クマバチが、玄関に巣を作り出した。ドアーの横においた植木の葉陰に、いつの間にそんな手仕事を始めていたのか、小さな巣があった。
庭に咲いたバラの花に、数日前から訪れているクマバチのものだ。スズメバチなら危険きわまりないので、市役所のベテラン職員が即座に撤去してくれるが、クマバチの巣だと相手にされないから、自分で始末するしかない。
インターネットで調べてみると、巣作りはオスの蜂が単独でやり、子を産み育てるのがメスだという。巣を作るオスはおとなしいが、子育てするメスは、人を攻撃することがあると、注意書きがあった。スズメバチみたいに大きく派手な模様の巣でなく、大人の握り拳大の巣は、素焼きの土器を思わせる素朴さがある。
半分作りかけで、まるでお椀を伏せたような形で枝から下がっている。
もともとミツバチとは共存する気でいるから、場所が玄関でなければ、このままにしておきたいところだ。しかし毎日出入りするドアーのすぐ横では、メスに刺される可能性が高い。
手慣れた市役所の職員でもない私に対し、家内は、すぐに取り除いてくれと、無理な懇願をする。我が家の庭は玄関と反対側にあり、一般的に言えば裏庭ということになるのだろうが、妻も私も裏庭なんて、そんな侘しい言葉は使わず、何が何でも「うちの庭」と呼ぶ。
さてクマバチは、せっせとその「うちの庭」と、玄関とを往復しながら、巣作りに励んでいる。
もし巣を取るとすれば、ハチが「うちの庭」へ、飛んで行った隙間を狙うしかないのだが、なかなか決心がつかない。
「うちの庭」の害虫なら、市の職員に負けず、手際よく捕まえ、迷うことなく殺せるのに、ミツバチとなるとそうはいかない。何日かけて、巣の半分を作ったのか知らないが、孤独な作業を黙々と続けているオスに、私はなぜか自分を重ねて眺め、見るほどに同情心が高まってきた。
庭の草むしりをしたり、枯れ葉を集め、ゴミ袋に入れたりしながら、時間が経過し、やっと決心をしたのは、夕方近くだった。
高切り鋏で、枝ごと一気に巣を切り取り、大きな紙袋に入れ、他のゴミと一緒に物置へ運んだ。
再び玄関へ戻ると、クマバチのオスが、しきりと巣を探していた。心の痛みを抑え眺めていると、ハチは巣のあった枝ばかりでなく、すべての枝を確かめるように飛んでいる。捜索の範囲を広げつつ、玄関のあたりを何度も旋回し、消えた巣を無心に探している。
それでもやがてハチは、巣の無くなった事実に得心したのか、暮れ方の空へ飛び去って行った。玄関の窓を上へと飛び、屋根を越え、小さくなるクマバチを見ていると、涙が出そうになった。
虫には、感情など無いという気でいたが、どうもそうではなかったようだ。
巣を探す懸命さ、見つからなかった時の失意の様子、どうにもできなくなった諦観の風情・・と、ハチの思いが伝わってきた。
庭いじりの楽しみの合間には、こうした悲しみと言うか、やるせなさとでも言うのか、そんなものもどうしても生じる。だからと言ってこの私が、虫にまで思いやりをする、優しい人間だと、そんな自惚れはしない。
容赦なく殺しているバッタや、青虫やカナブンだって、同じ虫なのに、ミツバチにだけ思い入れをしているのだから、これこそ、身勝手な人間の見本というものだろう。
だから今日は、事実だけを記録することとしたい。
既に半月も前のことなのに、今でもハチの姿が、痛みとなり残っているという、この事実だけを。