ピーター・キャメロン著 岩本正恵訳 新潮社
自分にはこの道しかない、この道が閉ざされたらすべてが終わりだ、と思うときがある。
そう思うのは、多くが若いときの、受験だったり就職試験だったりのときである。また、あるときは恋の場合もあろう。
しかし、あとから振り返ると、道はその道だけとは限らないことを知る。自分の望むただ一つの道が閉ざされても、別の道があるものなのだ。
とはいっても、その時点ではそうは思えない。正面に広がっている道以外は、道とはいえない薮や闇にしか思えないのだ。
しかし、望む道が遮られても、前に進まないといけない。とにかく進んでみて、違った脇道があるのを知るのだ。その脇道に、もっとすばらしい展開が待ちうけているかもしれないのだ。
いやいや、すばらしいかどうかは分からない。その表現は間違っている。そもそも二つの道の比較はできないのだから、どちらがすばらしいかなど言えるはずがない。人は二つの人生を歩むことができないのだから。
ただ、望む正面の道はある程度予測可能だが、脇道は何が起こるか分からないという予測不可能の道なのだ。
どの道に進むにしろ、それが人生である。
*
アメリカのカンザス大学の大学院で文学を学んでいるオマー・ラギザは、作家のユルス・グントの伝記を執筆する計画でいる。この伝記を執筆するということで、大学の研究奨励金を受けていたし今後も受けられる予定である。それに、この伝記の執筆が終わったら、大学出版局から出版する認可も受けている。
そうすると、博士課程を順調に進級・受得すると同時に、大学への教職の展望もうまく開けてくるだろう。つまり、彼の伝記作家としても研究者としても、レールに乗るだろうと思われるのだ。
それには、故人となっている伝記対象者のユルス・グント氏の遺言執行者の伝記執筆に関する公認証明書が必要で、それを大学に提出しなければならない。要するに、グント氏の関係者の正式な許可が必要というわけである。
グント氏の遺言執行者は、氏が作家活動を行った南米のウルグアイに住んでいる。
関係者は3人いて、ユルス・グントの元妻、元愛人、それにユルス・グントの兄である。
オマーが、彼らにユルス・グントの伝記の執筆依頼と、その公認証明書を与えて欲しいとする手紙を送るところから、この物語は始まる。
しかし、オマーのもとに、思いもよらない不許可の返事が来る。
彼は途方に暮れる。ほかの選択肢は考えていなかったし、見つからなかった。そんな彼を見て恋人のディアドラは、すぐにウルグアイに行って、彼らを説得するように言う。
このような事情で、オマーは彼らが住む見知らぬウルグアイに行くことにする。
住所をもとにたどり着いたそこは、静かな人里離れた村で、彼らが住む古い邸宅があった。
突然の招かれざる若い男の出現は、彼らの心にそれぞれ波紋を呼び起こす。
著者のピーター・キャメロンは、1959年生まれのアメリカの作家。少年時代をイギリスで過ごしている。本書は、「日の名残り」を撮ったジェイムス・アイボリー監督によって映画化されている。ちなみに、この映画には真田広之も出演しているという。
まず裏表紙に紹介されている小説の粗筋を読んで、静かな平凡な家庭に一人の若者がさ迷いこんできて、彼らのすべての人と性的関係を持ち、家庭を崩壊させて去っていくという、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア映画「テオレマ」(テレンス・スタンプ主演)を想起させた。
また、一人の男を巡る3人の姉妹との関係・動揺を描いた、韓国映画でイ・ビョンボン、チェ・ジウ主演の「誰にでも秘密がある」をも思い出した。
しかし、この物語は少しニュアンスが違った。主人公は、完璧な男ではない、気の優しい青年である。
作家の元妻、愛人、兄。彼らの一人一人が、作家の伝記に関して違った思惑を持っていて、違った目でさ迷いこんできた男を見、接した。やがて、そこで静かに暮らしていた彼らの過去が、少しずつ顕わになってくる。
南米の静かな村。このまま平穏に進んでいくのではないかと思われた一見穏やかな関係に、亀裂が入る。関係の崩壊と同時に新しい展開が始まる。
しかし結局、伝記を書くことしか思いがよらなかった大学院生のオマーは、すべてを捨て、まったく違った道を歩むことを決心する。
物語の最終では、一人の男の道だけでなく、関係者のすべてが違った展開、道に出くわすことになる。おぼろげながらにこのまま進むであろうと思っていた静かな道以外に、別の道が現れたのだった。
人生には、大きな真っ直ぐな道以外に小道や脇道や、人のあまり通らない獣道も存在する。思いもよらないところから出現する新しい細い道を一歩進むことから、その道は大きな道に変わる。それは、新しい人生とも言える。
もちろん、それが正しい道とも、よりすばらしい道とも、誰も言えない。一歩前に進まなくとも、それは人生である。何を、誰に咎められよう。
どのような道を選ぼうとも、時は均しく人に与えて、いつしか過ぎていく。
ともあれ、「最終目的地」(The city of your final destination)は、どこにあるか分からない。決まっていないのが人生である。
自分にはこの道しかない、この道が閉ざされたらすべてが終わりだ、と思うときがある。
そう思うのは、多くが若いときの、受験だったり就職試験だったりのときである。また、あるときは恋の場合もあろう。
しかし、あとから振り返ると、道はその道だけとは限らないことを知る。自分の望むただ一つの道が閉ざされても、別の道があるものなのだ。
とはいっても、その時点ではそうは思えない。正面に広がっている道以外は、道とはいえない薮や闇にしか思えないのだ。
しかし、望む道が遮られても、前に進まないといけない。とにかく進んでみて、違った脇道があるのを知るのだ。その脇道に、もっとすばらしい展開が待ちうけているかもしれないのだ。
いやいや、すばらしいかどうかは分からない。その表現は間違っている。そもそも二つの道の比較はできないのだから、どちらがすばらしいかなど言えるはずがない。人は二つの人生を歩むことができないのだから。
ただ、望む正面の道はある程度予測可能だが、脇道は何が起こるか分からないという予測不可能の道なのだ。
どの道に進むにしろ、それが人生である。
*
アメリカのカンザス大学の大学院で文学を学んでいるオマー・ラギザは、作家のユルス・グントの伝記を執筆する計画でいる。この伝記を執筆するということで、大学の研究奨励金を受けていたし今後も受けられる予定である。それに、この伝記の執筆が終わったら、大学出版局から出版する認可も受けている。
そうすると、博士課程を順調に進級・受得すると同時に、大学への教職の展望もうまく開けてくるだろう。つまり、彼の伝記作家としても研究者としても、レールに乗るだろうと思われるのだ。
それには、故人となっている伝記対象者のユルス・グント氏の遺言執行者の伝記執筆に関する公認証明書が必要で、それを大学に提出しなければならない。要するに、グント氏の関係者の正式な許可が必要というわけである。
グント氏の遺言執行者は、氏が作家活動を行った南米のウルグアイに住んでいる。
関係者は3人いて、ユルス・グントの元妻、元愛人、それにユルス・グントの兄である。
オマーが、彼らにユルス・グントの伝記の執筆依頼と、その公認証明書を与えて欲しいとする手紙を送るところから、この物語は始まる。
しかし、オマーのもとに、思いもよらない不許可の返事が来る。
彼は途方に暮れる。ほかの選択肢は考えていなかったし、見つからなかった。そんな彼を見て恋人のディアドラは、すぐにウルグアイに行って、彼らを説得するように言う。
このような事情で、オマーは彼らが住む見知らぬウルグアイに行くことにする。
住所をもとにたどり着いたそこは、静かな人里離れた村で、彼らが住む古い邸宅があった。
突然の招かれざる若い男の出現は、彼らの心にそれぞれ波紋を呼び起こす。
著者のピーター・キャメロンは、1959年生まれのアメリカの作家。少年時代をイギリスで過ごしている。本書は、「日の名残り」を撮ったジェイムス・アイボリー監督によって映画化されている。ちなみに、この映画には真田広之も出演しているという。
まず裏表紙に紹介されている小説の粗筋を読んで、静かな平凡な家庭に一人の若者がさ迷いこんできて、彼らのすべての人と性的関係を持ち、家庭を崩壊させて去っていくという、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア映画「テオレマ」(テレンス・スタンプ主演)を想起させた。
また、一人の男を巡る3人の姉妹との関係・動揺を描いた、韓国映画でイ・ビョンボン、チェ・ジウ主演の「誰にでも秘密がある」をも思い出した。
しかし、この物語は少しニュアンスが違った。主人公は、完璧な男ではない、気の優しい青年である。
作家の元妻、愛人、兄。彼らの一人一人が、作家の伝記に関して違った思惑を持っていて、違った目でさ迷いこんできた男を見、接した。やがて、そこで静かに暮らしていた彼らの過去が、少しずつ顕わになってくる。
南米の静かな村。このまま平穏に進んでいくのではないかと思われた一見穏やかな関係に、亀裂が入る。関係の崩壊と同時に新しい展開が始まる。
しかし結局、伝記を書くことしか思いがよらなかった大学院生のオマーは、すべてを捨て、まったく違った道を歩むことを決心する。
物語の最終では、一人の男の道だけでなく、関係者のすべてが違った展開、道に出くわすことになる。おぼろげながらにこのまま進むであろうと思っていた静かな道以外に、別の道が現れたのだった。
人生には、大きな真っ直ぐな道以外に小道や脇道や、人のあまり通らない獣道も存在する。思いもよらないところから出現する新しい細い道を一歩進むことから、その道は大きな道に変わる。それは、新しい人生とも言える。
もちろん、それが正しい道とも、よりすばらしい道とも、誰も言えない。一歩前に進まなくとも、それは人生である。何を、誰に咎められよう。
どのような道を選ぼうとも、時は均しく人に与えて、いつしか過ぎていく。
ともあれ、「最終目的地」(The city of your final destination)は、どこにあるか分からない。決まっていないのが人生である。
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