アンソニー・ミンゲラ監督 マット・デイモン ジュード・ロウ グウィネス・パルトロウ 1999年米
ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』の、リメイク版である。というより、『太陽がいっぱい』の基になったパトリシア・ハイスミスの原作を、忠実に映画化したものである。原作のタイトルも、この『リプリー』と同じ「The talented Mr. Ripley 」。
アメリカの青年トム・リプリーは、ふとしたことから知り合った大富豪からイタリアに行っている息子ディッキーを連れ戻してほしいと頼まれる。イタリアに行ったリプリーは、そこで享楽に身を任せているディッキーに会う。ディッキーには、恋人がいて、奇妙な3人の関係が続く。そして、リプリーは、ディッキーを殺す羽目になる。
『太陽がいっぱい』の制作は1960年だから、約40年が経っている。時代設定は、『太陽がいっぱい』の頃と同じ1958年。舞台はイタリアの港町。
どうしても、『太陽がいっぱい』を意識して見てしまう。
主人公の貧しい青年の役が、アラン・ドロンからマット・デイモンに。あの野卑な美しさを持っていたアラン・ドロンの役が、何を考えているのか分からないさえない眼鏡の男に変わっている。
大富豪の息子の役が、アンニュイな雰囲気を醸し出していたモーリス・ロネから、美男子ではあるがロネから哀愁を取り除いた感じのジュード・ロウへ。
ディッキーの恋人が、優美さを秘めたマリー・ラフォレから、セクシーさを感じさせない神経質そうな女グウィネス・パルトロウへ。
フランス映画からアメリカ映画に変われば、こうも変わるものかと最初、落胆した。大まかな筋立ては同じだが、何もかもが変わっていた。
しかし、ディテールは、細やかな計算が施されていて、殺人や人間関係の布石が、随所に散りばめられていた。最初の舞台、モンジペロからナポリ、ローマ、ヴェネチアとまわるロケーションで、イタリアの街を見せるサービスも怠りてはいない。
ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』は、一人の若者の嫉妬や野望からの殺人で、最後は金も恋人も手にしてしまう。と思われたが、それは儚い夢に消えてしまう、という余韻を持った設定で終わる。
この『リプリー』は、若者の心理的、同性愛的愛憎での殺人劇が展開され、サスペンスになっている。若者の野望はここでは顕著ではない。そして、最後に金や女を手に入れるわけではない。21世紀の現代に通じる、若者の精神的屈折と異常性による殺人と思えるものになっている。
つまり、『太陽がいっぱい』の1960年といえば、夢や野望が持てた時代であった。しかし、時代設定は同じとはいえ、『リプリー』の1999年は、目的や代償が不透明な殺人が行われる時代なのである。
『リプリー』を見ていくうちに、『太陽がいっぱい』と違う映画だということが分かってきた。そして、この映画が、『太陽がいっぱい』のリメイク版ではなく、独立した個性を持った映画だと思った。
『太陽がいっぱい』にとらわれなく、白紙の状態で見ていたなら、きっともっと感動したであろう。そして、この配役も、それはそれで相応しいであろうと思われた。
主人公のトム・リプリーが、美男子である必要はないのだ。むしろ、そうでない普通の男である方が、あり得る状況である。
しかし、この『太陽がいっぱい』で、アラン・ドロンは人気と名声を不動のものにした。映画の作品も、名作に名を連ねられた。ニーノ・ロータの音楽も映画音楽の中の不朽の名曲となった。
やはり、最後まで『太陽がいっぱい』にとらわれてしまう。
*『太陽がいっぱい』は、2005年10月25日のブログ、参照。
ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』の、リメイク版である。というより、『太陽がいっぱい』の基になったパトリシア・ハイスミスの原作を、忠実に映画化したものである。原作のタイトルも、この『リプリー』と同じ「The talented Mr. Ripley 」。
アメリカの青年トム・リプリーは、ふとしたことから知り合った大富豪からイタリアに行っている息子ディッキーを連れ戻してほしいと頼まれる。イタリアに行ったリプリーは、そこで享楽に身を任せているディッキーに会う。ディッキーには、恋人がいて、奇妙な3人の関係が続く。そして、リプリーは、ディッキーを殺す羽目になる。
『太陽がいっぱい』の制作は1960年だから、約40年が経っている。時代設定は、『太陽がいっぱい』の頃と同じ1958年。舞台はイタリアの港町。
どうしても、『太陽がいっぱい』を意識して見てしまう。
主人公の貧しい青年の役が、アラン・ドロンからマット・デイモンに。あの野卑な美しさを持っていたアラン・ドロンの役が、何を考えているのか分からないさえない眼鏡の男に変わっている。
大富豪の息子の役が、アンニュイな雰囲気を醸し出していたモーリス・ロネから、美男子ではあるがロネから哀愁を取り除いた感じのジュード・ロウへ。
ディッキーの恋人が、優美さを秘めたマリー・ラフォレから、セクシーさを感じさせない神経質そうな女グウィネス・パルトロウへ。
フランス映画からアメリカ映画に変われば、こうも変わるものかと最初、落胆した。大まかな筋立ては同じだが、何もかもが変わっていた。
しかし、ディテールは、細やかな計算が施されていて、殺人や人間関係の布石が、随所に散りばめられていた。最初の舞台、モンジペロからナポリ、ローマ、ヴェネチアとまわるロケーションで、イタリアの街を見せるサービスも怠りてはいない。
ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』は、一人の若者の嫉妬や野望からの殺人で、最後は金も恋人も手にしてしまう。と思われたが、それは儚い夢に消えてしまう、という余韻を持った設定で終わる。
この『リプリー』は、若者の心理的、同性愛的愛憎での殺人劇が展開され、サスペンスになっている。若者の野望はここでは顕著ではない。そして、最後に金や女を手に入れるわけではない。21世紀の現代に通じる、若者の精神的屈折と異常性による殺人と思えるものになっている。
つまり、『太陽がいっぱい』の1960年といえば、夢や野望が持てた時代であった。しかし、時代設定は同じとはいえ、『リプリー』の1999年は、目的や代償が不透明な殺人が行われる時代なのである。
『リプリー』を見ていくうちに、『太陽がいっぱい』と違う映画だということが分かってきた。そして、この映画が、『太陽がいっぱい』のリメイク版ではなく、独立した個性を持った映画だと思った。
『太陽がいっぱい』にとらわれなく、白紙の状態で見ていたなら、きっともっと感動したであろう。そして、この配役も、それはそれで相応しいであろうと思われた。
主人公のトム・リプリーが、美男子である必要はないのだ。むしろ、そうでない普通の男である方が、あり得る状況である。
しかし、この『太陽がいっぱい』で、アラン・ドロンは人気と名声を不動のものにした。映画の作品も、名作に名を連ねられた。ニーノ・ロータの音楽も映画音楽の中の不朽の名曲となった。
やはり、最後まで『太陽がいっぱい』にとらわれてしまう。
*『太陽がいっぱい』は、2005年10月25日のブログ、参照。