かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

白梅爛漫の湯島天神

2023-03-06 02:00:01 | * 東京とその周辺の散策
 湯島通れば 想い出す お蔦(つた)主税(ちから)の 心意気
  知るや白梅 玉垣に 残る二人の 影法師

 梅の季節ということで、3月1日のまだ日の明るい夕方、「湯島天神」(東京都文京区湯島・湯島天満宮)にやって来た。
 湯島といえば、冒頭にあげた歌がすぐに思い浮かぶ。「湯島の白梅」(唄:藤原亮子・小畑実、作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、1942年)である。
 泉鏡花の小説「婦系図」(1907(明治40)年発表)を原作とし、その後、新派の芝居の代表作となり、映画も数多く作られた、そのテーマ曲である。
 原作も読んでいないし芝居も映画も見ていないが、何となく粗筋を知っているのは、歌とともに物語のなかの、湯島境内の場でのお蔦の台詞も有名だからだろう。
 「切れるの、別れるのってそんなことはね、芸者の時にいうことよ。今の私には、死ねといって下さい」
 尾崎紅葉の「金色夜叉」(1897(明治30)年発表)の、熱海の海岸での寛一の台詞、「来年の今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせてみせる」と双璧の息の長い、語り継がれている台詞だろう。

 *湯島天神の白梅

 湯島天神へは地下鉄「上野御徒町」駅から歩いたが、地下鉄「湯島」駅からはすぐのところにある。
 湯島天神は、”梅まつり”( 2月8日~3月8日)の最中であった。ここへ来たのは何年ぶりであろうか。私にとっては懐かしいところである。
 春日通りから繋がる湯島天神の正面階段(夫婦坂)あたりに着くと、もう梅の花が見える。その階段を登って境内に入った。
 すぐに大きな本殿が見え、あたりに白梅が咲き誇っている。梅はチラホラと花弁が落ちかけている、まさに満開を過ぎなんとしている見頃である。桜のように一気に散らないのが梅のしぶとさである。
 散る前のさかりに見ておこうというのか、ウィークデーだというのに境内は多くの見物客で溢れている。
 本殿の建物の脇には、絵馬が鈴なりにぶら下がっている。湯島天神は、菅原道真を祀っている学問の神様でもあるので、受験のこの時期、合格祈願の絵馬で溢れているのだ。
 (写真)
 人の掛け声と本殿の前に人だかりがしていたので近づいてみると、大道芸の“猿まわし”をやっていた。
 数年前、芝の増上寺でやっていたのを思い出した。あまり見る機会はないが、消えないでほしい芸である。
 境内をひと通り周って梅見を堪能した後、境内から湯島駅方面に下る「男坂」の急な階段を降りて、この界隈を味わうように歩いた。そして、再び湯島天神に向かう、今度は緩やかな「女坂」を登って、境内に戻った。
 女坂の途中に、湯島天神を仰ぎ見ているように建っている、明治の新派の劇に出てくるような古い味のある家は、今も人が住んでいるのだろうか。水谷八重子(良重)か山本富士子のような人が、ひょっこり戸を開けて顔を出したりして。
 再び境内に入り、最初に入ってきた夫婦坂の反対側の鳥居のあるところから湯島天神を出た。

 *湯島から続く、本郷の想い出

 湯島通れば想い出す……
 私がここを懐かしいといったのは、理由がある。
 勤めていた出版社をやめた後、フリーランスになった1996(平成8)~1997(平成9)年頃、本郷5丁目にあった小さな出版社に通っていた時期があった。その会社は、地下鉄本郷三丁目から本郷通りを東大赤門方面に向かった途中のビル中にあった。
 地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目からは歩いてすぐなのだが、私は好んで十数分はかかる地下鉄千代田線の湯島駅から本郷に向かう春日通りを歩いて通ったものだった。
 そして、朝会社に行くときに、夜会社から帰るときに、しばしば途中で湯島天神のなかを通って行った。ときに、たまたま出くわした春の梅祭りや秋の菊祭りを1人楽しんだ。また、男坂や女坂を訳もなく歩いた。
 思いがけず住宅雑誌という馴れぬ仕事を任されて、本郷の会社に通っていた最中の、湯島天神は息抜きの回り道だった。
 湯島天神界隈の、少し昔の匂いがする家とビルが交ざりあう街並が心をしずませた。

 *文人の街、本郷、真砂町、東大赤門

 湯島天神から春日通りを歩き、地下鉄「本郷三丁目」の本郷通りに出た。
 本郷通りを見やると、すぐに赤い提灯をかざした下町の商店街の入口かと思わせる、派手な「本郷薬師」の門が目に入る。どのような立派な寺があるのかと思って奥に進むと、ぽつんと「本郷薬師堂」があるだけである。
 本郷薬師は江戸時代に「真光寺」の境内に建てられ、その界隈は賑わったそうだが、第2次世界大戦で焼失し本体は世田谷に移転した。現在のこじんまりとした堂は、後に再建されたものである。
 その横の道に入ったところの墓地の縁に、戦争で焼け残ったとされる真光寺の「十一面観世音菩薩像」が置かれている。
 本郷薬師堂の先に、境内に「見送り稲荷」がある「桜木神社」があった。

 この辺りは「真砂町」(まさごちょう)といったとある。
 真砂町といえば、泉鏡花の「婦系図」の「真砂町の先生」である。
 主税は、柳橋の芸者であったお蔦との関係を真砂町の先生に叱られ別れさせられる。
 泉鏡花は尾崎紅葉の門下で書生をしていて、神楽坂の芸者と恋仲になったのを、師の紅葉に叱責され別れさせられたことがある。
 この過去の経験が、「婦系図」の基になったのだろう。
 真砂町、この辺りは文人(作家)が多く住んでいた。菊坂下あたりには樋口一葉の住んだ跡がある。
 この真砂町は、町名はなくなったが坂に名を残している。

 本郷通りをかつて通った出版会社のあったビルを過ぎて、「東大赤門」まで行ってみた。現在、門は閉まっていた。
 今はどうだか知らないが、門のなかの校内には誰でも自由に入れた。この近くの出版社で仕事をしていたとき、校内の安田講堂の地下にある学生食堂で、時々昼食をとっていたのも懐かしい。

 *神楽坂で夕食を

 日も暮れ始めたので、本郷三丁目から地下鉄大江戸線で牛込神楽坂へ行った。
 神楽坂の中華料理店「梅香」(メイシャン)で夕食を。ワインとともに、繊細な辛さが舌に心地よい。
 この日は、思いがけずに”梅尽くし”となった。
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