を呼ぶことになる。

「ヘイ・ジュード - Hey Jude」は、ジョンとシンシアが分かれることになった際、2人の間に生まれたジュリアンのことが、ポールには不憫に思え、何も心配することはないと伝えるため、走らせた車の中で思い浮かんだという作品。ポールが生んだ名曲の一つ。ビートルズの作品の中でもっともヒットした作品の一つであり、ビートルズの代表作でもある。

「ヘイ・ジュード(Hey Jude)」

そして、同時に発表された「レヴォリューション(Revolution)」。これはジョンの作品。ジョンは、「革命について感じたことを表現したいと思って発言すべき時期だと思った。ベトナム戦争に対するコメントにノーコメントを通すのはやめにすべきだと思ったのと同じように。」そしてジョンが言いたかったことは、「チェンジ・ユア・ヘッド」。君の頭を変えろということ。どんな種類の平和でも、それを確実に永続させる方法は、人々の心を変えることだ。それしかない」と語っていた。

「レヴォリューション(Revolution)」

今回紹介された作品は、
「愛こそはすべて(All You Need Is Love)」
「マジカル・ミステリー・ツアー(Magical Mystery Tour)」
「ヘイ・ジュード(Hey Jude)」
「レヴォリューション(Revolution)」
の4曲だった。

ビートルズのすべて 9 愛こそはすべて(4)

2012-05-13 | ビートルズ
ビートルズは、後任を探すのではなく、自分たちがその役割を担うことを決定する。そして、新会社を設立をする計画をたてる。そうした一環として、ポールの発案で、テレビ番組「マジカル・ミステリー・ツアー」の製作に乗り出す。リバプールの観光バス、行き先を明かさないバス旅行をヒントに発案した。

この製作は、無計画なものであり、ビートルズも製作の経験、実践、知識もなかった。編集にも時間がかかり、その年のクリスマスにイギリスのBBCで放送された「マジカル・ミステリー・ツアー」は新聞などで酷評され。失敗作としての評価を受けた。もっとも映画の内容はともかく、収録された挿入歌は評判を呼ぶことになる。

タイトル曲「マジカル・ミステリー・ツアー(Magical Mystery Tour)」

「マジカル・ミステリー・ツアー」はポールがリーダーとなり進めたため、ポールのエゴトリップとも言われた。ポールは「ビートルズを続けていくため、何か新しいものを生み出すため、どうしても必要だった」と語っている。

発表当時、どうしても酷評された「マジカル・ミステリー・ツアー」は、後年、ロードオブザムームビーとしての評価を得ていくことになる。また、ミュージックビデオの長尺番の先駆けとなった作品として語られるようになる。そして、68年の2月、ビートルズのメンバー、妻やガールフレンド、友人たちはインドのリシュケシュに向かう。マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの瞑想キャンプに参加するためだった。しかし、当初の瞑想は刺激的だといっていたリンゴと妻のモーリンは、食事や生活環境に馴染めず、帰国。次いで、ポールとジェーン・アッシャーもイギリスに帰国。さらにジョンも直接マハリシと会談し、結果キャンプを離れることになる。ジョージはその後、ラヴィ・シャンカルに会い、インドに滞在し続けた。ジョンは後、マハリシを非難。ジョージは新たな興味を持ち、インドの宗教との関わりを深くしていくことになる。

ビートルズのすべて 9 愛こそはすべて(3)

2012-05-06 | ビートルズ
そして、ビートルズが時代を反映した作品を生み、また、時代をリードするグループとして存在を印象付けたのが、世界の5大陸を同時に生中継したテレビ番組「アワ・ワールド」への出演だった。この番組でビートルズは、ミック・ジャガー、キース・リチャーズなどの音楽仲間をゲストに迎え、オーケストラを加えた演奏構成で、新曲、「愛こそはすべて(All You Need Is Love)」を披露した。同時にレコーディングされ、発売された。「愛こそはすべて」は、『サージェント・ペパーズ』とともにサマー・オール・ラブのテーマ曲の一つとなって広く親しまれることになった。

「愛こそはすべて(All You Need Is Love)」

67年夏、ジョージは、アメリカに滞在していたインドの音楽家ラヴィ・シャンカルを訪れた際、サンフランシスコのヘイト・アッシュベリーを訪れた。そこで、目の当たりにした光景とは、思い描いていた光景とはいささか異なるものであった。そして8月、ジョージとパティ夫妻、ジョンとシンシア夫妻、ポールとジェーン・アッシャーは、ロンドンで開催されたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの超越瞑想の会に参加する。マハリシのノースウェルズで開かれる夏の会に開かれる会に招待される。ジョージはインド音楽への関心を発端にインドの文化宗教に傾倒していく。そして、さまざまな思想家と出会い、悟りを開いた人物を求めたが、出会えなかった。そんな中、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーはまさにそういった存在だった。そして、ジョージだけではなく、他のメンバーもそうした存在に関心を持つだけでなく、一応の知識を持っていた。つまり、前後してドラッグとの関わりを捨て、精神的な模索の手段として、宗教に関心を持つようになっていたからだ。

そして、8月、マネージャーのブライアン・エプスタインの死を伝えるニュースが入ってくる。後に死因は、薬物の過剰摂取によるものだと発表された。




ビートルズのすべて 9 愛こそはすべて(2)

2012-05-05 | ビートルズ
伝統的な社会や制度を否定し、個人の存在や精神的な開放、それに自然への回帰・共存を基本的な思想としていた。当時は、都市部の特定の地区、地域で集会を開いたり、愛と平和を歌い、当時アメリカが深く関わっていたベトナム戦争にも反対していた。やがて、反戦反体制運動にも関わっていくことになる。一方でコミューンと呼ばれる共同体を形成するヒッピーもいた。

67年1月、サンフランシスコのゴールデンゲートパークにおいて、開催されたヒューマンビーイングを発端にサンフランシスコ、ことにヘイト・アッシュベリーはそのヒッピームーブメントの中心地となっていく。67年夏には、全米ばかりか海外からも10万人を超える人々が訪れることがあった。そのヒッピームーブメントは、髪に花をかざして運動を繰り広げたことから、フラワームーブメントなどとも称されていた。そうした動向を促す要因となったのが、実はビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ』だった。

『サージェント・ペパーズ』が発売された6月の16日から3日間、サンフランシスコ郊外のモンタレーにおいて、モンタレーインターナショナルポップスフェスティバルが開催された。後のウッドストックなど、野外でのロックフェスティバル形式、コンサートの発端となった。その主催者は、当時アメリカで人気の絶頂にあったママス・アンド・パパス、サイモンとガーファンクルなどであった。

顔ぶれは多彩であった。話題を呼んだのは、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フーだった。しかも、サンフランシスコのヒッピームーブメント、加えて、それとかかわりのあるロックミュージを含めたアンダーグラウンドカルチャーにメディアが注目し、結果、モンタレーポップスフェスティバルの開催は広くアメリカに紹介された。


ビートルズのすべて 9 愛こそはすべて(1)

2012-05-04 | ビートルズ
久々の「ビートルズのすべて」。9回目は「愛こそはすべて フラワーパワー ヒッピームーブメントとサイケデリックカルチャー」だ。

67年(昭和42年)6月、イギリスとアメリカで発売された『サージェント・ペパーズ』は大きな話題を呼んだ。音楽誌のみならず、新聞雑誌が、絶大な評価を獲得した。同時におイギリス、アメリカではアンダーグラウンドカルチャーが盛り上がりを見せ、その動向を紹介するアンダーグラウンド新聞や雑誌も、すでにボブディランやビートルズを評価していたが、このアルバムを評価した。

リンゴは、「あの『サージェント・ペパーズ』は時代の空気を読んでいた。そして、多くの人たちにやる気を起こさせた」と語っていた。ポールも「あのアルバムは、あの時代の精神と合っていた。僕ら自身があの時代に溶け込んでいた。僕らは時代の中心をねらっていたのではなく、むしろ中心からはずれるところに何かあてはまるものを探していた。あの時代を代表するものの外側にはアバンギャルドな雰囲気があった。それが『サージェント・ペパーズ』に入り込んでいた」という。

当時、いろんなムーブメントがあった。しかし、そのムーブメントに乗っかろうとしていたのではなく、彼らはその一部であった。つまり時代のリーダーではなく、スポークスマンだったのだということを言いたかったのではないか。1967年夏、サマー・オール・ラブとして語られた出来事があった。ヒッピーによるムーブメントはその代表的なものであった。