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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

漱石 7 野分

2022-04-10 | book
漱石の「野分(のわき)」を読んだ。明治40年1月、漱石40歳のとき「ホトトギス」に掲載された。岩波文庫1941年昭和16年5月第1刷。2016年平成18年11月改版第1刷だ。

明治38年、漱石38歳の処女作長編「吾輩は猫である」。翌明治39年1906年4月に一挙掲載された「坊っちゃん」。そして、同年9月に文芸誌に掲載された「草枕」、同年10月に雑誌掲載された「二百十日」に続く。
明治39年の12月におよそ13日間で書き上げられたという。

野分とは、季語で秋の暴風のこと。野の草を吹き分けるほどの風の意だ。野分のあとの草がなぎ倒されたり庭に物が飛び散ったりと荒々しい様も風情あるものとされてきた。

12の章からなる。

まず、1章で、8年間教師として定着せず各地を転々とし、東京に戻ってきた文学者、白井道也(しらいどうや)が登場する。妻の御政は貧乏な暮らしぶりに道也に不満をぶつける。

2章以降は、旧制高校の同窓生、貧乏苦学生の高柳周作と、会社の社長を父にもつ中野輝一の関係を軸に物語は展開する。2人の性格を口数を聞かぬ、人の交わりをせぬ、円聖歌の皮肉屋の高柳と、鷹揚で円満、趣味に富んだ秀才の中野とする。
中野の結婚、高柳の肺病。11章での道也の人生における金銭と文学の演説がクライマックス。
中野が病床の高柳に、原稿と引き換えに天地療養費用として100円を渡し、高柳は、借金取りに苦しむ道也に、道也の原稿と引き換えに、その100円を渡す。

お金の世の中に対する批評は、「二百十日」から続く。漱石はこの頃、高等学校講師、東京大学講師、 明治大学講師を兼任し、教師の職にあった。しかし、明治40年3月に新聞社に入社し、職業作家として執筆活動に専念することになる。

漱石 6 二百十日

2022-04-03 | book
漱石の「二百十日」を読んだ。岩波文庫1941年昭和16年5月第1刷。2016年平成18年11月改版第1刷だ。

明治38年1905年1月号から翌年8号まで10回にわたり掲載された漱石38歳の処女作長編「吾輩は猫である」。翌明治39年1906年4月に一挙掲載された「坊っちゃん」。そして、同年9月に文芸誌に掲載された「草枕」に続き、同年10月に雑誌掲載された。
明治39年の9月に4日間で書き上げられたという。佳さんと碌さんの2人の会話を中心に展開される阿蘇山の登山旅行記だ。
5つの章からなる。
東京の豆腐屋の息子、圭さんの家族や金持ちに対する憤懣が、嵐の9月2日の二百十日の阿蘇遭難というクライマックスへ導く。第四章。

我々が世の中に生活している第一の目的は、家族や金持ちのような文明の怪獣を撃ち殺し、金も力もない平民に安慰を与えることにあると2人はまた、阿蘇へ。

明治も40年近く過ぎ、制度としての華族制度や資本主義の台頭に取る金持ちの出現。そこに社会批判を試みる漱石の軌跡がある。

漱石 5 草枕

2022-03-27 | book
知人の高浜虚子の俳誌「ホトトギス」に明治38年1905年1月号から翌年8号まで10回にわたり掲載された漱石38歳の処女作長編「吾輩は猫である」。同じく「ホトトギス」に翌明治39年1906年4月に一挙掲載された「坊っちゃん」。そして、夏目漱石が明治39年、39歳の9月に文芸誌に掲載され、数日で売り切れとなった「草枕」を読んだ。岩波文庫1929年昭和4年7月第1刷。2021年平成29年9月第116刷だ。

草枕とは旅でのわびしい宿をいう。13の章からなる。
30代の主人公は画工(えかき、がこう)として、東京を離れ、鄙びた温泉地に逗留する。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世のつきもの。そのような人の世の人情とは別の非人情の世を漢詩の世界を目指し、人の世の非人情が続かぬことをわかりながら暮らす芸術家である。

巻末の注の多さ。中国の漢詩、西欧の詩人や作家、熟語解説、俳句や短歌、ミレーの「オフェリアの面影」など、その博識が随意にちりばめられている。

茶屋のおばあさん、お寺の住職、旅館の那美さんなど、人とのかかわりの中で生きるしかない芸術家の数日。最後には日露戦争出兵の見送りで終わる。



漱石 4 坊っちゃん

2022-03-20 | book
「坊っちゃん」は、当時、知人の高浜虚子の俳誌「ホトトギス」に明治38年1905年1月号から翌年8号まで10回にわたり掲載された漱石38歳の処女作長編「吾輩は猫である」に続き、同じく「ホトトギス」に翌明治39年1907年4月に一挙掲載された。夏目漱石が明治39年、39歳の時だ。岩波文庫1929年昭和4年7月第1刷。2017年平成29年3月第118刷だ。

11の章からなる。第1章で、江戸っ子の坊っちゃんのおいたちが語られる。父母が亡くなり、家長の兄は家の全財産を売り払い九州へ。一人残され、財産の分け前で大学を卒業した23歳の坊っちゃんは、四国の中学教師の口があり、女中の清と別れ、東京を離れることを決意する。
2章からは四国での生活が描かれる。学校でのあいさつ。教頭は赤シャツ、英語教師の古賀はうらなり、数学教師の堀田は山嵐。3章は授業、天婦羅・遊郭団子・温泉赤手ぬぐい。4章 寄宿舎の宿直でのバッタ、天井の寄宿生床板踏み5章は、赤シャツと画学の江戸っ子、吉川野だいことの釣り、6章 山嵐への不信、寄宿生への処分職員会議、7章 下宿屋を変わる、停車場でのマドンナとの出会い。8章 古賀のマドンナとの婚約破棄と九州への転任、9章 山嵐との和解と古賀の送別会。10章 日露戦争祝勝会での師範と中学との喧嘩。仲裁に入る山嵐と坊っちゃん。11章 事件が新聞掲載に。山嵐の辞表提出。山嵐と坊っちゃんの赤シャツ、野だいこ襲撃。東京へ向かう2人。大団円。

これだけの題材が、きっぷのよい文章で次々に繰り出される。江戸っ子の坊ちゃんと会津出身の山嵐。まさに明治維新直後の世相の中で負け組という2人。理屈と打算の新体制への反発も根底にある。清との交流は、第1章から大団円までちりばめられ、孤独で短気な坊っちゃんの心のよりどころとして貫かれている。
解説の平岡敏夫は、「坊っちゃん」はおもしろくて、かなしいという。


長田 弘 詩ふたつ

2022-03-13 | book
詩人 長田弘 詩ふたつ

作曲家の池辺晋一郎(1943年昭和18年生まれ)が新聞の文化欄で紹介されていた。その中で、詩人の長田弘(おさだひろし)の言葉に感銘を受けたと言っていた。

長田弘は、昭和14年(1939年)生まれで、平成27年( 2015年)に亡くなっている。池辺より4つ年上である。

紹介された言葉は二つ。「死者の生きられなかった時間を、ここに在る自分がこうしていまいきているのだ」と詩の一節「幸福はなんだと思うか?」だ。

前者を調べてみると、詩集「詩ふたつ」のあとがきだ。図書館で借りると平成22年(2010年)初版で、見開きの方ページに詩、方ページにクリムトの、樹々と花々の風景画がある本だった。

「詩ふたつ」は、タイトルの通り二つの詩からなり。「花を持って、会いにゆく」と「人生は森のなかの一日」だ。詩なので、文字の頁は、空白が多い。

「詩ふたつ」は2015年刊行の「長田弘全詩集」にもある。2つの詩とも3行ずつ一行開けて掲載されている。

絵で採用されているグスタフ・クリムト(1862年-1918年)は、帝政オーストラリア時代の画家で、金箔を用いた人物画で有名だ。

あとがきに、長田が「できれば、ゆっくりと声にだして読んでください」としている。

クリムトの風景画と空白の多い文字の頁。その空間に思考が交差する時間が心地よい。

究極の俳句

2022-03-06 | book
俳人で芭蕉研究家の高柳克弘の「究極の俳句」を読んだ。昭和55年1980年生まれの高柳が、俳句の本質を若いうちに書いておけと先輩にいわれたと「あとがき」にある。2021年刊行。数々の名句の鑑賞とともに、今の俳句の置かれている現状を明らかにした俳句論。

17音で世界を構築する俳句。序章では、俳人は言葉を信じないという。虚子の「白牡丹」、芭蕉の「蛙」、子規の「柿」。短歌から派生した俳句は、それまでの概念にとらわれていた。

第1章 季語を疑う
芭蕉は、貴族の短歌から、庶民の俳句になったとき、季語を疑った。「桜」、「ホトトギス」、「花の春」。芭蕉は、作り手が季語に異質な言葉をぶつけ、読み手に化学反応を起こさせ、季語に新たな側面を見出させた。それが「取り合わせ」という手法だ。しかし、読み手にはストレスがかかる。そこで近代、虚子は季語そのものを詠む「一物仕立て」の手法を広める。
しかし、高柳は、この「一物仕立て」も「取り合わせ」だという。俳句は、物と物ではなく。言葉と言葉の取り合わせだと。高柳は「季語」を殺すのは、季語を伝統にして、侵すべからざるものにして扱う意思だと言い切る。

第2章 常識を疑う
俳句の俳は、自分ではない別の人を演じるという事だと高柳は言う。そこで、性別、年齢、身分、貧富という人をより分ける常識というラベルは俳句の前では意味をなさないと。
作り手は時に宇宙や地球や動物や植物になる。埃や死までも。それが俳句の読み手のよろこびだとも。俳句は17音しかない短詩だ。つまり、作り手の意思が読み手にダイレクトに伝わることがない。そういう意味で、作り手は常に読み手を意識せざるを得ない。作品は作者だけのものではない。

第3章 俳句は重い文芸である
俳句は季語の他に主題がある。季語と主題の一致する「ホトトギス」は傍流だと。芭蕉の提唱した「軽み」について、表現の重みを避けることと、主題を「重く」ることは別だと。
その主題も「季語」」「風物」「人生」「社会」と変遷してきた。キャッチフレーズや標語の概念も取り込んでよいと。

第4章 重みのある俳句とは その題材
これまで「郷里」も主題だった。現代では「べた」として忌避されそうな四苦八苦や喜び美しさを目出ることを今こそ握り直せ。最近の俳画や写俳、紀行文や小説とのコラボの現状を伝える。

第5章 重荷のある俳句とは その文体
短歌では口語が主流になったが、俳句ではなぜならなかったか。現代では文語は生活から遠い。しかし、今の俳壇では意識的に口語体で書く作者は圧倒的に少ないと。や・かな・けりの切れ字や文語文体の季語との相性の悪さ。そして、17音の短詩において、あっという間に読み終えてしまう危うさを高柳は指摘する。俳句の作品価値は、いかに読者の中に残り続けるかだと。

終章 俳句は時代を超えられるだろうか
芭蕉の頃の俳句と現代の俳句は別物だといわれるかもしれない。しかし、作り手は人間である。時代や環境の変化、作り手の考え方によって俳句は姿を変えることを積極的に評価したいと。俳句の新しさは限界かもしれないが、読むべき主題は限りがない。高柳は主題の新しさの道を二つ提案する。新しい主題を見つけることと、古い主題をもう一度握り直すことだという。

漱石 3 倫敦塔他

2022-02-27 | book
夏目漱石が明治38年から39年にかけて「吾輩は猫である」を連載していた頃に発表した短編の数々。岩波文庫では「倫敦塔 幻影の盾 他五編」(昭和5年1930年1刷)として7編を収録している。2017年平成29年12月第45冊だ。

「倫敦塔」38年1月 
漱石が留学していたイギリスでの話。牢獄でもあり、王宮でもあった倫敦塔。
「カーライル博物館」38年1月 
イギリスで漱石が教わっていたカーライルの想い出
騎士道ものの「幻影の盾」38年4月、
「琴のそら音」38年5月 
友人から日露戦争でなくなった夫のもとに現れた妻の話を聞き、インフルエンザにかかった許嫁のもとを訪れる
「一夜」38年9月
1人の女性と2人の男性の一夜の物語
騎士道ものの「薤露行」38年11月
「趣味の遺伝」39年1月 
日露戦争の凱旋行進が新橋であった。そこに戦死した浩一の面影を見る。墓に参るとそこに一人の女性がいた。

漱石 2 吾輩は猫である

2022-02-20 | book
大正5年1916の漱石の絶筆「明暗」の前の作品、大正4年1915年の「道草」を読んだので、今度は長編「吾輩は猫である」にチャレンジした。「猫」は、知人の高浜虚子の俳誌「ホトトギス」に明治38年1905年1月号から翌年8号まで10回にわたり、掲載された漱石の処女作。1867年生まれの漱石が38歳の時、イギリス留学から帰国(在英中に正岡子規が亡くなる)し、東京で高校と大学の講師をしながら、小説家としての一歩を踏み出した作品だ。「坊ちゃん」は同じく「ホトトギス」に翌明治39年1907年4月に一挙掲載された。
漱石の没後100年を記念し、朝日新聞に漱石の作品を日々掲載していた。猫はその最後の登場となり、2016年平成28年4月から翌年の3月まで224回わたり掲載された。

夜、寝る前に毎日読んだ。日々掲載されているので、毎日、声を出して読んでいますという投書もあった。猫を主人公に、切れとリズムの良い会話と、西洋や禅、論語などあふれ出る教養、個性的な登場人物が魅力だ。


進むべき俳句の道

2022-02-13 | book
1874年〈明治7年〉に生まれ- 1959年〈昭和34〉に亡くなる俳人の高浜虚子は、大正7年1918年6月に「進むべき俳句の道」を出す。大正7年といえば、100年も前になる。虚子の45歳の時だ。

虚子は、主宰の俳誌「ホトトギス」の「雑詠」欄を武器に「ホトトギス」の黄金期を築く。この「雑詠」欄の選句をもとに、個々の俳人の作家論を、虚子は大正4年から6年まで「ホトトギス」に「進むべき俳句の道」を掲載し、単行本として世に送った。同じく大正7年4月に古典俳句の鑑賞と啓もう書ともいうべき本書「俳句はかく解しかく味わう」を出す。つまりこの大正7年は、過去と現在から俳句の今を提唱した時期にあたる。

掲載された雑詠は、明治41年1908年から翌42年の1年間、そして、明治45年(大正元年)から大正4年までの約3年間にわたるものだ。この間の3年間は虚子曰、「まったく俳句界から手を引いて、三猿主義を決め込んでいた」「小説に熱中することができたのは初めの2年間であった」という。
背景には、明治35年1902年は虚子の先輩、正岡子規が35歳で亡くなる。翌年、子規と虚子と同郷の俳人、河東碧梧桐は、子規の芭蕉軽視の考えを俳句形式の破壊まで進めた「新傾向俳句」を打ち出す。当時、俳句より小説に勢力を傾けていた虚子は、碧梧桐の動きに危機感を感じ、大正2年1913、俳壇に復帰する。

虚子はこの4年にわたる雑詠選から、それぞれの俳人の進むべき道を示す。
まず、「緒言」。虚子は「雑詠は虚子が選をするものであるから、虚子趣味以外のものは容れぬのであるという人があるかもしれない」「その作家にはそれぞれの特色があり、一団としてはある一つの方向に進みきったものともいえるが、その中にある分子分子は各々異なった本来の性質をもってそれぞれ歩数を異にしている」「諸君の進みきった道は諸君の進むべき道である」と。
そして、「ホトトギスの雑詠の線をするのは。虚子趣味を推し進めようとするものではない」「諸君をして諸君の道を開拓せしめようとするのである」と。

次の「主観的の句」では、子規の時代を客観描写の時代といい、この客観描写では物足りなくなり、今日、主観句が台頭しているという。具体のホトトギスの雑詠30句をを挙げ、解説を試みる。そして注意すべき点として4つ挙げる。一つは主観の真実なるべきこと、2つには客観写生をおろそかにしないこと。自己の価値ある主幹は、価値ある客観を俟って初めてその真価を発揮すべきであると。3つには素朴とか荘重とかいう言葉を忘れてはならぬ。4つ目は叙する事項は単純であって深い味わいを蔵している句が一番好ましい。俳句は言葉の少ないものであるから、そこを利用してきわめて簡単なことを叙して、しかも裏面には複雑なことを込めることが肝要である。

そして総勢32人の投句者を論じる。俳句解説はもちろん、人となりも述べる。著述者としての虚子のすごさだ。

最後の「結論」で、17文字と季題趣味を2大約束として守れといい、この時代の主観的という句の傾向を子規の客観主義を進めたものとするが、「客観の写生」とう一大事をわすれるなと伝えて終わる。

解説の俳人、岸本尚毅は、虚子の詠み手としてのすごさとともに、読み手としてすごさを指摘し、今日まで、こんなにすごい読み手は出ていないと指摘する。ましてや、虚子は、ホトトギスに寄せる市井の俳人たちを取り上げ、その思考過程を本として刊行し、オープンにしているというのだ。俳句は詠み手と詠み手で成り立つ文学だとする。岸本は、俳句を読むことは詠むこと以上におもしろいとも。また、よき読み手となるには先行する優れた読み手に学ぶのがよいと。

令和3年2021年9月15日に99歳で亡くなった俳人の深見けん二は、晩年、この「進むべき俳句の道」を読み返しては、新しい発見があると言っていたという。けん二は、19歳で虚子に師事した。代表句は「人はみななにかにはげみ初桜」。63歳の時の句だ。100歳を前に、「顕著に現れる日本の四季の中で、心つまり日々の生活が、俳句によって詩として表現できる実感は、何よりも俳句の恩恵であり、百寿を間近にした今でも心の安らぎである」。




漱石 1 道草

2022-02-06 | book
夏目漱石の「道草」を読んだ。102の章からなる。1915年大正4に掲載された新聞小説。
漱石は大政奉還の1867年に生まれる。翌1868年は江戸が東京となり、元号が明治となった。大学の学友、正岡子規も67年生まれだ。
漱石は道草が掲載された翌年、1916年大正5年の12月に49歳で亡くなる。この年の5月に「明暗」が新聞掲載されたが、12月で絶筆となった。

自伝的小説ともいわれ、ヒステリー気味の妻の諍いと、親族からの金の無心に追われる作家の日常を描いた。36歳という設定、学校での教鞭と作家の活動などから「吾輩は猫である」執筆の頃だともいわれている。

まだ江戸の名残の濃い、明治時代の兄弟や妻、妻の父、養子に出されていたころの養父母など、漱石の家族関係が下地となり、そこに借金の無心という共通項が一つの軸。夫婦関係というもう一つの軸が貫く。