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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

我々はどこから来たのか?

2009-09-28 02:02:52 | 気まぐれな日々
 我々はどこから来たのか
 D’ou venons nous?

 我々は何者か
 Que sommes nous?

 我々はどこへ行くのか
 Ou allons nous?

 この大きなテーマを題するポール・ゴーギャンの絵を見たあと、僕はこの題名の意味することを考えていた。
 東京国立近代美術館において、9月23日までこの絵が公開されていたので、慌てて見に行ったのである。

 この絵はゴーギャンが、移住したタヒチで遺書のつもりで描いた絵で、彼の絵の集大成ともいえるものである。この1枚の横長の絵の中には、彼がそれまでに描いたいくつもの絵が組み込まれている。彼の過去の絵を寄せ集め、まるでコラージュのように巧みに一枚の絵に構成したかのようである。
 それでいて、全く最初から計画的に1枚の絵として描かれたようでもある。
 この絵を描いたのは1987年、ゴーギャン49歳の時で、その直後自殺未遂をしているが、一命をとりとめている。その後、マルキーズ諸島のラ・ドミニック島(現=ヒヴァ・オア島)に移住し、そこで1903年、54歳で死去した。
 
 ゴーギャンの略歴を見てみると、彼はさすらいの人ともいえる。
 1848年、パリで生まれたゴーギャンは、幼少時一家(父が死亡し、母と姉とで)でペルーのリマで暮らす。7歳の時フランスに戻り、オルレアンで暮らすが、14歳の時よりパリで暮らすようになる。
 17歳の時、商船の見習い水夫となり、ブラジルのリオデジャネイロへ旅する。
 その後、パリで、株式取引所の仕事をし、結婚し3人の子供をもうける。
 株の大暴落とともに株の仕事を辞め画家になるのは、1883年、35歳の時である。
 その翌年、パリを離れルーアンに住むが、さらにその翌年には、妻の実家のあるデンマークのコペンハーゲンに移り住む。しかし、すぐに翌年にはパリに戻っている。
 その翌年の1887年には、パナマ運河建設に携わり、パナマとマルチーク島に滞在している。
 このとき、熱帯の楽園への憧憬が確かなものになり、タヒチへの移住への萌芽が生まれたと考えられる。
 この間、ブルターニュのポン・タヴェン村にはしばしば訪れ、滞在している。
 翌年の1888年には、ゴッホとプロヴァンスのアルルでの共同生活をするが、例のゴッホの耳切事件の後、パリへ戻った。
 その後、パリを拠点に、ブルターニュのポン・タヴェン、ル・プルデュへの訪問・滞在を繰り返している。
 
 こうしてみると、画家になった35歳以降は、ゴーギャンは1か所に1年とて長く住んではいない。
 そして、1891年、43歳の時、一人タヒチに移り住むことになる。ゴーギャンの、ここではないどこか、見果てぬ夢の楽園への移住である。
 彼の来歴を見ると、父は共和主義者のジャーナリストで、母はペルー生まれの平和運動家の娘である。生後間もなく、両親がルイ・ナポレオンのクーデターを危惧し、母親の故郷であるペルーへ渡ったときから、彼の体内にはさすらいの血が流れ出したのではなかろうか。
 
 さて、命題の
 我々はどこから来たのか?
 我々は何者か?
 我々はどこへ行くのか?
 の問いである。

 ゴーギャンは、絵を答として描き、あえて画面の左上にキャンパスを抉るように空白を創り出し、その中に、島の花と一緒に、この問いかけを題名として書き添えた。
 自分の絵を認めなかったフランス画壇に、この答をどう見るのか、この題名の問いに君たちはどう答えるのか、と挑戦するかのように。
 キャンパスの右上には、こちらも絵を抉ったようにもう一つの空白を創り出し、花の下に「P Gauguin/1987」とサインがある。

 この問いかけの絵を見たあと、時間はただ雲のように流れたが、考えたところで、そう簡単に答が出てはこなかった。
 あなたは、この質問にどう答えるだろうか?

 *

 熱帯を夢みたアンリ・ルソー、熱帯に移り住んだポール・ゴーギャンをはじめ、南国熱帯に惹かれた芸術家は数知れない。「楽園」があるとするならば、それは熱帯の南の島と誰もが想像した。絵の具で描いたような青い海、透き通るような青い空の下の椰子の葉陰の日だまりは、楽園の要素を充分に兼ね備えている。
 かつて読んだ『カオハ・マルキーズ』という本を思い出した。この本は、ポリネシアのマルキーズ島を訪れた若者の手記で、若者と島の少女との淡い思いがいつまでも心に焼きついていた。
 1987年の最初のバリ島への旅は、ただただ海辺のサヌールからデンパサール、そしてウブドの村を通り過ぎただけであった。それでも、ガムランの音楽とケチャが強く心に残った。
 あれから、バリで買ってきた絵葉書の細密画とガムラン音楽のカセットテープが、いつも私を南国の安楽椅子に誘った。そして、ウブドで買った木彫りのカエルとバナナの葉を見るたびに、南の島の村を思い浮かべ、世俗の煩わしさを忘れさせた。
 最初のバリへの旅からちょうど1年後、再び私は南の島、バリ島へ向かった。

 ――『かりそめの旅』(岡戸一夫著)第3章「神々の棲む島、バリ島」より――
 本に関する問いは、ocadeau01@nifty.com

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