中島京子著 講談社
奇妙な題名である。「伊藤の恋」でも、「伊東の恋」でもない。カタカナで「イトウ」と書くと、僕は魚のイトウを思ってしまう。魚のイトウだとすると、絵本や児童文学でもない限り、ますます奇妙なことになる。いや、生物学者の魚類の生殖に関する論文だったら、あっても不思議ではない。
すなわち、伊藤鶴吉の恋である。
明治の初期、来日したイギリス人の女性がいた。彼女の名はイザベラ・L・バードといい、日本の奥地を旅し、『日本奥地紀行』(原題、Unbeaten tracks in Japan)を著した。その紀行時の通訳をしたのがイトウである。
本書は、この『日本奥地紀行』に想を得て書かれたものである。
ふと手に入れた資料から、冴えない高校教師と教え子が、彼の末裔であると思われる漫画家を巻き込んで、イトウを探ることになる。本書は、イトウの資料を探す3人のやりとりと、イトウの手記をその間に挿入するという構成になっている。
しかし、これは単なるイトウの足跡を辿るというものではない。現代の人間によって導きだされた、I・B(イザベラ・バードと思われる)と、イトウ(伊藤鶴吉と思われる)の恋の物語である。
なぜだか、読む前から中島京子という作家に惹かれていた。そういう勘というか、文への相性というものがあるとしたなら(読む前から相性というのも変だが)、彼女もその数少ない一人であろう。
そして、期待にそぐわない、いやそれを超えた内容であった。
小説が作り物だとすると、これぞ小説の真骨頂と言えるだろう。想像を基盤にした作り事を、もしかして、さもあらんと思わせる筆力は、並みの資質ではない。それに、乱れのない文章と繊細な感性を随所に滲ませた文体は、筆者のゆるぎない力量を表している。
イトウの手記は、回想である。つまり、若いときの、それもI・Bとの旅の一時期の熱病のような時期のことである。そのときのことを、本当にあったことなのか、あれは夢ではなかったのかと、術懐する。
「青年とはおかしなもので、自らを万能のように錯覚するものである。しかも、それが他人にどう見えているかなど、まるで斟酌しない。当時の私も、その青年の悪癖を免除されるいかなる美徳も持ち合わせてはいなかった。」
誰にも心当たりがある、若さの特権と愚かさである。
イトウが別れたI・Bを追って再会する描写は、まるでロマンス小説も及ばない繊細さである。
「いつもI・Bは、からかいがちに口の端に笑みを浮かべていたものだった。その笑みを見るのが私は好きだったのだが、冬の雲の下で久しぶりに再開したときも、一瞬の驚きの後に浮かんだのはその笑顔だった。
それこそ私が見たかったもの、三月(みつき)の間恋焦がれたもの、この世に自らを留めおくたった一つの理由にしたものだった。I・Bは、それから、大きく腕を開いた。」
I・Bは、旅について、次のように言う。
「なぜ私が旅をするか、考えたことがある? 旅は、私たちをつなぎとめておく様々な楔から自由にしてくれるものだからだ。」
「旅の時間は、夢の時間、夢の空間なのだ。」
いやはや、僕も、すっかりイトウになってしまったようだ。
いい小説も、夢の時間だ。
奇妙な題名である。「伊藤の恋」でも、「伊東の恋」でもない。カタカナで「イトウ」と書くと、僕は魚のイトウを思ってしまう。魚のイトウだとすると、絵本や児童文学でもない限り、ますます奇妙なことになる。いや、生物学者の魚類の生殖に関する論文だったら、あっても不思議ではない。
すなわち、伊藤鶴吉の恋である。
明治の初期、来日したイギリス人の女性がいた。彼女の名はイザベラ・L・バードといい、日本の奥地を旅し、『日本奥地紀行』(原題、Unbeaten tracks in Japan)を著した。その紀行時の通訳をしたのがイトウである。
本書は、この『日本奥地紀行』に想を得て書かれたものである。
ふと手に入れた資料から、冴えない高校教師と教え子が、彼の末裔であると思われる漫画家を巻き込んで、イトウを探ることになる。本書は、イトウの資料を探す3人のやりとりと、イトウの手記をその間に挿入するという構成になっている。
しかし、これは単なるイトウの足跡を辿るというものではない。現代の人間によって導きだされた、I・B(イザベラ・バードと思われる)と、イトウ(伊藤鶴吉と思われる)の恋の物語である。
なぜだか、読む前から中島京子という作家に惹かれていた。そういう勘というか、文への相性というものがあるとしたなら(読む前から相性というのも変だが)、彼女もその数少ない一人であろう。
そして、期待にそぐわない、いやそれを超えた内容であった。
小説が作り物だとすると、これぞ小説の真骨頂と言えるだろう。想像を基盤にした作り事を、もしかして、さもあらんと思わせる筆力は、並みの資質ではない。それに、乱れのない文章と繊細な感性を随所に滲ませた文体は、筆者のゆるぎない力量を表している。
イトウの手記は、回想である。つまり、若いときの、それもI・Bとの旅の一時期の熱病のような時期のことである。そのときのことを、本当にあったことなのか、あれは夢ではなかったのかと、術懐する。
「青年とはおかしなもので、自らを万能のように錯覚するものである。しかも、それが他人にどう見えているかなど、まるで斟酌しない。当時の私も、その青年の悪癖を免除されるいかなる美徳も持ち合わせてはいなかった。」
誰にも心当たりがある、若さの特権と愚かさである。
イトウが別れたI・Bを追って再会する描写は、まるでロマンス小説も及ばない繊細さである。
「いつもI・Bは、からかいがちに口の端に笑みを浮かべていたものだった。その笑みを見るのが私は好きだったのだが、冬の雲の下で久しぶりに再開したときも、一瞬の驚きの後に浮かんだのはその笑顔だった。
それこそ私が見たかったもの、三月(みつき)の間恋焦がれたもの、この世に自らを留めおくたった一つの理由にしたものだった。I・Bは、それから、大きく腕を開いた。」
I・Bは、旅について、次のように言う。
「なぜ私が旅をするか、考えたことがある? 旅は、私たちをつなぎとめておく様々な楔から自由にしてくれるものだからだ。」
「旅の時間は、夢の時間、夢の空間なのだ。」
いやはや、僕も、すっかりイトウになってしまったようだ。
いい小説も、夢の時間だ。
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