かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

桐島洋子という生き方、「ペガサスの記憶」

2023-03-19 03:28:18 | 本/小説:日本
 あるとき、書店で手にした小学館のPR誌「本の雑誌」に載った桐島洋子の「ペガサスの記憶」を読んだら面白い。桐島洋子の自伝で、月1回の連載であった。
 彼女の生い立ちから始まって、活気ある高校生の青春時代、卒業後就職した文芸春秋社時代、そして男性との恋愛ともラブアフェアーともとれる関係、未婚での出産、思いついたら実行に移す旅など、羨ましいほど自由闊達な生き方が、小説のように愉快で痛快だ。

 桐島洋子は、1971(昭和46)年「淋しいアメリカ人」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したあと、1970年代後半頃、当時まだ珍しかった「シングルマザー」ということもあって、新しい女性の生き様として、「翔(と)んでる女」などと呼ばれて人気のあった作家・エッセイストである。

 私は桐島洋子の読者ではなかったが、このPR誌連載の自伝を読み始めたら、こんなに面白い女性だったのなら、彼女が活発に活動していた時代に彼女の書物を読んでおけばよかったと、地団太を踏むほど引き込まれた内容だった。
 ところが、2016(平成28)年5月に連載が始まったのだが、10か月で突然連載が中断された。
 私は、彼女の病気による体調不良か何かで、すぐに再開されるだろうと思っていたが、何の告示もなされないまま月日が過ぎた。中断理由も再開予告もないので、誰からかクレームがかかってのことかと邪推したりもした。というのは、名のある人物が実名で書かれていたからである。

 忘れた頃の2022(令和4)年、「ペガサスの記憶」(小学館)が出版された。
 桐島洋子はアルツハイマー型認知症のため自伝の連載は中断され、病気も発表されずに5年後に発売となった。それも、彼女と3人の子ども、桐島かれん、ノエル、ローランドの共著となっていて、表紙は家族写真である。
 つまり、認知症の悪化により執筆不可能になっていたが、3人の子どもたちが後半を受け継ぎ出版にこぎつけたとある。
 であるから、桐島洋子の出生から次女ノエルの出産までの前半が彼女による自伝で、後半は子どもたち3人の各々の半生と母、桐島洋子への思いで構成されている。
 当然、読み応えがあるのは前半の本人による半生である。

 *悦楽主義の「翔んでる女」

 とりわけ桐島洋子が文芸春秋に勤めていた時代は、その後の彼女が醸成される季節として面白く読むことができる。
 戦前に”武装共産党”の委員長でのちに転向した右派の田中清玄が「文芸春秋」誌上に登場したことで、桐島は彼と知りあう。
 当時「60年安保」の最中で、全学連がマスコミ・紙面を賑わしていた。
 田中清玄が1960年、文藝春秋に「全学連の諸君に与う」(本文ママ)という文章を発表、そのとき担当したのも桐島だった。
 この文が発端で全学連の幹部と田中が親密となり、全学連は援助をもらったと後で問題、話題となる。
 この縁で、桐島は当時の全学連の委員長の唐牛健太郎と知りあい、何とあろうことか愛人関係になる。恋人関係といわなかったのは唐牛が結婚していたからである。
 今だったら、いわゆる”文春砲”とやらで大スキャンダルで大騒ぎとなったであろう。

 その後、アメリカ人のダグと知りあい愛人関係になり、彼の子を妊娠する。
 そのとき、会社には病気と称し2か月の休暇をとり、2人のために海に近い湘南に家を借り、(未婚のまま)出産し、産まれた子どもは千葉の専門の養母に預けるという、絵に描いたような自己中心的で快楽主義者的な行動なのである。

 その翌年、またまた2人目の子どもを妊娠。
 出産するための会社の休暇であるが、今度は仮病は使えないと考え世界旅行を企てる。
 それで、出版局長あてに次のようなことで休暇の了承を請う。
 「ひと夏お休みを頂いたばかりで心苦しいのですが、どうしてもヨーロッパに行かなければならない用事ができたので2か月ほど休暇を頂きたいのです。行きは横浜からソ連(現・ロシア)の客船でナホトカ上陸、ハバロフスカからシベリア鉄道でユーラシア大陸横断してヨーロッパへ。そこでヨーロッパの国々を巡り歩き、帰りはフランスのマルセイユからエジプト、インドなどを巡行しながら1か月がかりの船旅で日本に戻りたいと思います。意外と経済的なのに、とても変化に富んだ面白い旅程なので、編集者としても勉強になり、会社の御為(おため)になることを確信いたします」
 こう熱弁を揮ったのだったが、あっさり「2週間までなら許可していいよ」との局長の返答であった。
 1965(昭和40)年のことであるから、彼女27歳のときである。

 このエピソードを読んで、私も似たようなことを試みたなあと思いだした。
 出版社に入って5年が経ったころ、行き詰った私は打開策としてパリ行きを思いたち、出版局長に談判した。
 パリに在住したいので1年ほど休暇できないかと請うと、そんな制度はないとまったく問題にされなかった。それでは3か月はどうかと妥協したといった口調で切り返したが、実直が取り柄の局長は、それも前例がない、君一人を認めるわけにはいかないと、これもまったく承諾の気配はなかった。
 仕方がないと、私は数日後に出直し、有給休暇を含めた3週間の休暇願を出して、パリに出発したのだった。1974(昭和49)年、28歳のときである。

 しかし、桐島洋子と私が違うのは、私はそのとき会社を辞める勇気が持てず、3週間の旅で終わったのだが、彼女はあっさり会社を辞め、2か月の旅を決行したのである。
 しかも、旅の最後の日となる神戸に入港するクリスマスの日の朝に、船中で次女を出産して旅を終えたのだった。

 *
 桐島洋子の自叙伝は、ここ(本の前半)で終わる。
 実は、この後が知りたかったのだ。
 断片でしか語られていない、新左翼組織「共産主義者同盟」(ブント)の創始者の一人で、「60年安保闘争」での中心的活動家であった国際的な経済学者、青木昌彦との恋愛談。
 また、シングルマザーのトップランナーとして疾走してきた彼女が、45歳のとき、なぜ勝見洋一(美術鑑定家)と結婚したのか。
 というのは、この本で「自分のことを必要以上に大きく、よく見せるために、本当でないことも、本当のように話す、劇場型の男」(かれん)と書いているように、勝見は彼女の3人の子どもたちから一様に悪評高く、彼が家族に入ってきたときから歯車が狂い始めた、と記されているのである。
 そして、現実主義的で合理主義的な行動派であった彼女が、いつ頃からスピリチュアルな世界に入っていったのか、その内面の動きは何だったのか。

 もし後半生も書ききっていたら、桐島洋子の「ペガサスの記憶」は、島田雅彦の自伝的私小説「君が異端だった頃」(集英社)と肩を並べる痛快悦楽自伝書と呼べただろう。
 ともあれ、破天荒とも思える悦楽的な生き方をした桐島洋子は、この本の半生だけでも充分過ぎるほど生ききったと思えるのである。

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