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飯塚は、筑豊炭田地帯の中で最も大きな町(市)である。
この一帯は、近隣の町を含めて、日鉄鉱業、三菱鉱業、住友石炭鉱業、古河鉱業、麻生炭鉱などの炭鉱が林立していた。
こういった大手財閥の炭鉱が割拠するなかで、飯塚で炭鉱王と呼ばれた男が伊藤伝右衛門である。明治の中期、父が始めた炭鉱を引き継ぎ、伊藤鉱業 (後に大正鉱業に改称) を設立し事業を拡大していった。
そして、彼の名を一躍世間で有名にしたのが伯爵・柳原前光の娘・子との結婚だった。2人とも再婚であったが、そのとき伝右衛門数え52歳、子数え27歳であった。
子は、大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。伯爵令嬢のうえに、大正三美人と言われた美貌で、柳原白蓮の名で歌壇でも有名であった。
当時、たたき上げの伝右衛門とは政略結婚と噂され、実際そのようであった。伝右衛門は白蓮を迎えるのに別邸を造り、その本宅であったのが今も飯塚市に残る伊藤伝右衛門邸である。
旧伊藤伝右衛門邸は、地図を見ると、嘉穂劇場のある裏手のメイン通りをまっすぐに北へ向かった飯塚市幸袋町というところにあった。
メイン通りからこの邸のある通りに入ると、古い家並みが続く。その中で、代官所を思わせる長い塀に囲まれた屋敷が伊藤伝右衛門邸である。敷地2300坪、建坪300坪といわれている大きさだ。
入場料を払い敷地内に入ると、建物は広い庭に囲まれた木造2階建てである。
建物内に入ると、左右に長い廊下が走る。部屋がいくつあるか知れないほどだ。建物の裏に広がる庭には、池やそれに架かる橋があり築山もある。それだけで、独立した庭園のようだ。
邸の2階に、白蓮の個室があり、そこから庭が見渡せる。ここから、白蓮は、どんな思いで庭を見ていたのだろうか。(写真)
しかし、この大邸宅は、数多くの使用人ほか伝右衛門の妾も同居するなど、複雑な環境だったようである。
結婚はしたものの、後に白蓮は、孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天の息子で、「解放」の記者であった宮崎龍介と恋仲になり、彼の子供を妊娠し家を出る。そして、新聞に伊藤伝右衛門への公開絶縁状を掲載したことにより、世論で大問題になる。
今の時代とは違い姦通罪のあった時代の、思い切った行動であった。
念のため記しておくと、姦通罪が適用されるのは、夫のある妻およびその相手の男で、妻のある夫である男が不倫あるいは妾を持っても姦通罪には適用されないという、男の都合のいい法律だった。この法律は、第2次世界大戦後廃止された。
この旧伊藤伝右衛門邸内には、柳原白蓮の資料も展示してある。
この筑豊の炭鉱王の伊藤伝右衛門邸を訪れると、やはり佐賀肥前の炭鉱王と呼ばれた杵島炭鉱の経営者、高取伊好を想起させる。
高取伊好の邸宅が唐津市に残っているが、高取邸は豪華さだけではなく、建物の内部に芸術的趣向が凝らされている。部屋のあちこちにある杉戸絵や襖絵、さらに邸内に茶室、能舞台を設けてある貴重な建物である。
「炭鉱王の邸宅・高取邸」(2008.2.1ブログ)
http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/107e7a99223f3f838b5f99ff22e946cc
北九州の炭鉱王のこの2つの邸宅は、明治以降、国をあげての富国強兵のもと工業化を支えた、石炭産業が華やかなりし時代の栄華をしのばせる。
と同時に、この栄華は、旧伊藤伝右衛門邸内に展示してあった、ユネスコの世界記憶遺産に登録された山本作兵衛の炭鉱絵に描かれている、多くの抗夫・労働者に負うものだということも忘れてならないだろう。
この一帯は、近隣の町を含めて、日鉄鉱業、三菱鉱業、住友石炭鉱業、古河鉱業、麻生炭鉱などの炭鉱が林立していた。
こういった大手財閥の炭鉱が割拠するなかで、飯塚で炭鉱王と呼ばれた男が伊藤伝右衛門である。明治の中期、父が始めた炭鉱を引き継ぎ、伊藤鉱業 (後に大正鉱業に改称) を設立し事業を拡大していった。
そして、彼の名を一躍世間で有名にしたのが伯爵・柳原前光の娘・子との結婚だった。2人とも再婚であったが、そのとき伝右衛門数え52歳、子数え27歳であった。
子は、大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。伯爵令嬢のうえに、大正三美人と言われた美貌で、柳原白蓮の名で歌壇でも有名であった。
当時、たたき上げの伝右衛門とは政略結婚と噂され、実際そのようであった。伝右衛門は白蓮を迎えるのに別邸を造り、その本宅であったのが今も飯塚市に残る伊藤伝右衛門邸である。
旧伊藤伝右衛門邸は、地図を見ると、嘉穂劇場のある裏手のメイン通りをまっすぐに北へ向かった飯塚市幸袋町というところにあった。
メイン通りからこの邸のある通りに入ると、古い家並みが続く。その中で、代官所を思わせる長い塀に囲まれた屋敷が伊藤伝右衛門邸である。敷地2300坪、建坪300坪といわれている大きさだ。
入場料を払い敷地内に入ると、建物は広い庭に囲まれた木造2階建てである。
建物内に入ると、左右に長い廊下が走る。部屋がいくつあるか知れないほどだ。建物の裏に広がる庭には、池やそれに架かる橋があり築山もある。それだけで、独立した庭園のようだ。
邸の2階に、白蓮の個室があり、そこから庭が見渡せる。ここから、白蓮は、どんな思いで庭を見ていたのだろうか。(写真)
しかし、この大邸宅は、数多くの使用人ほか伝右衛門の妾も同居するなど、複雑な環境だったようである。
結婚はしたものの、後に白蓮は、孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天の息子で、「解放」の記者であった宮崎龍介と恋仲になり、彼の子供を妊娠し家を出る。そして、新聞に伊藤伝右衛門への公開絶縁状を掲載したことにより、世論で大問題になる。
今の時代とは違い姦通罪のあった時代の、思い切った行動であった。
念のため記しておくと、姦通罪が適用されるのは、夫のある妻およびその相手の男で、妻のある夫である男が不倫あるいは妾を持っても姦通罪には適用されないという、男の都合のいい法律だった。この法律は、第2次世界大戦後廃止された。
この旧伊藤伝右衛門邸内には、柳原白蓮の資料も展示してある。
この筑豊の炭鉱王の伊藤伝右衛門邸を訪れると、やはり佐賀肥前の炭鉱王と呼ばれた杵島炭鉱の経営者、高取伊好を想起させる。
高取伊好の邸宅が唐津市に残っているが、高取邸は豪華さだけではなく、建物の内部に芸術的趣向が凝らされている。部屋のあちこちにある杉戸絵や襖絵、さらに邸内に茶室、能舞台を設けてある貴重な建物である。
「炭鉱王の邸宅・高取邸」(2008.2.1ブログ)
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北九州の炭鉱王のこの2つの邸宅は、明治以降、国をあげての富国強兵のもと工業化を支えた、石炭産業が華やかなりし時代の栄華をしのばせる。
と同時に、この栄華は、旧伊藤伝右衛門邸内に展示してあった、ユネスコの世界記憶遺産に登録された山本作兵衛の炭鉱絵に描かれている、多くの抗夫・労働者に負うものだということも忘れてならないだろう。
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