*越境文学の先駆者、リービ英雄
外国人が母語以外の言語である日本語で書く小説を「越境文学」(transborder literature、border-crossing literature)と呼んでいる。
その越境文学における、現在の新しい書き手であるグレゴリー・ケズナジャットの「 開墾地」について、先に書いた。
※ブログ「外国人による和語の純文学、「開墾地」」(2023-06-27)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/87b6c3cb88b5367c756cb189a38d497a
日本の越境文学において、避けて通れないのがリービ英雄である。そして、越境文学の嚆矢ともいえるのが、彼の小説としての処女作「星条旗の聞こえない部屋」(1992年)といえる。
*
リービ英雄(Ian Hideo Levy、1950年~)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー生まれ。本名、リービ・ヒデオ・イアン。東欧系ユダヤ人の父と、ポーランド人移民の母親をもつ。“ヒデオ”は、父の友人で第二次世界大戦中に敵性民間人としてアメリカ内陸部に抑留された日系人に因んでつけられたもの。
父親は外交官で、幼少・少年時代は台湾、香港、アメリカで育つ。17歳の時に初来日し、日本語に魅了される。
プリンストン大学東洋学専攻卒業、同大学で「万葉集」を学ぶ。同大学院にて1978年、柿本人麻呂論で文学博士。プリンストン大学、スタンフォード大学で日本文学の教鞭をとる。
1982年、「万葉集」の英訳で全米図書賞。1987年、「群像」に日本語による「星条旗の聞こえない部屋」を発表し、小説家としてデビュー。
1989年から日本に定住。1992年、「星条旗の聞こえない部屋」で野間文芸新人賞。
1996年、「天安門」で芥川賞候補。2005年、「千々にくだけて」で大佛次郎賞、2009年、「仮の水」で伊藤整文学賞、2016年、「模範郷」で読売文学賞、2021年、「天路」で野間文芸賞を受賞。元法政大学国際文化学部教。
*「しんじゅく」へ向かった、「星条旗の聞こえない部屋」
1992年発売の単行本(講談社刊)は、「群像」に載った「星条旗の聞こえない部屋」(1887年3月号)、「ノベンバー」(1989年10月号)、「仲間」(1991年11月号)の、3部作といえる作品からなっている。
リービ英雄は本書の「あとがき」で、日本語で小説を書くことについて、以下のように記している。
「日本人の血を一滴も持たないぼくが、なぜ日本語で小説を書くのか、という質問をよく受ける。実に返事に困る質問なのだ。
なぜ日本語で書くのか。その問いに対して、日本語は美しい、フランス語なんかは問題にならない、日本語で書きたくなるのは当然ではないか、と即座に答えたくなる。
しかし、ぼくが日本語で小説を書く必然性はいったいどこにあるのか。ぼくはますます返事に戸惑う。なぜなら、ぼくが日本語で書く「必然性」には、経験的で、主観的な要素が大きいからだ」
リービ英雄が日本語で小説を書く理由。それは、1960年代の終わり、彼が青春の多感な時期に日本語に出合い、日本のなかに入り込んでいったからなのだ。
その過程が、この「星条旗の聞こえない部屋」のなかに、自分の青春期をなぞるように哀感をもって綴られている。
「ぼくの日本語は、十六、七の頃の居候の中で生まれた。ベン・アイザック(注:本書の主人公)のように家出少年が生きのびるために町で拾ったものが、ぼくの日本語の出発点だった」
17才の主人公のベン・アイザックはアメリカの外交官の息子で、横浜の領事館に父と中国人に後妻、それに弟と暮らしている。
その主人公を覆い被さる思春期の靄のような現在と存在が、湧き水のような反抗心と迷路のような思案・思考を下敷きに、文学者らしい文体で綴られる。
それを、リービ英雄はこう表す。
「ベンがバージニア州の高校で読んだ十九世紀のある詩人は、どの少年も青春の門前まで至りつくのに、まず終わりなさそうなえんえんたる回廊を通り抜けなければならない、という。ベンが少年の頃から歩んできた回廊には、常に大人の足音が長い影のように響きわたっていた」
日本語に興味を持ちだしたベンに、父親は冷たくこう言う。
「たとえお前が皇居前広場へ行って、完璧な日本語で「天皇陛下万歳」と叫んでセップクしたとしても、お前はやつらのひとりにはなれない」
ページを開いて、何行かを読んだだけで、リービ英雄はすでにれっきとした日本文学者だと感じさせる。
ときには、私の好きなハッとするような表現にも出くわす。
「父はベンの知らない言語で囁きはじめた。中国語の方言だったのだろう。未知の音節と抑揚に伴って、父の腕は隣の座席にいる女の肩へやさしく動きだした。熱帯植物の大きな葉のように、ゆっくりと確かな動きだった」
主人公のベン・アイザックは、「現在」のここでないところに行こうと思っている。
そして、ついに現在である、横浜の領事館を脱出する。向かう先は、父親がここには行くなと言っていた「しんじゅく」。
ベンは、新宿で日本を体感することになる。1960年代の新宿は、おそらく「特別」だった。
*
1960年代後半の日本は高度経済成長のさなかで、大学は政治の季節だった。全学連、ベ平連、安保反対、ベトナム戦争反対、ヒッピー……と、社会は過激な動きと賑わいを止めなかった。その中心にいた東京、そのなかでも新宿という街は特別な色彩を籠らせていた。
そのような当時の社会の匂いが、この「星条旗の聞こえない部屋」には横浜、西早稲田、新宿を舞台にして、滲み出ている。
*1960年代の新宿の匂いを放つ、「仲間」
「星条旗の聞こえない部屋」のなかに収められている3部の連作ともいえる最後の作品「仲間」は、主人公のベンが新宿の喫茶店「キャッスル」でアルバイトをする体験を綴ったものである。この作品では、主人公の環境になじめない“外人”としてのやるせない疎外感が滲み出ている。
十代での新宿での喫茶店でのウェイター体験という主人公の状況が、私を個人的に最も感情移入させるものであった。
ベンは同じ喫茶店で働く日本人従業員に馴染もうと思うが、仲間というより異邦人とみなす同僚との間には埋めがたい大きな溝と距離を感じる。
同僚との溝が埋まらないまま、日々は過ぎていく。ある日の仕事が終わった後、たむろしていた同僚たちに近づくベンに、外人であるお前にはできないことだろうという素ぶりで、同僚たちは難なく生卵を次々と飲み込む。ベンはそれを見て、というより見せつけられて、自分も生卵を飲み込むことにする。
唇に卵汁を垂らし彼らのようにうまく飲み込めなかったが、ベンはそれをやり終えたという実感を抱くや、店を立ち去る決意をしたのだった。
この物語の1960年代後半の新宿は、混沌と熱情のさなかにあった。“外人”のベンも、自らそのなかに入り込んでいった。
主人公がアルバイトする舞台の喫茶店「キャッスル」は、話のなかの状況、ネーミングからして歌舞伎町にあった喫茶店「王城」、つまり「珈琲王城」であろう。
「王城」は、建物はヨーロッパの中世の城のようで、できた当時はここは他とは違うぞという雰囲気を周りに醸し出していて、喫茶店とは思えないひときわ目立つ建物だった。際立っていたのは外観だけでなく、なかに入ってもシャンデリアがキラキラと輝き、ゴージャスな雰囲気に満ちていた。
歌舞伎町の「王城」の建物は現在(2023年)でも存在するが、古ぼけてしまった外観からはかつての壮麗さは消え失せていて、建物のなかも喫茶店ではなくすっかり変わっている。
*夜の新宿、珈琲「王城」と「西武」物語
東京オリンピックが行われた1964年、私は九州の田舎から上京し、大学1年のその年の冬の12月に、新宿角筈1丁目(現:新宿3丁目)の喫茶店でアルバイトをした。
職種は「ボーイ」である。当時は、水商売のウェイターをこう呼んでいた。今は、フランスでも「ギャルソン」と呼ばないらしい。
新宿のその店は、1階がパチンコ店で、2~4階が新しく開店の喫茶店「西武」、つまり「珈琲西武」だった。その上階にキャバレーがあった。
バイト初日に店に行ったら、まだ内装工事が終わっていないということで、準備が終わるまでの約1週間を、経営が同じだったのだろう歌舞伎町の「王城」へ派遣された。
何を言おうか、私の新宿でのウェイター(ボーイ)初体験は、「王城」、つまり「珈琲王城」だった。
「王城」では、年下だが先輩である同僚ウェイターの冷たい洗礼にあった。その実体験が、物語「仲間」の主人公に思い重ねることになったのだが。
「王城」から「西武」へ正式に戻ったら、それはそれで楽しいウェイター生活であった。
それにしても、「珈琲王城」も「珈琲西武」も、ステンドグラスにシャンデリアが輝き、どちらも田舎から上京した私にはまばゆかった。その胸を浮きたたせるゴージャスさが、私にアルバイトの辛さを感じさせなかった。
あのダイヤモンドのようにまぶしく光っていたシャンデリアが、たとえ虚飾に彩られたガラス玉だったにせよ、若い18歳にはまだ見ぬ未来の輝きに映っていたのだった。
夜の街に、こんな曲が流れた。
……街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかり
ウナセラディ・トーキョー……
「珈琲西武」が、かつてのゴージャスなシャンデリアはないが、レトロな喫茶店として今でも営業しているのは、感慨深いものがある。
……いけない人じゃ ないのにどうして 別れたのかしら
ウナ・セラ・ディ東京……(唄:ザ・ピーナッツ、作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰)
外国人が母語以外の言語である日本語で書く小説を「越境文学」(transborder literature、border-crossing literature)と呼んでいる。
その越境文学における、現在の新しい書き手であるグレゴリー・ケズナジャットの「 開墾地」について、先に書いた。
※ブログ「外国人による和語の純文学、「開墾地」」(2023-06-27)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/87b6c3cb88b5367c756cb189a38d497a
日本の越境文学において、避けて通れないのがリービ英雄である。そして、越境文学の嚆矢ともいえるのが、彼の小説としての処女作「星条旗の聞こえない部屋」(1992年)といえる。
*
リービ英雄(Ian Hideo Levy、1950年~)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー生まれ。本名、リービ・ヒデオ・イアン。東欧系ユダヤ人の父と、ポーランド人移民の母親をもつ。“ヒデオ”は、父の友人で第二次世界大戦中に敵性民間人としてアメリカ内陸部に抑留された日系人に因んでつけられたもの。
父親は外交官で、幼少・少年時代は台湾、香港、アメリカで育つ。17歳の時に初来日し、日本語に魅了される。
プリンストン大学東洋学専攻卒業、同大学で「万葉集」を学ぶ。同大学院にて1978年、柿本人麻呂論で文学博士。プリンストン大学、スタンフォード大学で日本文学の教鞭をとる。
1982年、「万葉集」の英訳で全米図書賞。1987年、「群像」に日本語による「星条旗の聞こえない部屋」を発表し、小説家としてデビュー。
1989年から日本に定住。1992年、「星条旗の聞こえない部屋」で野間文芸新人賞。
1996年、「天安門」で芥川賞候補。2005年、「千々にくだけて」で大佛次郎賞、2009年、「仮の水」で伊藤整文学賞、2016年、「模範郷」で読売文学賞、2021年、「天路」で野間文芸賞を受賞。元法政大学国際文化学部教。
*「しんじゅく」へ向かった、「星条旗の聞こえない部屋」
1992年発売の単行本(講談社刊)は、「群像」に載った「星条旗の聞こえない部屋」(1887年3月号)、「ノベンバー」(1989年10月号)、「仲間」(1991年11月号)の、3部作といえる作品からなっている。
リービ英雄は本書の「あとがき」で、日本語で小説を書くことについて、以下のように記している。
「日本人の血を一滴も持たないぼくが、なぜ日本語で小説を書くのか、という質問をよく受ける。実に返事に困る質問なのだ。
なぜ日本語で書くのか。その問いに対して、日本語は美しい、フランス語なんかは問題にならない、日本語で書きたくなるのは当然ではないか、と即座に答えたくなる。
しかし、ぼくが日本語で小説を書く必然性はいったいどこにあるのか。ぼくはますます返事に戸惑う。なぜなら、ぼくが日本語で書く「必然性」には、経験的で、主観的な要素が大きいからだ」
リービ英雄が日本語で小説を書く理由。それは、1960年代の終わり、彼が青春の多感な時期に日本語に出合い、日本のなかに入り込んでいったからなのだ。
その過程が、この「星条旗の聞こえない部屋」のなかに、自分の青春期をなぞるように哀感をもって綴られている。
「ぼくの日本語は、十六、七の頃の居候の中で生まれた。ベン・アイザック(注:本書の主人公)のように家出少年が生きのびるために町で拾ったものが、ぼくの日本語の出発点だった」
17才の主人公のベン・アイザックはアメリカの外交官の息子で、横浜の領事館に父と中国人に後妻、それに弟と暮らしている。
その主人公を覆い被さる思春期の靄のような現在と存在が、湧き水のような反抗心と迷路のような思案・思考を下敷きに、文学者らしい文体で綴られる。
それを、リービ英雄はこう表す。
「ベンがバージニア州の高校で読んだ十九世紀のある詩人は、どの少年も青春の門前まで至りつくのに、まず終わりなさそうなえんえんたる回廊を通り抜けなければならない、という。ベンが少年の頃から歩んできた回廊には、常に大人の足音が長い影のように響きわたっていた」
日本語に興味を持ちだしたベンに、父親は冷たくこう言う。
「たとえお前が皇居前広場へ行って、完璧な日本語で「天皇陛下万歳」と叫んでセップクしたとしても、お前はやつらのひとりにはなれない」
ページを開いて、何行かを読んだだけで、リービ英雄はすでにれっきとした日本文学者だと感じさせる。
ときには、私の好きなハッとするような表現にも出くわす。
「父はベンの知らない言語で囁きはじめた。中国語の方言だったのだろう。未知の音節と抑揚に伴って、父の腕は隣の座席にいる女の肩へやさしく動きだした。熱帯植物の大きな葉のように、ゆっくりと確かな動きだった」
主人公のベン・アイザックは、「現在」のここでないところに行こうと思っている。
そして、ついに現在である、横浜の領事館を脱出する。向かう先は、父親がここには行くなと言っていた「しんじゅく」。
ベンは、新宿で日本を体感することになる。1960年代の新宿は、おそらく「特別」だった。
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1960年代後半の日本は高度経済成長のさなかで、大学は政治の季節だった。全学連、ベ平連、安保反対、ベトナム戦争反対、ヒッピー……と、社会は過激な動きと賑わいを止めなかった。その中心にいた東京、そのなかでも新宿という街は特別な色彩を籠らせていた。
そのような当時の社会の匂いが、この「星条旗の聞こえない部屋」には横浜、西早稲田、新宿を舞台にして、滲み出ている。
*1960年代の新宿の匂いを放つ、「仲間」
「星条旗の聞こえない部屋」のなかに収められている3部の連作ともいえる最後の作品「仲間」は、主人公のベンが新宿の喫茶店「キャッスル」でアルバイトをする体験を綴ったものである。この作品では、主人公の環境になじめない“外人”としてのやるせない疎外感が滲み出ている。
十代での新宿での喫茶店でのウェイター体験という主人公の状況が、私を個人的に最も感情移入させるものであった。
ベンは同じ喫茶店で働く日本人従業員に馴染もうと思うが、仲間というより異邦人とみなす同僚との間には埋めがたい大きな溝と距離を感じる。
同僚との溝が埋まらないまま、日々は過ぎていく。ある日の仕事が終わった後、たむろしていた同僚たちに近づくベンに、外人であるお前にはできないことだろうという素ぶりで、同僚たちは難なく生卵を次々と飲み込む。ベンはそれを見て、というより見せつけられて、自分も生卵を飲み込むことにする。
唇に卵汁を垂らし彼らのようにうまく飲み込めなかったが、ベンはそれをやり終えたという実感を抱くや、店を立ち去る決意をしたのだった。
この物語の1960年代後半の新宿は、混沌と熱情のさなかにあった。“外人”のベンも、自らそのなかに入り込んでいった。
主人公がアルバイトする舞台の喫茶店「キャッスル」は、話のなかの状況、ネーミングからして歌舞伎町にあった喫茶店「王城」、つまり「珈琲王城」であろう。
「王城」は、建物はヨーロッパの中世の城のようで、できた当時はここは他とは違うぞという雰囲気を周りに醸し出していて、喫茶店とは思えないひときわ目立つ建物だった。際立っていたのは外観だけでなく、なかに入ってもシャンデリアがキラキラと輝き、ゴージャスな雰囲気に満ちていた。
歌舞伎町の「王城」の建物は現在(2023年)でも存在するが、古ぼけてしまった外観からはかつての壮麗さは消え失せていて、建物のなかも喫茶店ではなくすっかり変わっている。
*夜の新宿、珈琲「王城」と「西武」物語
東京オリンピックが行われた1964年、私は九州の田舎から上京し、大学1年のその年の冬の12月に、新宿角筈1丁目(現:新宿3丁目)の喫茶店でアルバイトをした。
職種は「ボーイ」である。当時は、水商売のウェイターをこう呼んでいた。今は、フランスでも「ギャルソン」と呼ばないらしい。
新宿のその店は、1階がパチンコ店で、2~4階が新しく開店の喫茶店「西武」、つまり「珈琲西武」だった。その上階にキャバレーがあった。
バイト初日に店に行ったら、まだ内装工事が終わっていないということで、準備が終わるまでの約1週間を、経営が同じだったのだろう歌舞伎町の「王城」へ派遣された。
何を言おうか、私の新宿でのウェイター(ボーイ)初体験は、「王城」、つまり「珈琲王城」だった。
「王城」では、年下だが先輩である同僚ウェイターの冷たい洗礼にあった。その実体験が、物語「仲間」の主人公に思い重ねることになったのだが。
「王城」から「西武」へ正式に戻ったら、それはそれで楽しいウェイター生活であった。
それにしても、「珈琲王城」も「珈琲西武」も、ステンドグラスにシャンデリアが輝き、どちらも田舎から上京した私にはまばゆかった。その胸を浮きたたせるゴージャスさが、私にアルバイトの辛さを感じさせなかった。
あのダイヤモンドのようにまぶしく光っていたシャンデリアが、たとえ虚飾に彩られたガラス玉だったにせよ、若い18歳にはまだ見ぬ未来の輝きに映っていたのだった。
夜の街に、こんな曲が流れた。
……街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかり
ウナセラディ・トーキョー……
「珈琲西武」が、かつてのゴージャスなシャンデリアはないが、レトロな喫茶店として今でも営業しているのは、感慨深いものがある。
……いけない人じゃ ないのにどうして 別れたのかしら
ウナ・セラ・ディ東京……(唄:ザ・ピーナッツ、作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰)
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