石炭は、採掘されたあと選別され、不良炭は一か所に捨てられた。その捨てられた石の山がボタ山である。
かつて炭鉱町には、灰色がかった黒っぽいピラミッドのようなボタ山が、風景の一つとして多く見られた。そのボタ山も、1960年代のエネルギー革命により炭鉱が閉山に追いやられると、忘れられていった。
炭鉱町がなくなっていったのと同時に、忘れられたボタ山は姿を消していった。
ボタ山はどこへ行ったのか?
山が崩れる危険のため切り崩されたものもあるし、そのまま放置されたものは、そのうちに草が生え、木が生え、普通の山と見まがうようになっていった。
炭鉱が消えていって約半世紀たったあと、あれだけあったボタ山は、いつの間にか日本で見られなくなっていった。あるにはあるのだが、かつての灰色がかった黒い石によるピラミッドの威容を保っているものはない。
1975年に封切られた映画「青春の門」(監督:浦山桐郎、出演:田中健、仲代達也、吉永小百合、小林旭)には、まだ原形を保ったボタ山が映し出されていた。確かに、1970年代には、まだボタ山は各地に健在していたのだ。しかし、その後急速に見なくなっていった。いや、みんなボタ山のことなど話題にしなくなったし、忘れていたのだ。
日本のエネルギー資源は、石炭から石油、原子力へと移り、人々の生活は消費文化へと変わっていった。
忘れ去られた石炭は、まるで絶滅品種のようだ。
蒸気機関車も、もはや観光用の見世物としてしか走ることはない。
*
福岡県志免町の竪坑櫓とボタ山を見たあと、飯塚へ行き、江戸歌舞伎様式の嘉穂劇場、炭鉱王の旧伊藤伝右衛門邸を見た。
夕方、飯塚を離れて、佐賀に帰ることにした。
街中を縦断する通りを、まっすぐ南へ車を走らせた。
飯塚駅を左手に見ながら南に行くと、大きな橋に出た。遠賀川の支流の穂波川に架かる飯塚橋を渡って、さらに南に進んだ。JRの線路と平行して走った。
しばらく走ると、左手に緑の山が見えた。3つ並んでいた。それがボタ山だとすぐに分かった。こんなところにもあったのかと思わず息をのんだ。筑豊炭田の中心ともいえる飯塚だから、あって不思議はないのだが、何せ絶滅品種である。
予想しない突然の出現であった。
車を走っているうちに通り過ぎると見えなくなりそうなので、左の道に入って、近くへ行ってみた。住宅がひしめく、小さな町があった。町中を歩くと、そこが炭鉱町であった面影が漂っていた。おそらく、かつては炭住が並んでいたであろうと想像できる家並みだった。
家の先にボタ山がそびえていた。奥の2つの山は見えなくなっていたが、手前の1つは緩やかな斜面を残したボタ山だ。今は緑の山だが、見る人にはわかるきれいな形だ。(写真)
さらに、南に走って振り返ると、再びきれいな3つの山が小さく見えた。
後で調べてみると、この3つ並んだボタ山は、穂波町の旧住友忠隈炭鉱のボタ山で、「筑豊富士」と呼ばれていた。
忠隈炭鉱は、明治27年に麻生太吉から住友に経営が移り、その住友忠隈炭鉱は1961(昭和36)年に閉山し、引き継いだ第二会社の忠隈炭鉱株式会社も1965(昭和40)年に閉山した。
僕は迂闊にもその存在を知らずに、偶然にこのボタ山に出くわしたのだった。幸運というほかない。
日が暮れそうなので、帰途を急いだ。今度は、ボタ山の間近に行こうと思う。
かつて炭鉱町には、灰色がかった黒っぽいピラミッドのようなボタ山が、風景の一つとして多く見られた。そのボタ山も、1960年代のエネルギー革命により炭鉱が閉山に追いやられると、忘れられていった。
炭鉱町がなくなっていったのと同時に、忘れられたボタ山は姿を消していった。
ボタ山はどこへ行ったのか?
山が崩れる危険のため切り崩されたものもあるし、そのまま放置されたものは、そのうちに草が生え、木が生え、普通の山と見まがうようになっていった。
炭鉱が消えていって約半世紀たったあと、あれだけあったボタ山は、いつの間にか日本で見られなくなっていった。あるにはあるのだが、かつての灰色がかった黒い石によるピラミッドの威容を保っているものはない。
1975年に封切られた映画「青春の門」(監督:浦山桐郎、出演:田中健、仲代達也、吉永小百合、小林旭)には、まだ原形を保ったボタ山が映し出されていた。確かに、1970年代には、まだボタ山は各地に健在していたのだ。しかし、その後急速に見なくなっていった。いや、みんなボタ山のことなど話題にしなくなったし、忘れていたのだ。
日本のエネルギー資源は、石炭から石油、原子力へと移り、人々の生活は消費文化へと変わっていった。
忘れ去られた石炭は、まるで絶滅品種のようだ。
蒸気機関車も、もはや観光用の見世物としてしか走ることはない。
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福岡県志免町の竪坑櫓とボタ山を見たあと、飯塚へ行き、江戸歌舞伎様式の嘉穂劇場、炭鉱王の旧伊藤伝右衛門邸を見た。
夕方、飯塚を離れて、佐賀に帰ることにした。
街中を縦断する通りを、まっすぐ南へ車を走らせた。
飯塚駅を左手に見ながら南に行くと、大きな橋に出た。遠賀川の支流の穂波川に架かる飯塚橋を渡って、さらに南に進んだ。JRの線路と平行して走った。
しばらく走ると、左手に緑の山が見えた。3つ並んでいた。それがボタ山だとすぐに分かった。こんなところにもあったのかと思わず息をのんだ。筑豊炭田の中心ともいえる飯塚だから、あって不思議はないのだが、何せ絶滅品種である。
予想しない突然の出現であった。
車を走っているうちに通り過ぎると見えなくなりそうなので、左の道に入って、近くへ行ってみた。住宅がひしめく、小さな町があった。町中を歩くと、そこが炭鉱町であった面影が漂っていた。おそらく、かつては炭住が並んでいたであろうと想像できる家並みだった。
家の先にボタ山がそびえていた。奥の2つの山は見えなくなっていたが、手前の1つは緩やかな斜面を残したボタ山だ。今は緑の山だが、見る人にはわかるきれいな形だ。(写真)
さらに、南に走って振り返ると、再びきれいな3つの山が小さく見えた。
後で調べてみると、この3つ並んだボタ山は、穂波町の旧住友忠隈炭鉱のボタ山で、「筑豊富士」と呼ばれていた。
忠隈炭鉱は、明治27年に麻生太吉から住友に経営が移り、その住友忠隈炭鉱は1961(昭和36)年に閉山し、引き継いだ第二会社の忠隈炭鉱株式会社も1965(昭和40)年に閉山した。
僕は迂闊にもその存在を知らずに、偶然にこのボタ山に出くわしたのだった。幸運というほかない。
日が暮れそうなので、帰途を急いだ。今度は、ボタ山の間近に行こうと思う。
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