かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ 彼女たち--性愛の歓びと苦しみ

2008-12-11 14:20:58 | 本/小説:外国
 J-B・ポンタリス著 辻由美訳 みすず書房

 最後に何か本を書きたいと思ったなら、こんな本だろう。
 この本は、フランスの精神分析学者であり編集者である著者が、自分の人生を振り返って、「彼女たち」つまり、自分に関わりあった女性=彼女たちについて語ったものだ。
 それは、著者の愛の履歴書である。この紐解かれた愛の履歴のなかには、官能的な愛、プラトニックな愛、つかのまの愛、そのほか文学のなかの彼女、妄想の中の彼女など、様々な愛が入っている。
 おそらくもう恋をすることもないだろう、そう思った頃(そんなに思えるのはいつの頃だろうか)、通り過ぎていった愛の体験を語ることほど、愉悦を味わえるものはないと思える。それは、自分の人生の情熱を、すなわち最もいい思いを反芻するに等しいからだ。
 年齢にかかわらず、過ぎ去った恋や失った恋を思いおこすと、そのときに感じた苦しみや哀しみを甘酸っぱさが上回っている。それは、時間が過ぎ去った出来事に甘さを添加してくれるからだ。

 「精神分析用語辞典」の著者でもあるポンタリスであるが、この本では専門用語を使ったり、フロイト風に恋について精神分析をしているのではない。自分の気持ちを素直に吐露しているので、すんなりと心に入り込むいい台詞が散りばめられている。

 ――女一般について語って何になろう。「ある春の晴れた日」のように現れては、去っていく現実の女たちを愛そう。恋に落ち、愛のなかで新しい命を得よう。――

 恋をすると、その恋人が他の誰よりも美しく、素晴らしく見えるものだ。
 ――誰でも自分が恋する人をつくりあげるものだ。恋とは、その本質からして過剰評価にほかならない。現実主義ではないのだ。
 どんなに近くに寄ろうと、水平線は、見えるものと見えないものとの接点にあるがごとく、遠方にあり、そして、私が抱きしめる女は、島に接近させてはくれるが、私はその島に降りたつことができないのだ。(遠方にありて)

 「通りすがりの異国の女たち」で、彼はこう言う。
 ――彼は仕事の都合で、ローマ、ロンドン、ストックホルムなど、ヨーロッパのいろいろな都市によく出かけた。ほんの数日の滞在だった。そのたびに一人の女と出会い、たちまち恋におちいった。
 それを出会いと呼びうるとすれば、そうした出会いはときにはほんのつかの間のものであった。
 この話を聞いた彼の友人で、フロイトの考えに影響を受けている男がこう言ったという。「君のリピドーは信じられないほど不安定だよ」
 「説明してください。無意味なのに、あの異国の女性たちに僕はどうして激しくひきつけられるのだろう。ただすれちがい、ちょっと顔を合わせただけで、それもほんの短い時間のことなのに」――
 この文章を読んだとき、これは僕のことかと思った。

 ポンタリスは1924年生まれだから、生きているとすればもう80代の半ばである。死が身近に迫っているのを感じる年であろう。
 ――私は死の横暴に屈したくない。死は、生きている者に対して情け容赦なく存在を保持する。
 少し前に、コメディー・フランセーズでラシーヌの戯曲「フェードル」を観劇した。その台詞の一つが頭に残っている。「生きることをやめるのは、それほど大きな不幸だろうか?」
 その言葉を、その日がきたとき、私自身の口から発してみたい。私なりのやり方で、死を失望させ、死の勝利と凱歌を抑制するのだ。「それほど不幸なことだろうか?」――

 僕は、死を前に、こう言い放つことができるだろうか。
 まったく自信がない。
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