かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

コロナ下で問われた哲学とは……「目的への抵抗」

2023-07-17 01:44:18 | 本/小説:日本
 *パンデミック下で甦った「暇と退屈の倫理学」

 もう十年以上前に出版された國分功一郎著の「暇と退屈の倫理学」が、去年(2022年)、東大、京大で最も売れた本となったという記事を見たとき驚いたと同時に、この本が評価されたことにホッとした。
 というには、この本が出たころ、私は永井路子の小説のなかの「人生は死ぬまでの長い暇つぶしよ」という台詞に、立ち止まって吟味していた。“暇”と“退屈”が人生にとってどういう意味があり、どういう位置づけなのかを思案・思考していた私にとって、「暇と退屈の倫理学」は絶好の刺激的な本だった。以来、ずっと心の片隅に居座り気になり続ける本となった。
 2020年からの3年に及んだ世界的パンデミックとなったコロナ危機下で、不要不急の外出自粛や緊急事態となり、大学も対面授業が行われなくなった状況で、学生のみならず多くの人にとって、暇と退屈は自分自身に直面せざるを得ないテーマとなったと思われる。
 「暇と退屈の倫理学」について、10年前に書いた私の文を記しておきたい。
 ※ブログ「人生は長い暇つぶしなのか?を考える、「暇と退屈の倫理学」」(2013-11-23)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201311

 *哲学の役割を考える、「目的への抵抗」

 2020年から3年に及んだパンデミック、コロナ危機(禍)は、多くの人が人生において初めての体験だっただろうし、多くのことを考えさせられた。
 「目的への抵抗」シリーズ哲学講話(新潮社)は、このコロナ危機下において、國分功一郎が講義・講話した二つの話を基本とした本である。
 一つは、2020年10月2日、東京大学教養学部主催「東大TV――高校生と大学生のための金曜特別講座」において行われた講義(「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」。オンライン開催)。もう一つは、2022年8月1日に自主的に開催された「学期末特別講話」と題する特別授業(「不要不急と民主主義」。対面開催)である。

 <第1部> 哲学の役割―コロナ危機と民主主義
 冒頭、「存在以外にいかなる価値をももたない社会とはいったい何なのか?」と、コロナ危機下で政府が実施した政策に関して発言したジョルジョ・アガンベン(イタリアの哲学者)の言葉が記されている。
 この言葉は、コロナ危機下で、葬儀も行われなく死に目にも会えない状況であったことへの言葉である。その状況をやむを得ないと受け止めていた社会全般への批判も含んだ発言で、学者の間で議論を呼んだし、このことを國分功一郎はいち早く日本での議題に挙げた。
 この問題を、2020年、社会学者の大澤真幸と哲学者の國分功一郎が、対談形式の本「コロナ時代の哲学」(左右社)で語っている。
 その時の私のブログを記しておこう
 ※ブログ「「コロナ時代の哲学」を考える① 哲学者Aが導くもの」(2020-10-11)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/b3474578990c8564dc7179bbfb86d75b

 *自由は、目的に抵抗する

 「目的への抵抗」の後半は、コロナ危機下における「不要不急」を掘り下げた内容である。
 <第2部> 不要不急と民主主義
 冒頭、「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない」というハンナ・アーレント(ドイツ出身の米国の政治哲学者、思想家)の言葉が記されている。

 コロナ危機下で、私たちに突きつけられた真新しい言葉に、流行語にもなった「不要不急」がある。必要のない、緊急でない外出は自粛するようにという政府の規制要請である。
 本書は、この人の移動の自由への規制要請をこう掘り下げる。
 「必要といわれえるものは何かのために必要なのであって、必要が言われるときには常に目的が想定されている。必要の概念は目的の概念と切り離せません」
 そして、こう続ける。
 「自由は目的に抵抗する。そこにこそ人間の自由がある。にもかかわらず我々は「目的」に縛られ、大切なものを見失いつつあるのではないか」

 *現代社会の、贅沢から消費への変質

 國分功一郎は目的と自由を語るに関して、ジャン・ボードリヤール(仏哲学者)の消費論を紹介している。贅沢とは何かを語ることによって、現代社会における消費なるものを紐解いていく。
 「我々は、人間の生存にとっては必要という限界を超えた支出が行われるときに、それに贅沢を感じる。贅沢はしばしば嫌われ、退けられます。というのも、それはしばしば無駄だと捉えられるからです。」
 それでは、無駄を省き生存に必要なものだけがあればいいのだろうか、と問う。生存に必要なものだけがある生活とはギリギリの生活で、豊かさを感じることができるでしょうかと疑問を投げかけるのだ。
 「実際、どんな社会も豊かさを求めたし、贅沢が許された時にはそれを享受してきた。……贅沢を享受することを「浪費」と呼ぶならば、人間はまさしく浪費を通じて、豊かさを感じ、充実感を得てきたのです」
 人類はずっと浪費を楽しんできた。ところが、20世紀になって人類は突然全く新しいことを始めた、とボードリヤールは言う。それが「消費」なのだと。
 「浪費は満足をもたらします。そして満足すれば浪費は止まります。つまり、浪費には終わりがある。ところが、消費には終わりがありません。」

 それは、食事を例にして語られる。
 生存に必要な、それ以上のご馳走を食べたとき人は満足感、贅沢を感じてきた。しかし、その贅沢感は現代では消費に変わられているのだという。
 「消費において人はものそのものを受け取らない。食事を味わって食べて満足することよりも、その食事を提供する店に行ったことがあるという観念や記号や情報が重要なのです。そして、観念や記号や情報はいくら受け取っても満足を、つまり充満をもたらさない。お腹がいっぱいになることはない。だから止まらない。そのような性質を名指して、ボードリヤールは消費を観念論的な行為とも呼んでいます」
 現代社会では、次々とネットや雑誌等で美味しい店、新しい店が紹介されている。それらの店を廻り食するのは、贅沢というより消化になっているというのであろう。
 旅もそうであろう。
 知らない街や知らない文化との遭遇と発見の心のときめきから、情報が行き届きPRされた世界遺産巡りに象徴されるように、名所旧跡に行ったという観念や記号を得ている、つまり現代は消化の旅に変質しているということだろう。

 國分功一郎は、ボードリヤールの消費論に基づいて次のように語る。
 「消費のメカニズムを応用すれば、経済は人間を終わりなき消費のサイクルへと向かわせることができます。20世紀にはこれが大々的に展開され、大量生産・大量消費・大量投棄の経済が作り上げられるとともに、人類史上、前例のない経済成長がもたらされました」

 そして、冒頭であげた彼の著書である「暇と退屈の倫理学」について、強調したのは次の点だと述べる。
 「消費社会は僕らに何の贅沢も提供していない。「次はこれだ、その次はこれだ」と僕らを消費者になるように駆り立てている消費社会は、僕らを焦らせているだけで、少しも贅沢など提供していない。つまり消費社会の中で僕らは浪費できていない。僕らは浪費家になって贅沢を楽しめるはずなのに、消費者にされて記号消費のゲームへと駆り立てられている」
 それでは、現代の消費社会において、私たちはどう生きるのか、どう生きたらいいのか?それに対し、國分功一郎はこう回答する。
 「つまり、楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりすることは、生存の必要を超え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じて人間らしく生きるためにそうした経験を必要としているのです。必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にあるということができます。
 それに対し、現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めない社会になりつつあるのではないか。」

 贅沢を失いつつある私たち。いや、失っているのか?
 「暇と退屈の倫理学」は、いまだに私のなかでは終わりのない問いかけである。

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