かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

あなたの近くにある、「草原の輝き」

2017-06-22 03:25:33 | 映画:外国映画
 かつてあれほど明るかった輝きも
 今は私の眼の前から消えた
 草原の輝きは戻らず 花は命を失ったが
 嘆くことはない
 残されたものに 力を見いだすのだ
     ――ウィリアム・ワーズワース

 草原の輝きは、若々しさに溢れている。
 僕は、佐賀の田舎の青い麦畑の小道を、頬に風を受けて自転車で通るたびに、かつての若々しいときの空気を吸い込んでいるように感じるのだ。(写真)
 草原の輝き、この言葉を聞くたびに、僕は若さの持つ切なさを感じて立ち止まってしまう。

 「草原の輝き」は、1961年公開のエリア・カザン監督のアメリカ映画である。
 しかし、思い浮かべるのはこの映画だけではない。
 香港からやって来たアグネス・チャンが1973年に、「居眠りしたのね いつか 小川のせせらぎ きいて…」と、人形のような顔と声で歌った歌も「草原の輝き」(作曲:平尾昌晃)である。「…レンゲの花を 枕に今 目がさめた…」と続く歌詞は、安井かずみによるもの。
 僕はこの歌を聴くと、いつも草原で居眠りから覚めたアグネスの横に、シルクハットの帽子をかぶったウサギが現われる状景の、「不思議の国のアリス」を思い浮かべる。
 それにしても、「居眠りしたのね いつか…」という、こんな意表をついた出だしの歌はほかにないだろう。ズズこと安井かずみは天才だ。

 「草原の輝き」という歌はこれだけではない。
 「青い瞳」「ブルー・シャトウ」などのヒット曲で有名なG・Sの先駆的存在のジャッキー吉川とブルー・コメッツも、1968年、このタイトルの曲(英題、Summer Grass)を歌っている。作詞は橋本淳で作曲は井上忠夫。編曲に、のちにヒットメーカーとなる筒美京平が参加している。
 「あなたのおうちは 緑にぬれた草原の 草原の はるかかなた…」と、こちらはタイトル本家、アメリカ映画の影響を受けた、青春の思い出の歌と言っていいかもしれない。
 この年の暮れ、NHK紅白にこの歌で出場している。

 *

 映画「草原の輝き」(Splendor in the Grass、監督・製作:エリア・カザン、原作・脚本:ウィリアム・インジ)は、1920年代の米中部カンサスを舞台に、卒業を控えた高校生の愛とその後の物語である。
 青春の持つ瑞々しさと傷つきやすい脆さが描かれていて、今観ても胸を切なくさせる。

 高校3年生のディーニ―(ナタリー・ウッド)とバッド(ウォーレン・ベイティ)は、クラスの仲間も認めあっている美男美女の愛し合う仲だ。それでも、抱擁やキスはするが、それ以上は進まない。
 ディーニ―の母親は、結婚前に性交渉をするのはふしだらな女だという考えを娘に押しつけているので、娘のディーニ―は恋人に最後まで許すことはできないでいる。
 バッドは愛するゆえの、性の欲求に苦しむ。そして、そのもどかしさに苛立つことさえある。石油長者のバッドの父親は、遊べる女と付き合えという合理的な考えの持ち主である。農業をやりたいバッドは農業大学に進みたいと思っているが、父親は一流大学に行けと息子にその考えを押し付けている。
 愛と性と進学や進路は、誰もが青春期にぶつかる、最も大きな問題だろう。

 そんななかで、バッドはディーニ―と同じクラスの尻軽な女の子の誘惑に負けてしまう。
 そのことは、すぐさまクラス中に知れ渡り、クラスメイトの腫れ物にさわるような視線のなかで、ディーニ―は事態を知り、気持ちは落ち着きを失っていく。
 授業中、教師が虚ろなディーニ―に、教科書のワーズワースの詩(冒頭に記した)を読ませ、その意味を解釈しなさいと、指名する。
 立ち上がったディーニ―は、その意味を精いっぱい今の心で解釈しようと試みるが、ついにはわれを失い泣きながら教室を出ていくのであった……。

 ナタリー・ウッドは、ロバート・ワイズのミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」で世界的に有名な女優になった。典型的なアメリカ女優の顔だろう。
 ウォーレン・ベイティは、日本では長らくウォーレン・ビューティーと呼ばれてきて、僕はビューティー(美)とは気障な名前だなあと長らく思っていた。発音表記の違いなのだ。
 彼はシャーリー・マクレーンの弟で、「俺たちに明日はない」(Bonnie and Clyde)でスターの座を獲得し、その後多くの女優と浮名を流した。

 *

 青春期の愛や初恋は、結ばれることは少ない。
 初めての出来事に、どう対処していいかわからないし、傷つき、ときに傷つける。
 また、母親と娘、父親と息子、その関係は時には愛憎なかばし、思春期には確執さえ生まれる。
 
 「草原の輝き」は、青春という若さが抱く、瑞々しくも哀しい物語である。
 アメリカでも、処女が大切だと思われていた時代があったのだ。
 日本でも、そう遠くない最近まで処女が純潔だと称されて、女の子にとっては、いや、男にとっても少なからず重要なことだった。そんなことなど、今の女の子を見ていると及びもつかないが、そんな時代があったことは、思えば貴重なことだったように思える。
 だからこそ、青春時代が精神的にも肉体的にも繊細で濃密だったような気がする。
 
 今も、草原の輝きはあるのだろうか。
 とまれ、草原の輝きを失っても、嘆くことはない。
 草原はどこかで輝いているものだ。
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