今朝も冷え込んだ朝だった。
バードバスが凍り、水浴びに来たヒヨが戸惑っていた。寒い朝だというのに、シジュウカラ、ヤマガラ、めじろといつもの鳥たちが代わる代わるやってきた。可哀想だったので、氷を割り、タワシで洗い、水を入れ替えてやった。
小鳥たちは寒さ知らずなのか、水に浸かりながら、顔を洗い、次に体を水中に浸し、木の枝で羽をふるわせ、水を飛ばしている。仕草の愛らしさは、見飽きないばかりでなく、「満鉄調査部」のことも忘れさせる。
心を鬼にして小鳥の観察を止め、、昨日の続きにかかる。
「満鉄調査部」と「満鉄」、この組織の巨大さと複雑さを氏が語っている。
・昭和4年に満鉄から独立して財団法人になった 「東亜経済調査局 」 は、昭和13年に南方調査専管を義務づけられた。
・翌14年に、松岡洋右が「大調査部」を発足させるとともに、「満鉄」に戻され、昭和18年には東京支社調査室に一元化されている。
・ただこの間にも、「 満鉄の外務省 」 という性格は維持されたまま、 次第に 「戦略研究所」のような性格も加わった。
・「満鉄調査部」が、「 日・満・支 」 を対象としたのに対し、「東亜経済調査局」は、対象の範囲に制限がなかった。
・例えば、「満鉄調査部」の研究は 「 満・蒙・支」を対象にし、関東軍のロシア志向と平仄が有っていたが、 」
・「東亜経済調査局」の方は、仏領インドシナ、インド、中近東、インドネシアの研究をし、国内に台頭しつつあった 「南進論 」 と歩調を合わせている感があった。
「満鉄調査部」は政友会や関東軍と密接な関係を持ちながら、一方では自由奔放な社風があった。
・「満鉄調査部」ほど平社員に進言させ、反抗を許し、時には下からの声によって、社是を変更した会社も珍しいであろう。
・特徴の一つは自由な空気であるが、これは「満鉄」全体にも言えることである。この空気は指導者たちが許容したというより、社員の方が醸成し、継承してきたと言うべきである。
・それは多分に会社の性格、あるいはその歴史的位置からきていると思われる。
その歴史的位置について、氏が次のように説明する。
・当時の青年社員にとって、満州は、「永遠の白図 」であったのでは ないかと思う。ある者はその白図の上に国家を置き、ある者は搾取なき経済社会を描こうとした。またある者は、民族協和の姿を描こうとした。
・この白図の精神は、調査部たると、地方部たると、はたまた鉄道部たると興業部たるとを問わなかった。
政治家や軍人ばかりでなく、青年社員たちも、そして朝日・毎日など国内の新聞各社も挙って満州の夢を描いた。このような事実を知ると、
「満州国の推進をしたのは、軍部の独走だ。」
と、敗戦後に先頭に立ったマスコミ各社へ疑問がまた一つ生まれる。
氏の語る当時の国際情勢を読むと、ひとり日本が侵略に走ったという戦後の言論にも疑問符が付く。
・揚子江の流域に、最初に国旗を立てたのはイギリスだった。
・1842 ( 天保13 ) 年、イギリスはアヘン戦争を起こして南京条約を結ばせ、上海他4港にユニオンジャックをはためかせた。
・1890 ( 明治23 ) 年に、英支通商条約を結んで重慶の門戸を開かせ、同時に四川省の調査権を獲得している。
・ここまでがイギリスの最盛期で、それから次第に列強の追い上げに会い、1914 ( 大正3 ) 年に第一次世界大戦が勃発するや、海軍力の不足と資金力の枯渇により、シナ貿易から著しく後退する。
・代わってアメリカと日本が、一位二位を争うデッド・ヒートを演ずるに至る。
・大正5年の貿易統計では、日米が伯仲し、香港を除いたイギリスは第3位に転落している。
米英日が目の色を変えて争った理由は、貿易取引額の一番大きな国が、税関の最高位の総税務士の選任権を手にし、シナ海の関税事務の統括権が手中に収められたためだ。
貿易の次に、氏が鉄道について語る。
・鉄道を抑えるものは、その国を抑えるという力の原則が明白だった。
・アメリカ、日本についで、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、ベルギーが、中国の鉄道利権をめぐって、火花を散らしていた。
・大正6年当時、列強が中国から奪った鉄道敷設権は、約二万キロに及んでいる。
「眠れる獅子」 と呼ばれていた中国は、為されるがまま列強に切り刻まれ、蹂躙されていた。
日露戦争後は政府でも軍でも民間でも、「満州経営」という言葉がはやるようになっていた。この言葉を、最も忌み嫌ったのが伊藤博文公だった。明治39年に、西園寺内閣が満州に関する協議会を開いたとき、児玉源太郎参謀総長に、伊藤公が厳しく反論したという。
・余の見る所によると、参謀総長等は、満州における日本の地位を根本的に誤解しておられるようである。
・満州方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、すなわち遼東半島租借地と鉄道の他は何もないのである。
・「満州経営」という言葉は、戦時中からわが国人の口にしていたところで、今日では官吏は勿論、商人などもしきりに説くけれども、満州は、決して我が国の属地ではない。
伊藤公が正論を堂々と述べたと知って驚き、感動もした。公は、元勲と呼ばれるにふさわしい見識の持ち主だったと思う。
・満州は、純然たる清国領土の一部である。
・属地でもない場所に、わが主権の行わるる道理はないし、拓殖務省のようなものを新設して、事務をとらしむる必要もない。
・満州の行政責任は、よろしくこれを清国に負担せしめねばならぬ。
当時はこうした伊藤公の正論と、「十万の流血と二十億の国帑 ( こくど ) 」という日露戦争の代価として満州を考える意見が拮抗していたと言う。
伊藤公は、朝鮮併合についても反対論者であったのに、事情を知らない安重根が暗殺してしまった。歴史の皮肉としか言いようがないが、朝鮮のためにも中国のためにも、惜しい人物を失ったものだ。
この後大正4年に結ばれた「対華二十一か条」について、もし伊藤公が生きていたら、何と言って反対したことだろう。
破竹の勢いで国力を伸張した日本が、力で中国や列強をねじ伏せていく姿は、素晴らしいというよりむしろ傲慢で醜い。調印された5月9日を中国が「国辱の日」と呼んでいるが、列強の仲間入りをし得意になった日本の姿が残念でならない。
氏が語る事実は沢山あるが、上巻についてはこのくらいにする。
昨日図書館へ行き下巻を見つけたので、借りてきた。上巻は別の図書館の廃棄図書だったので、念のため聞いてみた。
「この本は、廃棄図書にしないのですか。」
「うちの図書館には、一冊しかない本です。一冊しかない本は貴重なので、廃棄処分にはしません。」
ということで、貴重な下巻を明日から読むこととする。
大事なことを言い忘れていた。
「力は正義なり」と言う国際社会だが、力で中国や列強をねじ伏せていった日本の姿は、素晴らしいというよりむしろ傲慢で醜くかった。強国から弱者に転落した日本が、中国や韓国から手痛いしっぺ返しされるのは当然の話だろう。
伊藤公の言葉を思い出しながら、傲慢だった過去を検討・反省するのは大切だと思う。だが自国内での検討や反省をしても、外部に向かい、戦争の反省を一方的に語るのは間違いでないのかと思う。
今の私が司馬遼太郎氏に言えることは、次の二つだ。
1. 昭和の前半が日本の歴史の中で断絶した、異常な時代だったのではありません。
2. 異常だったのは、国民が国を大切にする心を失った敗戦後の70年なのです。
司馬氏のように知識がなくても、これが庶民の常識で、国際社会の常識ではないのか。戦争に負けたからと言って、敵国の言うなりに自分の国を酷評する国民がどこにいるのだろう。
なりました。恐らく、軍隊で大変いやな目にあったのではないか と想像します。
しかし、湾岸戦争の折に、イギリス人との対談で、
「日本もドイツも、この戦争に国庫が空になるまでつぎ込めばいい」と、滅茶苦茶なことを。
その時以来、本は面白いけれど、人間に大きな疑問を感じました。日本を一流国家と評していて、反日ではないのでしょうけれど、やはり「左翼」になりますか。
異常なのは戦後の70年、とおっしゃるOneCat01さんに同意します。
可愛い小鳥達の様子を見にまた、伺います。
私の所にはシジュウカラとスズメが今、よく来ます。
私を見ると相変わらず一目散に逃げて行きます。
お久しぶりですね。
司馬氏のファンでしたから、氏の作品はほとんど読みました。会社勤めをしていましたので、図書館で借りるなんて面倒なことをせず、本屋で目に付いた本を買ってきたものです。
けれども今は、氏の言葉に首をかしげております。反日とは言えないのでしようが、日本を嫌悪する不思議な人物です。
こういう人は、国際社会の非情さや不条理を勉強していないのではないかと、そんな気が致しております。片や「世界に冠たる日本」と、熱狂する自称愛国者の人間もいます。
右も左もこうして熱に浮かされた人々は、国益を損なう人間ですから、社会的には少数者であってほしいものです。静かに国を思い、歴史やご先祖様を大切にする中庸の庶民こそが、国の宝です。
そんな庶民になりたいと、読書をする私なので、貴方の言葉は心に沁むものがあります。
猫庭の鳥は、本当に可愛いのです。バードバスを買って良かったと、文句無しに思います。最近はスズメたちも来るようになりました。スズメは、とても警戒心が強く、気配を感じると一目散に逃げます。
しかしシジュウカラは相変わらずで、私が近くにいても、リースにしたピーナツを突いて食べております。
私の田舎では満鉄と言う言葉さえ聞くこともなく大人になってようやく知ったというところです。
朝鮮からの引揚者に3才上の意地悪がいまして、この所為で私の朝鮮嫌いが始まりました。
司馬遼太郎については、竜馬がゆく で知ったぐらいで他の書籍は余り読んでいません。
文学界に日本嫌いの左翼思想が多いのは何故でしょうか ?
どんな高潔な人であろうと生まれた国 日本を貶め日本を蔑む者は認めません。
我が国の安全を損ない国防に否定的な人間は仲良くしていても離れる対象です。
祖国を愛せぬ者に友情を育むことはできません、いづれ別れる相手と認識しています。
相対する人間に対する私の譲れぬ信念です、
onecat01さんのぶれない信念に敬意を表します、今後ともご指導の程よろしくお願い致します。
忙しい中、コメントを有難うございます。
たとえ対立する意見を持つ人でも、自分の国を大切にする人の言葉なら、私は真摯に受け止めます。
しかし、生まれた国を憎む人や蔑む人とは、相容れません。
どこの国の本だったか忘れましたが、ヨーロッパの話でした。沢山の国の人間が乗っている船に、孤児が一人いました。親切な大人がいて、その子に気をかけ、食べ物を分けてやつたり、お金を渡したりします。
子供は感謝し、その大人を好きになります。
ところがその大人が他の乗客と話しているうちに、その子の国を蔑んで笑います。
するとその子は、悲しそうな顔で大人を睨み、ありったけの声で叫ぶのです。
「僕の国をそんな風に言う奴なんて、大嫌いだ。」
そう言って子供は大人にもらったコインを、力いっばい甲板に叩きつけ、コインは海に落ちてしまう。
正確には覚えていませんが、そんな短い話でした。今でも、その話を思い出すと、少年の熱い心に、愛国心の原点を見る思いがします。たとえ国は違っても、庶民は皆同じなのですね。
だから私は、本当は、中国や韓国・北朝鮮についても悪し様に言いたくないのですが、彼らの方から攻撃してくるのですから、致し方なしと諦めております。