ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

文庫本の2冊目 ( 最後まで戦った日本人たち )

2014-08-24 06:39:05 | 徒然の記

 2冊目の内容は、下記3編である。

   1. 東京空戦機 (寺村純郎)  厚木302部隊・海軍大尉

   2.戦艦大和と共に (森下久)  大和・機銃員

   3.日本撃墜王 (赤松貞明)   厚木302部隊・海軍中尉

 東京が米軍の無差別爆撃を受けていた時、日本は為すことも無かったのだと、今までそう思ってきた。しかし寺村氏の手記で、空を守る軍人たちの死闘があったことを、教えられた。

    大東亜戦争の初め、零戦は世界一の戦闘機だった。速度、滞空時間、武器の性能と、どれを取っても抜きん出た性能で、敵を恐れさせ、乗っているパイロットも、鍛え抜かれた歴戦の強者たちだった。

 しかし戦争末期になると、零戦を上回る性能へと改良された米軍機が、五百機千機と投入され、次第に零戦を食い物にして行く。零戦は撃墜され、破壊され、ベテランの飛行兵たちが命を落とす。ついには敵の500機対し、日本の爆撃機は100機、80機、20機と数が減る。生産は勿論、修理も間に合わなくなっていく。

 投入される兵も、次第に粗製濫造になる。やっと飛行機に乗れる程度の素人が増え、一層敵の餌食となって行く。こうなるともう悪循環で、爆撃機を飛ばしても、戦果につながらなくなってしまう。アメリカのB29 と零戦の大きさを比較すると、ライオンと子犬ほどの差があったことも、寺西氏の手記で知った。

 爆弾を多量に積んだB29は、必ず小型戦闘機に守られ、これがまた数においても、性能においても、零戦を上回る攻撃力だ。何度も交戦状態になりながら、B29の首都爆撃を許してしまう無念さが、悲痛な言葉で書かれている。少し長いけれど、氏の言葉を書き記してみたい。

 「戦果の少なく、犠牲の多い戦いであったが、刀折れ矢尽きるまで、私たちは闘い抜いた。」「戦いに勝てそうもないことは、とっくの昔に分かっていた。」「後から後から襲ってくる、敵機の数。」「その優秀な性能。とても敵すべき相手ではなかった。」

 「我々は力の限り闘い、そして次々に死んで行った。」「われわれの任務であった、東京の防衛はどうであったか。」「東京は、既にその大部分が焦土となってしまった。」「われわれがB29を、1機2機落としたと喜んでいる真下では、数万の住宅や、工場が燃えていたのである。」「一面、紅蓮の火の海だ。」

 「飛行場では、飛行機の残骸が並んでいる。」「今の私は、操縦桿を握れぬ、戦闘機乗り。翼をもがれた鳥だ。」「だが私たちは、闘えるだけは闘ったのだ。このうえ、自分たちに、何が出来たのだろう。」

 偶然に生き残った彼は、無惨な飛行場眺めつつ涙している。
この本が、本物か偽物かと疑った自分を、恥じたくなった。氏もまた、私たちを命がけで守ってくれた恩人の、一人だった。氏への共感と、詫びの気持ちが重なるためなのか、こぼれてくる苦い涙がある。

 「日本撃墜王」を書いた赤松貞明氏も、同じく海軍航空兵だ。350機を撃墜した記録を持つ、ベテラン兵である。

 自慢話では無く、記録を支えてくれた優秀な整備兵や、同僚や上官たちのことが綴られている。語り口は異なっていても、最後には寺村氏と同じ無念さで終わっていた。

 大和の乗員だった、森下氏の言葉の悲痛さは、長くなっても書き写しておきたいものがある。

 「敵機の来襲はひっきりなしなのに、なぜに味方機は来ないのか。」「基地航空隊は、いったい何をしているのであろうか。」

 「栗田艦隊が、敵機の攻撃から一旦退避し、再挙を計らんとする計画も、豊田長官の命によって、自滅に等しい行動をとるこことなった。」「私たちは、この無謀なる豊田長官の命に対して、心からの反発を感ぜずにおれなかった。」「機動部隊を攻撃せずして、わが艦隊の作戦が成功する訳がない。内地の陸上にいて、現在のこの戦況が分かるはずがないのだ。」

 昭和19年10月の叙述だが、当時の日本では、立ち向かえる爆撃機も兵も底をついていた。寺西氏と赤松氏の手記を読めば、大和から発している森下氏の叫びの哀れさが一層分かる。

 戦争を批判した人間と、戦争を受け入れてた戦った者と、どちらが善であり悪なのかと、あるいはどちらが正であり、邪なのかと、そうした私の問いかけは無意味だと分かった。どのような手記を残そうと、いずれも日本人だと理解した。大切なことは、一つだ。

 父や母と、祖先の住む土地である自分の国は、愛する妻子が生きる場所でもあるから侵略されたら守るということ。日頃は不平不満を並べていても、いざとなったら覚悟のできる日本人であること。これが大切なのだ。

 だからこそ私は、朝日新聞のような反日の新聞を憎まずにおれない。国のため命を捨てた先人を貶める左翼を、許す気になれない。どんな本を読もうと結論は同じで、今日も私はそれを再認識した。

 こんな自分は、頑迷固陋と言われるのだろうか。

コメント (11)
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