かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

炭鉱王の邸宅・高取邸

2008-02-01 15:09:46 | * 炭鉱の足跡
 明治から昭和初期にかけて、北九州では何人かの石炭採掘による炭鉱王が生まれた。
 財閥による組織的な開発に交じって、石炭の鉱脈を当てて、一代で巨万の富を築いたものもいたのだ。
 華族で歌人でもあった柳原白蓮を娶った、筑豊の伊藤伝右衛門と並び高名なのが佐賀の高取伊好(これよし)である。飯塚には伊藤伝右衛門の邸宅も残っているが、唐津の高取邸も去年修築が行われ、国の重要文化財として一般公開されるようになった。

 高取伊好は、幕末の1850年に佐賀・多久藩士の子として生まれ、明治になり上京して慶応義塾に学ぶ。その後工部省鉱山寮に入り鉱山学を学んで、長崎の高島炭鉱に入る。その頃に、大隈重信や岩崎弥太郎と知り合う機会を得た。
 高島炭鉱を退社したあと、明治18(1885)年独立し、次々と佐賀の炭鉱を開発していった。その代表的な炭鉱が、杵島炭鉱である。また、彼は、教育、文化にも寄与している。
 彼の経歴を見ても、一介の山師とは違う、正統的な明治の実業家の姿が浮かんでくる。

 高取邸は、唐津城の西の海に沿ったところにあった。
 長い石垣の中央のところに門があり、中に入ると洋風とおぼしき玄関が待ち受けている。その右側には和風の建物が添って建っていて、二つの建物が組み合わされた複雑な構造になっているのが分かる。
 敷地は2300坪で、中庭を持った大きな複合的な和風建築である。この中庭を囲んで、各部屋が繋がっているのである。そして、2階からは、北の方に玄界灘の海が臨める。
 部屋の基本は和風の畳敷きであるが、洋風仕立てで暖炉のある部屋もある。灯りもランプやアールヌーボー調の飾りも施されている。
 和室の障子、襖、さらに外に立てられたガラス戸は、職人の繊細な創意工夫が駆使されている。そして、目をとめるのは、部屋の各所に置かれた絵師によって絵を施された杉戸と、これまた職人による欄間の彫りである。当時、絵師や職人を長逗留させて、これらを作ったという。
 また、個人の家では極めて珍しい能舞台がある。座敷に組み込まれた能舞台は、国内唯一ではといわれている。

 当時の炭鉱王の贅が偲ばれるが、これが成金趣味とは決して感じられないのは、当主高取伊好の知性と教養であろう。各々の部屋が、今でもまるで血が通っているように繊細なのである。
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