男と女の関係は難しい。お互い夢中になっている時は、いい。相手も応えてくれる。例え相手にその気がなくても、こちらが夢中であれば、その熱意が伝わり、相手も次第に熱くなってくれることもある。
いや、思いが一方的であればあるほど、相手が振り向いてくれるよう、あらゆる努力をいとわない。最初は素知らぬ顔していた相手が、やっと振り向いてくれた時の悦びは他に代えがたい。
熱量の大きさは、必ず対象を少なからず動かすものである。
そして、二人の熱々の時が過ぎゆく。いつも相手のことを思い、会っているときはいい。
しかし、なおざりにすると、すぐにそれは気づかれてしまい、相応のしっぺ返しを食う羽目になる。
男と女の関係は、適当に付きあうと、適当な仲にしかならない。熱くもならないし、深くもならない。こちらが熱くならなければ、相手の熱も上がる道理もなく、例え上がっていたものでもそのうち下がるというものだ。
*
多摩の音楽教室のピアノの演奏発表会があった。生徒の発表演奏のあと、ピアノとヴァイオリンの先生の合奏があるというので聴きに行った。
発表会は、幼稚園の年中者から始まった。椅子に座っても、もちろんペダルに足が届かない、つい最近までお母さんのおっぱいをしゃぶっていたような子どもだ。でも、堂々と弾きこなした。
次の子は小学5年生で、モーツアルトのピアノソナタを弾いた。次は、小学6年生で、ブラームスの二つのラプソディー。小学生とは思えない、メリハリもあり力強い。
最後は、中学3年生で、もう体格も大きい。彼女が弾くのは、パンフレットには、ベートーベンのピアノソナタ第17番、ニ短調、第3楽章とある。弾き始めるや、音がこぼれるように会場に流れた。すぐに聴いた曲だと分かった。だが、しばらく何の曲だか思い出せない。しかし、それは心に迫った。
何と、それは「テンペスト」だった。哀しくも情熱的な曲だ。演奏には、もう男女の機微を知っているような、年齢を超えた情感があった。僕は、我を忘れて聴きいった。
かつて、付きあっていた女性がピアノを習っていて、今度ベートーベンのピアノソナタ「テンペスト」を発表会で弾くの、と言った。その時彼女に、いい曲だから聴いてみてと言われて、その足でレコード店に行った。
その頃の僕は、まったくといっていいほどクラシックを知らなくて、詳しく訊くのが恥ずかしいものだから、ピアノソナタの10番を買ってきた。ベートーベンの棚を探して、「テンペスト」のタイトルが見つからず、テンだから10番に違いないと思ったのだ。すぐに彼女に訂正され、それで「テンペスト」を知ったのだった。そのことが原因ではないのだが、その女性とはほどなくして別れることになった。
話は、脇道にそれてしまった。
発表会は、みんな素晴らしい演奏で、技術も驚くほど高かった。
発表の演奏が終わった後、先生が発表演奏した生徒に一人ひとり、好きな曲は?等々、インタビュー風に質問した。
小6の女の子の場合は、
「練習時間はどのくらい?」
「1日3時間ぐらい」
「将来は何になりたいですか?」
「音楽の先生」
中3の女の子の場合は、
「練習時間はどのくらい?」
「秘密」
「将来は何になりたいですか?」
「分かりません」
演奏しているときとはうって変わって違って、みんな質問には小さい声でやっと答える。耳を澄まして何とか聞こえてくる程度だ。ナイーブなのだ。
練習時間は、小学6年生で1日3時間だ。「秘密」と言った中学生はもっと多いかもしれない。将来は分からないとは、実に微妙に正確な答えだ。多感な時期なのだ。夢みる頃でもあるのだ。将来のことを考えると、揺れ動いているのかもしれない。もちろん、きっとピアニストになりたいのだ。それも、テレビやCDなどで知っている世界的な演奏者に。しかし、乗り越えなければならない、その壁の大きさも見え始めた年頃なのだ。
ピアノとヴァイオリンの先生の合奏は、言わずもがな、みんなを堪能させた。子どもたちのためのディズニーやスタジオジブリのメロディーはお愛嬌だけど、ラルゴの「ヘンデル」の技巧的演奏には、目(耳)を凝らした。
*
人は、必要なことに時間を使う。そして、好きなことに時間を注ぐ。それは、その人の注ぐ熱量だと言っていい。
男と女の関係と楽器の関係は似ている。
僕の場合は、どうだ。
前から気にはなっていた、ちょっとすました格好いい美人に興味を持った。
「君が好きだけど、あまり時間を注げないんだ。でも、分かってくれるよね、僕の気持ち。君の方は、僕を好きになってくれるよね」と言っているようなものだ。
女性もヴァイオリンも、そんな都合のいい話に乗ってはくれない。
たまに触っても、ヴァイオリンは冷たいものである。それだけの音しか出してはくれない。触っていない何日かの間に、飛躍的に上達している、ということは決してない。恥ずかしながら、前よりもっとひどい音になっている場合が多々ある、と言っても過言ではない。そんな時、「あ~あ、また振り出しに戻れか」と溜息がでる。
そんな場合、このヴァイオリンの質が悪いから、と楽器にその責任の矛先をちらとでも向けてはいけない。先生が持っているものよりおそらく遥かに安いものだから、それにしても、いい音がする先生のヴァイオリンはいくらぐらいするのだろうと、生徒同士で、持っている楽器の値踏みをしてはいけない。
自分の行いは棚に上げて、「こっちを振り向いてくれない、君が悪いんだ」と、相手に言うようなものだ。
また、ピアノの方が技術は簡単だ、フルートの方がよかったかな、などと他と比較してはいけない。
「私というものを知って、あなたの方から言い寄ってきたのでしょう。いやなら、あっち行ってもいいわよ」と、さらに冷たくされるのがオチである。
僕は、ヴァイオリンに触るたびにいつも後ろめたく思う。
「ごめんね。決して忘れていたわけではないんだよ」と、謝ってしまう。
それで、機嫌を直してくれるものではないことも、もう知っている。
肩こりを通り越して、それすら忘れるほどに接しないと、にっこり微笑んではくれないものだ。
いや、思いが一方的であればあるほど、相手が振り向いてくれるよう、あらゆる努力をいとわない。最初は素知らぬ顔していた相手が、やっと振り向いてくれた時の悦びは他に代えがたい。
熱量の大きさは、必ず対象を少なからず動かすものである。
そして、二人の熱々の時が過ぎゆく。いつも相手のことを思い、会っているときはいい。
しかし、なおざりにすると、すぐにそれは気づかれてしまい、相応のしっぺ返しを食う羽目になる。
男と女の関係は、適当に付きあうと、適当な仲にしかならない。熱くもならないし、深くもならない。こちらが熱くならなければ、相手の熱も上がる道理もなく、例え上がっていたものでもそのうち下がるというものだ。
*
多摩の音楽教室のピアノの演奏発表会があった。生徒の発表演奏のあと、ピアノとヴァイオリンの先生の合奏があるというので聴きに行った。
発表会は、幼稚園の年中者から始まった。椅子に座っても、もちろんペダルに足が届かない、つい最近までお母さんのおっぱいをしゃぶっていたような子どもだ。でも、堂々と弾きこなした。
次の子は小学5年生で、モーツアルトのピアノソナタを弾いた。次は、小学6年生で、ブラームスの二つのラプソディー。小学生とは思えない、メリハリもあり力強い。
最後は、中学3年生で、もう体格も大きい。彼女が弾くのは、パンフレットには、ベートーベンのピアノソナタ第17番、ニ短調、第3楽章とある。弾き始めるや、音がこぼれるように会場に流れた。すぐに聴いた曲だと分かった。だが、しばらく何の曲だか思い出せない。しかし、それは心に迫った。
何と、それは「テンペスト」だった。哀しくも情熱的な曲だ。演奏には、もう男女の機微を知っているような、年齢を超えた情感があった。僕は、我を忘れて聴きいった。
かつて、付きあっていた女性がピアノを習っていて、今度ベートーベンのピアノソナタ「テンペスト」を発表会で弾くの、と言った。その時彼女に、いい曲だから聴いてみてと言われて、その足でレコード店に行った。
その頃の僕は、まったくといっていいほどクラシックを知らなくて、詳しく訊くのが恥ずかしいものだから、ピアノソナタの10番を買ってきた。ベートーベンの棚を探して、「テンペスト」のタイトルが見つからず、テンだから10番に違いないと思ったのだ。すぐに彼女に訂正され、それで「テンペスト」を知ったのだった。そのことが原因ではないのだが、その女性とはほどなくして別れることになった。
話は、脇道にそれてしまった。
発表会は、みんな素晴らしい演奏で、技術も驚くほど高かった。
発表の演奏が終わった後、先生が発表演奏した生徒に一人ひとり、好きな曲は?等々、インタビュー風に質問した。
小6の女の子の場合は、
「練習時間はどのくらい?」
「1日3時間ぐらい」
「将来は何になりたいですか?」
「音楽の先生」
中3の女の子の場合は、
「練習時間はどのくらい?」
「秘密」
「将来は何になりたいですか?」
「分かりません」
演奏しているときとはうって変わって違って、みんな質問には小さい声でやっと答える。耳を澄まして何とか聞こえてくる程度だ。ナイーブなのだ。
練習時間は、小学6年生で1日3時間だ。「秘密」と言った中学生はもっと多いかもしれない。将来は分からないとは、実に微妙に正確な答えだ。多感な時期なのだ。夢みる頃でもあるのだ。将来のことを考えると、揺れ動いているのかもしれない。もちろん、きっとピアニストになりたいのだ。それも、テレビやCDなどで知っている世界的な演奏者に。しかし、乗り越えなければならない、その壁の大きさも見え始めた年頃なのだ。
ピアノとヴァイオリンの先生の合奏は、言わずもがな、みんなを堪能させた。子どもたちのためのディズニーやスタジオジブリのメロディーはお愛嬌だけど、ラルゴの「ヘンデル」の技巧的演奏には、目(耳)を凝らした。
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人は、必要なことに時間を使う。そして、好きなことに時間を注ぐ。それは、その人の注ぐ熱量だと言っていい。
男と女の関係と楽器の関係は似ている。
僕の場合は、どうだ。
前から気にはなっていた、ちょっとすました格好いい美人に興味を持った。
「君が好きだけど、あまり時間を注げないんだ。でも、分かってくれるよね、僕の気持ち。君の方は、僕を好きになってくれるよね」と言っているようなものだ。
女性もヴァイオリンも、そんな都合のいい話に乗ってはくれない。
たまに触っても、ヴァイオリンは冷たいものである。それだけの音しか出してはくれない。触っていない何日かの間に、飛躍的に上達している、ということは決してない。恥ずかしながら、前よりもっとひどい音になっている場合が多々ある、と言っても過言ではない。そんな時、「あ~あ、また振り出しに戻れか」と溜息がでる。
そんな場合、このヴァイオリンの質が悪いから、と楽器にその責任の矛先をちらとでも向けてはいけない。先生が持っているものよりおそらく遥かに安いものだから、それにしても、いい音がする先生のヴァイオリンはいくらぐらいするのだろうと、生徒同士で、持っている楽器の値踏みをしてはいけない。
自分の行いは棚に上げて、「こっちを振り向いてくれない、君が悪いんだ」と、相手に言うようなものだ。
また、ピアノの方が技術は簡単だ、フルートの方がよかったかな、などと他と比較してはいけない。
「私というものを知って、あなたの方から言い寄ってきたのでしょう。いやなら、あっち行ってもいいわよ」と、さらに冷たくされるのがオチである。
僕は、ヴァイオリンに触るたびにいつも後ろめたく思う。
「ごめんね。決して忘れていたわけではないんだよ」と、謝ってしまう。
それで、機嫌を直してくれるものではないことも、もう知っている。
肩こりを通り越して、それすら忘れるほどに接しないと、にっこり微笑んではくれないものだ。
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