俳句はかく解しかく味わう」は、俳人の高浜虚子が、100年も前、大正7年1918年4月に、虚子1874年〈明治7年〉 - 1959年〈昭和34年〉数え年45歳の時の作だ。
冒頭、虚子は、徳川初期から、明治、大正の今日に至るまで、多少の盛衰や変化はあっても俳句は要するに芭蕉の文学だと言い切る。そして、時代の頓着なしに数十句の解釈を試みて、俳句の解釈力を養うという事にしようと思うと述べる。登場するのは46人、194句だ。
紹介の句が多いのは、上位から、芭蕉が30、蕪村と子規が26、一茶が20、蕪村の時代の天明の太祇が14、芭蕉の時代の元禄の凡兆が11である。1句のみの紹介が30人いる。
春の水、夏野、五月雨、秋風、冬木立などの季語ごとの比較、最後に蕪村の天明時代の招波、太祇、几薫の句の解説を行う。
巻末の解説は大岡信だ。大岡はこの本が出版された大正7年1918に注目する。虚子は明治大正昭和と徘界の中心にいた。明治35年1902年は虚子の先輩、正岡子規が35歳で亡くなる年。翌年、子規と虚子と同郷の俳人、河東碧梧桐は、子規の芭蕉軽視の考えを俳句形式の破壊まで進めた「新傾向俳句」を打ち出す。当時、俳句より小説に勢力を傾けていた虚子は、碧梧桐の動きに危機感を感じ、大正2年1913、俳壇に復帰する。主宰の「ホトトギス」の「雑詠」欄を武器に「ホトトギス」の黄金期を築くことになる。この「雑詠」欄の選句をもとに、個々の俳人の作家論を、虚子は大正4年から6年まで「ホトトギス」に「進むべき俳句の道」を掲載し、単行本として大正7年7月に世に送る。同年4月に古典俳句の鑑賞と啓もう書ともいうべき本書「俳句はかく解しかく味わう」を出すのだ。
大岡は、その後、昭和10年頃に起こる、虚子の唱導した「花鳥諷詠」を否定する、生活主義ともいえるの「新興俳句運動」や、戦後の「前衛俳句運動」にも言及する。これら俳句革新運動には、いずれも虚子が立ち、虚子の方向性で収れんされていくのだと。
冒頭、虚子は、徳川初期から、明治、大正の今日に至るまで、多少の盛衰や変化はあっても俳句は要するに芭蕉の文学だと言い切る。そして、時代の頓着なしに数十句の解釈を試みて、俳句の解釈力を養うという事にしようと思うと述べる。登場するのは46人、194句だ。
紹介の句が多いのは、上位から、芭蕉が30、蕪村と子規が26、一茶が20、蕪村の時代の天明の太祇が14、芭蕉の時代の元禄の凡兆が11である。1句のみの紹介が30人いる。
春の水、夏野、五月雨、秋風、冬木立などの季語ごとの比較、最後に蕪村の天明時代の招波、太祇、几薫の句の解説を行う。
巻末の解説は大岡信だ。大岡はこの本が出版された大正7年1918に注目する。虚子は明治大正昭和と徘界の中心にいた。明治35年1902年は虚子の先輩、正岡子規が35歳で亡くなる年。翌年、子規と虚子と同郷の俳人、河東碧梧桐は、子規の芭蕉軽視の考えを俳句形式の破壊まで進めた「新傾向俳句」を打ち出す。当時、俳句より小説に勢力を傾けていた虚子は、碧梧桐の動きに危機感を感じ、大正2年1913、俳壇に復帰する。主宰の「ホトトギス」の「雑詠」欄を武器に「ホトトギス」の黄金期を築くことになる。この「雑詠」欄の選句をもとに、個々の俳人の作家論を、虚子は大正4年から6年まで「ホトトギス」に「進むべき俳句の道」を掲載し、単行本として大正7年7月に世に送る。同年4月に古典俳句の鑑賞と啓もう書ともいうべき本書「俳句はかく解しかく味わう」を出すのだ。
大岡は、その後、昭和10年頃に起こる、虚子の唱導した「花鳥諷詠」を否定する、生活主義ともいえるの「新興俳句運動」や、戦後の「前衛俳句運動」にも言及する。これら俳句革新運動には、いずれも虚子が立ち、虚子の方向性で収れんされていくのだと。