川上未映子著 文学界、文藝春秋
時折、過剰に饒舌な文章に出合う。読点(、)で繋いで、長々と続く切れ目のない文章のことである。
それは、実験的な小説であったり、作家の奇を衒った企みであったりするが、日本語としては正当だとは思えないので、生理的に苦手である。
だから、町田康や阿部和重、それに蓮実重彦(元東大総長)にしても、読み始めてもなかなか完読できなかった。
本書は、平成19年度下期、138回芥川賞受賞作である。
この小説も、行変えの少ない、切れ目のない長い文章である。大阪弁が時折挟み込まれている。作者は大阪出身で、歌手活動も行っている。
こう書くと、町田康の女性版ではないかと思ってしまうが、決してそうではない。
文を句点で切らずに連続させるのに、せっかちに言葉がぽんぽんと出てきているといった、急いた感じはないのである。むしろ、のんびりとした印象すら受けるのである。
これは作者が女性であるというのと無縁ではないだろう。長いのに、文が柔らかいのだ。それに、文章は乾いているのに、発想が女性特有の生理的な妖しさを孕んでいる。
だから、饒舌な文体は苦手なのだが、すんなりと読めたのだった。
内容は、大阪から上京した母(姉)と娘(姪)のことを、二人を迎えた妹(姪からすれば叔母)を中心にそえて語る話なのだが、何か起こるわけではない。その母(姉)は豊乳手術を受けに上京したのだが、娘(姪)は反対の考えなのだ。
冒頭、いきなり卵子の話から始まるのは、女性の乳房の整形、生殖器に関連する話だからである。しかし、小説としてはかなり奇形である。
話は、脈絡ないように進むが、著者はかろうじて塀の上から落ちないで渡りきる。それに、娘の文は○で別枠にしているという、素人並みの構成である。
それらが、著者の綿密な計算の上か偶然かは判断が難しいと思わせるほど、危うい文章であり拙く見える構成である。
そもそも長々と続く文章は、狡猾か幼稚かである(と私は勝手に思っている)。
それでも、何かがあると思わせるのだから、奇妙な小説である。
時折、過剰に饒舌な文章に出合う。読点(、)で繋いで、長々と続く切れ目のない文章のことである。
それは、実験的な小説であったり、作家の奇を衒った企みであったりするが、日本語としては正当だとは思えないので、生理的に苦手である。
だから、町田康や阿部和重、それに蓮実重彦(元東大総長)にしても、読み始めてもなかなか完読できなかった。
本書は、平成19年度下期、138回芥川賞受賞作である。
この小説も、行変えの少ない、切れ目のない長い文章である。大阪弁が時折挟み込まれている。作者は大阪出身で、歌手活動も行っている。
こう書くと、町田康の女性版ではないかと思ってしまうが、決してそうではない。
文を句点で切らずに連続させるのに、せっかちに言葉がぽんぽんと出てきているといった、急いた感じはないのである。むしろ、のんびりとした印象すら受けるのである。
これは作者が女性であるというのと無縁ではないだろう。長いのに、文が柔らかいのだ。それに、文章は乾いているのに、発想が女性特有の生理的な妖しさを孕んでいる。
だから、饒舌な文体は苦手なのだが、すんなりと読めたのだった。
内容は、大阪から上京した母(姉)と娘(姪)のことを、二人を迎えた妹(姪からすれば叔母)を中心にそえて語る話なのだが、何か起こるわけではない。その母(姉)は豊乳手術を受けに上京したのだが、娘(姪)は反対の考えなのだ。
冒頭、いきなり卵子の話から始まるのは、女性の乳房の整形、生殖器に関連する話だからである。しかし、小説としてはかなり奇形である。
話は、脈絡ないように進むが、著者はかろうじて塀の上から落ちないで渡りきる。それに、娘の文は○で別枠にしているという、素人並みの構成である。
それらが、著者の綿密な計算の上か偶然かは判断が難しいと思わせるほど、危うい文章であり拙く見える構成である。
そもそも長々と続く文章は、狡猾か幼稚かである(と私は勝手に思っている)。
それでも、何かがあると思わせるのだから、奇妙な小説である。
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