雨は上がった。でも空の様子を見ていると、変化が激しく、一度部屋全体が明るくなって
意外と早く晴れ間が出る。これはよかったと思ったが、まーほんのわずかの時間で、いつもと
変わらないといっていい、落ち着かない空の状態に戻った。風と雲、暗雲。
これだけ変化のある空の、雲の状態も珍しい。いっそのこと冬に戻ったほうが落ち着くような
安定するような気さえしてきた。一応この後晴れるはずだが、どうも気配だけで、すぐにいまにも泣きそうな
頼りない空模様がそこにある。見上げると、残念なことに元気がなくなる。
きのういつも木を切ってもらう人と、いえの周りを簡単にどうなっているか見た。いつもは見ないところも
見た。
すると、この木は枯れて、もう倒れるかも知れないな、という木が2本ほど目に入った。新芽が出ていない。
木の根元も土が少ない。横に細いが用水がある。こうゆうものがあると、後から掘ったものなので、木の生長も
おかしくなる。それにしても、昔はどこのいえにもいえの周りに木があったが、みな元気で簡単に枯れる。そうゆう
ことはなかった。どうしていたのだろうか。
ここのいえにも大きなケヤキがあった。二本。それを切ったあとの株は、しばらく見えていたが、いまはわからない。
竹とか他の木がもうその切り株を見えなくしている。で、結局木の上がなくなると、そこから新しい芽が出ることは
まずはない。地下の大きな根っこはどうなってゆくのだろうか。
やはり枯れて腐ってゆくのだろうか。
これまでにどのくらいの木が生えて、どのくらいの木が切り倒されたのか、考えてみるとスケールは大きく
また地中に眠る木もある。そんなことも思う。
ここのいえは、新しく建て直すまでは、昔よく農村であった茅葺のいえで、雨漏りはなかったが、一部か、かなりトタンで
屋根は覆ってあった。あれで、雨漏りはしないのだな。不思議な感じもした。
みな手作りだろうな。それにしては大きな柱もあったし、部屋も大きく、ただがっちりとした仕切りというものは
なく、薄い板で作られた戸で仕切られていた。もっとも、その戸も一枚のスギの木で出来ていると、いいものである
らしく、そこに価値を見出す人もいて、結構な値段になったという。
いえを壊したときのことを私は見ていないが、かなり大変だったのではないか、と思う。周りにも木はあったし
かついえは表側は、そんなに出ていないが裏が空き地は少なく、面積は広く、段があって一部はコンクリートの
土間である。一部は壊れていて、風呂場はもう外と完全に同じ状態で、でもコンクリートで打ってあるところも
あるという、おかしな構造をしていた。
私も若いころは、特に夏場は、五右衛門風呂に入った。夏だから寒くはなかった。ただ釜があるだけで、水道も
そばになく、バケツに水を汲んで髪などを洗っていたと思う。五右衛門風呂だから、薪で焚くわけだが
最初はスギの葉に、火をつけた。スギはよく燃える。ただ臭いはよくはない。スギがなぜ選ばれるか、こうゆう理由も
あったのだなと思う。薪をくべていて、薄い板が張ってあって、そこが五右衛門風呂のあるところ。
冬の時期など、よくそうゆう外と変わらない感じの場所で、風呂に入れたものだと関心。私の記憶はない。
ただもちろん、いつの時代か知らないが、お風呂屋さんはすでにあったし、少し歩けば鉱泉があった。
その鉱泉は有名で、私も二度ほど行った。しょっぱい水、色も茶色。でも身体は温まって、もしかして心臓の弱い人には
危険性があるかな、と思うくらいの効能。
この辺の集落は、昭和20年の富山の空襲で焼けていないので、戦争でみな燃えた中心街とは違う環境だが、
たぶんそのころは、まだ風呂場もそんなボロボロでもなかったのだろう。
いままで社会人になって、二度三度下宿をしたが、風呂のないところは近くにちゃんとした銭湯があった。
さすがに板っ切れ一枚で仕切られている風呂というのは、ここのいえでしか経験はない。
でも、東日本大震災があって、もちろん地震の揺れとか、津波でいえ、建物倒壊して、何にもなくなってしまった
ところは多くあるはずだが、しばらくの間は着の身着のまま。それをなかなか想像出来ない。
何にもなくなってしまった、・・・。
そこからいまがあるが、それにしてもかなりの辛抱強さがないと生きてはこれなかったのではないか。
私の想像はまったくその現実を再現することは出来ない。
別に、それを思い出してこうゆうことを書いているのではないが、最後には最近での極限状態はそこにあって
それはいまも続いている。これは間違いない。
この木は腐っているな、その一言、自分でいった言葉だが、その後はいま、椅子に座っていて、思い出すことを書き、
最後にはやはり東日本大震災のことが思い出されて、災害ならびに事故はいつでも起こる、という緊張感に
包まれる。
きのうに続いて木の様子で、ケヤキとカエデ。いまのところ新しいものはない。
その一。ケヤキだが、葉は大きくなっているが、まだ赤いものも多い。
その二。
その三。この木は絶対に大木にはならない。
で、葉の量も色も変化激しいカエデ。
その四。
その五。ここにはアオキも多い。これも年々大きくなる。
その六。紅葉のようだが葉は小さい。
その七。
その八。
その九。これはいずれ葉は緑になる。
その十。大木。この木も散髪されて、ほとんど葉はなかったが、3、4年たって、ふさふさとした葉が
出ている。でも、なかなか大変な位置にある。
大きな木は、ある程度余裕のある土地にないといけないなー。
今日も頭の回転は鈍く、身体もまだズーンと重い。
意外と早く晴れ間が出る。これはよかったと思ったが、まーほんのわずかの時間で、いつもと
変わらないといっていい、落ち着かない空の状態に戻った。風と雲、暗雲。
これだけ変化のある空の、雲の状態も珍しい。いっそのこと冬に戻ったほうが落ち着くような
安定するような気さえしてきた。一応この後晴れるはずだが、どうも気配だけで、すぐにいまにも泣きそうな
頼りない空模様がそこにある。見上げると、残念なことに元気がなくなる。
きのういつも木を切ってもらう人と、いえの周りを簡単にどうなっているか見た。いつもは見ないところも
見た。
すると、この木は枯れて、もう倒れるかも知れないな、という木が2本ほど目に入った。新芽が出ていない。
木の根元も土が少ない。横に細いが用水がある。こうゆうものがあると、後から掘ったものなので、木の生長も
おかしくなる。それにしても、昔はどこのいえにもいえの周りに木があったが、みな元気で簡単に枯れる。そうゆう
ことはなかった。どうしていたのだろうか。
ここのいえにも大きなケヤキがあった。二本。それを切ったあとの株は、しばらく見えていたが、いまはわからない。
竹とか他の木がもうその切り株を見えなくしている。で、結局木の上がなくなると、そこから新しい芽が出ることは
まずはない。地下の大きな根っこはどうなってゆくのだろうか。
やはり枯れて腐ってゆくのだろうか。
これまでにどのくらいの木が生えて、どのくらいの木が切り倒されたのか、考えてみるとスケールは大きく
また地中に眠る木もある。そんなことも思う。
ここのいえは、新しく建て直すまでは、昔よく農村であった茅葺のいえで、雨漏りはなかったが、一部か、かなりトタンで
屋根は覆ってあった。あれで、雨漏りはしないのだな。不思議な感じもした。
みな手作りだろうな。それにしては大きな柱もあったし、部屋も大きく、ただがっちりとした仕切りというものは
なく、薄い板で作られた戸で仕切られていた。もっとも、その戸も一枚のスギの木で出来ていると、いいものである
らしく、そこに価値を見出す人もいて、結構な値段になったという。
いえを壊したときのことを私は見ていないが、かなり大変だったのではないか、と思う。周りにも木はあったし
かついえは表側は、そんなに出ていないが裏が空き地は少なく、面積は広く、段があって一部はコンクリートの
土間である。一部は壊れていて、風呂場はもう外と完全に同じ状態で、でもコンクリートで打ってあるところも
あるという、おかしな構造をしていた。
私も若いころは、特に夏場は、五右衛門風呂に入った。夏だから寒くはなかった。ただ釜があるだけで、水道も
そばになく、バケツに水を汲んで髪などを洗っていたと思う。五右衛門風呂だから、薪で焚くわけだが
最初はスギの葉に、火をつけた。スギはよく燃える。ただ臭いはよくはない。スギがなぜ選ばれるか、こうゆう理由も
あったのだなと思う。薪をくべていて、薄い板が張ってあって、そこが五右衛門風呂のあるところ。
冬の時期など、よくそうゆう外と変わらない感じの場所で、風呂に入れたものだと関心。私の記憶はない。
ただもちろん、いつの時代か知らないが、お風呂屋さんはすでにあったし、少し歩けば鉱泉があった。
その鉱泉は有名で、私も二度ほど行った。しょっぱい水、色も茶色。でも身体は温まって、もしかして心臓の弱い人には
危険性があるかな、と思うくらいの効能。
この辺の集落は、昭和20年の富山の空襲で焼けていないので、戦争でみな燃えた中心街とは違う環境だが、
たぶんそのころは、まだ風呂場もそんなボロボロでもなかったのだろう。
いままで社会人になって、二度三度下宿をしたが、風呂のないところは近くにちゃんとした銭湯があった。
さすがに板っ切れ一枚で仕切られている風呂というのは、ここのいえでしか経験はない。
でも、東日本大震災があって、もちろん地震の揺れとか、津波でいえ、建物倒壊して、何にもなくなってしまった
ところは多くあるはずだが、しばらくの間は着の身着のまま。それをなかなか想像出来ない。
何にもなくなってしまった、・・・。
そこからいまがあるが、それにしてもかなりの辛抱強さがないと生きてはこれなかったのではないか。
私の想像はまったくその現実を再現することは出来ない。
別に、それを思い出してこうゆうことを書いているのではないが、最後には最近での極限状態はそこにあって
それはいまも続いている。これは間違いない。
この木は腐っているな、その一言、自分でいった言葉だが、その後はいま、椅子に座っていて、思い出すことを書き、
最後にはやはり東日本大震災のことが思い出されて、災害ならびに事故はいつでも起こる、という緊張感に
包まれる。
きのうに続いて木の様子で、ケヤキとカエデ。いまのところ新しいものはない。
その一。ケヤキだが、葉は大きくなっているが、まだ赤いものも多い。
その二。
その三。この木は絶対に大木にはならない。
で、葉の量も色も変化激しいカエデ。
その四。
その五。ここにはアオキも多い。これも年々大きくなる。
その六。紅葉のようだが葉は小さい。
その七。
その八。
その九。これはいずれ葉は緑になる。
その十。大木。この木も散髪されて、ほとんど葉はなかったが、3、4年たって、ふさふさとした葉が
出ている。でも、なかなか大変な位置にある。
大きな木は、ある程度余裕のある土地にないといけないなー。
今日も頭の回転は鈍く、身体もまだズーンと重い。
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