かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

東京駅から逃げ出した4匹の動物が、武雄温泉の楼門に

2014-09-19 16:54:49 | 気まぐれな日々
 東京駅が100年前の1914(大正3)年の開業時の、赤煉瓦の建物に復元されている。その姿は物々しくすらあり、周りのビルとは一線を画して威厳を湛えている。
 長く延びた建物の南北に2つの丸いドームがあるのが特徴で、丸の内側の改札口を出てすぐに吹き抜けの天井を見上げると、そこにはドームに連なる8角形のレリーフが目に入る。その中に8個の干支の動物が飾られているのである。
 天井のレリーフは、中心の丸い円から8本の線が伸び、8角形の角に8羽の白い羽を広げた鳥がいる。ちょっと見た目には鳩のようだが、稲穂を持った鷲である。地上からは遠くて分かりにくいが、その先にある丸いメタル風の緑の中に描かれているのが干支の動物である。
 関東大震災ではびくともしなかった東京駅の建物であるが、1945年の東京大空襲では、このドームも焼け落ち干支の動物たちも消失していた。その干支も、もとの姿に復元されたのだ。

 しかし、干支は12であるのになぜ干支の動物が8匹しかないかが謎であった。設計者の辰野金吾は、なぜ8匹にしたのか。それは、ドームが8角形の建物だからという説明がつく。それなら、残りの4匹はどこへ行ったのか、である。
 いないのは、ちょうど東西南北である、子(北)、卯(東)、午(南)、酉(西)である。そのことがネットで話題となり、全国の辰野金吾の設計である建物の関係者にことごとくあたったところ、佐賀県の武雄にある温泉楼門の天井にあることが判明したのだ。
 東京駅の設計者である辰野金吾は佐賀県唐津の出身で、東京駅の翌年竣工した佐賀県武雄温泉楼門の設計も彼の作だとされている。(写真)

 *

 竜宮城のような武雄温泉の楼門は子どもの頃から見慣れているが、ここにそんな秘密が隠されているとは知らなかった。
 佐賀に帰っていた私は、武雄で高校の同窓会が行われた翌日の9月15日、会の流れで、普段は見られないが特別に開かれた楼門内を見学した。この朱の楼門は釘を1本も使っていない建築で、階段を上がると、中も鮮やかな朱塗りである。よく見ると、格子に組まれた天井の板の4隅に、子(鼠)、卯(兎)、午(馬)、酉(鶏)が、姿を紛らせていた。
 4匹は、東京駅から武雄に逃げ出していたのである。注意深く見ると鼠は隠し絵のように絡んで2匹描かれているので、合計5匹(3匹+1頭+1羽)であるが。
 東京駅の干支の謎は、どの文献にもこのことは書かれていず、設計者の辰野金吾も誰かに話した様子もないところをみると、辰野金吾の遊び心か。誰かが疑問を感じ、いつ判明・解決するのか、生前に彼はそのことを想像し、一人にんまりとほくそ笑んでいたのかもしれない。
 東京駅のほか日本銀行本店などの設計をし、日本近代建築の父と称されている辰野金吾の肖像写真を見ると、髭をたくわえいかめしい顔をしているが、意外とユーモアのある人物だったのかもしれない。
 彼の設計した唐津銀行本店(唐津市)も、いまだその雄姿を残している。

 唐津市には、杵島炭鉱などを経営し佐賀の炭鉱王と称される高取伊好の邸宅が残っている。この高取邸は明治から大正にかけて建てられており、邸内に能舞台があるなど、和風を基調にしながらも暖炉など洋風を採り入れた華麗な複合建物である。
 重厚な西洋建築と繊細な日本建築を融合した建物を残している辰野金吾であるので、この高取邸宅も、私は彼が関わっているではないかと思っている。
 高取邸が唐津の有能な大工の棟梁吉田吉次郎の手であることは分かっているが、設計者の名は不明である。
 この佐賀の炭鉱王の高取邸は、同時代に作られた、現在、朝ドラ「花子とアン」で話題の、筑豊の炭鉱王、飯塚市の伊藤伝衛門邸に匹敵するものである。いや、それ以上の建築物と私は思っている。

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