ヴァレリオ・ズルリーニ監督 クラウディア・カルディナーレ ジャック・ペラン 1961年作品
クラウディア・カルディナーレが20才を過ぎた頃の作品で、彼女のはち切れんばかりの肉体が眩しい。
何年か前に夕張映画祭に彼女が来日したときの写真が週刊誌に掲載された。ときめく胸の鼓動を押さえてその記事を探し見つけたが、僕はすぐにそのページを閉じた。その人がカルディナーレだと書かれていなかったら、目にとまることもないであろう初老の、しかも決して美しくはない女性がそこにいた。あの眩しいばかりの輝きの片鱗も残ってはいなかった。そのときの写真の顔はもう思い出せない。僕の心(脳)が、記憶から消去したがっているのに違いない。
老いたオードリー・ヘプバーンの写真を見たときもそうだった。月日は残酷だ。
しかし、映画がいい(素晴らしい)のは、こうやっていつまでもスクリーンに、その当時のままの姿を見せつけてくれるところにある。スクリーンで演じている本人も、それを見ている観客も、時とともに老いていくのに、スクリーンの中だけはいつまでも変わらない「あのとき」のままなのだ。
映画の内容は、男に逃げられたクラブ歌手の主人公が、まだ高校生であるその男の弟に恋される。ひたむきな青年ともいえない少年にとって、恋した女は世界の違う大人だった。純朴な少年は、当然恋の駆け引きも知らず、なかなか女の気持ちや行動が分からない。少年は悩むし、周囲の(分別ある)大人は別れさせようとする。このあやふやな年上の女をカルディナーレが好演している。
若いジャック・ペランが、コレットの『青い麦』のように、青臭くも背伸びしたぎこちない恋を演じていた。若い時の自分を見ているようで気恥ずかしくなった。大人になりきれなかった僕も、かつてぎこちなく、すぐにジェラシーを抱いて、成熟した女を戸惑わせていたのだろう。
そのジャック・ペランが、アンナ・カリーナをJ・R・ゴダールから奪ったということを後で知った。彼の年上の女との恋物語がのちに活かされていたのかもしれない。
もう一つの発見は、海辺でカルディナーレを間に、若いジャック・ペランと彼女を誘惑している男が喧嘩をする場面のバック・グラウンドとして、日本で森山加代子が歌ってヒットした「月影のナポリ」が流れたことだ。この歌は「ティタレラディルナ…」と呪文のような詞で始まるリズミカルな曲だ。
この頃、森山加代子は、「じんじろげ」や「ズビズビズー」といった無国籍的な歌を歌っていたので、この歌も和製ポップスと思っていた。そうではなくて、ちゃんとしたイタリアの歌だったのだ。この映画が公開されたのが1961年で(というのは制作は60年だろう)、日本で歌がヒットしたのが60年だから、ほとんど日本とイタリアでは同時期にヒットしていたのだ。
僕がカルディナーレの映画を初めて見たのは、上京したばかりの大学1年の時だった。なぜか同級生の女の子2人と一緒に見に行った。
それは『ブーベの恋人』だった。僕は、いっぺんに彼女が好きになった。その映画の中では、彼女は政府への抵抗運動に参加して殺人犯として捕まった男(ジョージ・チャキリス)をひたむきに愛する女だった。そのとき、彼女は妖艶さも奔放さも出していなかったが、その猫のような大きな瞳とはち切れんばかりのメリハリのある身体からは、それらを読みとることは容易だった。
1960年代当時の美女は、M・M(マリリン・モンロー)のあと、B・B(ブリジッド・バルドー)が出てきて、さらにクラウディア・カルディナーレはC・Cと呼ばれていた。僕が思うに、別格の美女としてエリザベス・テイラーが存在していた。
*
では、歴代映画スターの最高の美女は誰だろうか。古い順から私的嗜好も少し入っているとして、好きな映画も含めて挙げてみよう。
☆エリザベス・テイラー (「若草物語」)この人は別格
☆マリリン・モンロー (「7年目の浮気」)身体だけ取りあげられているが、声がいい
☆オードリー・ヘプバーン (「ティファニーで朝食を」)セックス・アピールはない
☆ジーナ・ロロブリジーダ 映画は見ていないが、写真を見ているだけで喉が渇いた
☆デボラ・カー (「王様と私」)何といっても気品がある
☆ジェニファー・ジョーンズ (「慕情」)チャイナ・ドレスがよく似合う
☆キム・ノヴァク (「逢う時はいつも他人」)スーパーで擦れ違うとクラクラする
☆ジャクリーヌ・ササール (「3月生れ」)何をしても許してあげる
☆ジーン・セバーグ (「勝手にしやがれ」)薄幸だったから愛おしい
☆ブリジッド・バルドー (「軽蔑」)身体だけだったのか
☆クラウディア・カルディナーレ (「ブーベの恋人」)きっと翻弄されそう
☆アン・マーグレット (「バイ・バイ・バーディ」)まばゆい思春期の象徴
☆カトリーヌ・スパーク (「太陽の下の18才」)イタリアの少女は早熟
☆アンナ・カリーナ (「気狂いピエロ」)彼女が最高の美女かどうかはともかく、最高の映画だ
☆カトリーヌ・ドヌーブ (「昼顔」)老いても衰えを知らない驚異の美人
☆ドミニク・サンダ (「悲しみの青春」)わがままで気の強そうな瞳に一目惚れ
☆イザベル・アジャーニ (「アデルの恋の物語」)美少女の面影
☆エマニュエル・ベアール (「美しき諍い女」)いい女で、いい映画
☆シャロン・ストーン (「氷の微笑」)艶っぽいばかりじゃない
☆アンジェリーナ・ジョリー 次代を背負う美女に違いない
『悲しみの青春』(1971年作品)でのドミニク・サンダに衝撃を受けた後、『初恋』、『暗殺の森』と矢継ぎ早に彼女の作品を見た。気の強そうな瞳には、華麗さと奔放さを孕んでいた。やはり、彼女は15才で結婚したがすぐに離婚、その後未婚で子供を産んだ、自由な女だった。
僕のナンバーワンは、C・Cを押しのけて、このドミニク・サンダか。その後、あまり彼女の出演映画を見ないが、今はどうしているのだろう。
クラウディア・カルディナーレが20才を過ぎた頃の作品で、彼女のはち切れんばかりの肉体が眩しい。
何年か前に夕張映画祭に彼女が来日したときの写真が週刊誌に掲載された。ときめく胸の鼓動を押さえてその記事を探し見つけたが、僕はすぐにそのページを閉じた。その人がカルディナーレだと書かれていなかったら、目にとまることもないであろう初老の、しかも決して美しくはない女性がそこにいた。あの眩しいばかりの輝きの片鱗も残ってはいなかった。そのときの写真の顔はもう思い出せない。僕の心(脳)が、記憶から消去したがっているのに違いない。
老いたオードリー・ヘプバーンの写真を見たときもそうだった。月日は残酷だ。
しかし、映画がいい(素晴らしい)のは、こうやっていつまでもスクリーンに、その当時のままの姿を見せつけてくれるところにある。スクリーンで演じている本人も、それを見ている観客も、時とともに老いていくのに、スクリーンの中だけはいつまでも変わらない「あのとき」のままなのだ。
映画の内容は、男に逃げられたクラブ歌手の主人公が、まだ高校生であるその男の弟に恋される。ひたむきな青年ともいえない少年にとって、恋した女は世界の違う大人だった。純朴な少年は、当然恋の駆け引きも知らず、なかなか女の気持ちや行動が分からない。少年は悩むし、周囲の(分別ある)大人は別れさせようとする。このあやふやな年上の女をカルディナーレが好演している。
若いジャック・ペランが、コレットの『青い麦』のように、青臭くも背伸びしたぎこちない恋を演じていた。若い時の自分を見ているようで気恥ずかしくなった。大人になりきれなかった僕も、かつてぎこちなく、すぐにジェラシーを抱いて、成熟した女を戸惑わせていたのだろう。
そのジャック・ペランが、アンナ・カリーナをJ・R・ゴダールから奪ったということを後で知った。彼の年上の女との恋物語がのちに活かされていたのかもしれない。
もう一つの発見は、海辺でカルディナーレを間に、若いジャック・ペランと彼女を誘惑している男が喧嘩をする場面のバック・グラウンドとして、日本で森山加代子が歌ってヒットした「月影のナポリ」が流れたことだ。この歌は「ティタレラディルナ…」と呪文のような詞で始まるリズミカルな曲だ。
この頃、森山加代子は、「じんじろげ」や「ズビズビズー」といった無国籍的な歌を歌っていたので、この歌も和製ポップスと思っていた。そうではなくて、ちゃんとしたイタリアの歌だったのだ。この映画が公開されたのが1961年で(というのは制作は60年だろう)、日本で歌がヒットしたのが60年だから、ほとんど日本とイタリアでは同時期にヒットしていたのだ。
僕がカルディナーレの映画を初めて見たのは、上京したばかりの大学1年の時だった。なぜか同級生の女の子2人と一緒に見に行った。
それは『ブーベの恋人』だった。僕は、いっぺんに彼女が好きになった。その映画の中では、彼女は政府への抵抗運動に参加して殺人犯として捕まった男(ジョージ・チャキリス)をひたむきに愛する女だった。そのとき、彼女は妖艶さも奔放さも出していなかったが、その猫のような大きな瞳とはち切れんばかりのメリハリのある身体からは、それらを読みとることは容易だった。
1960年代当時の美女は、M・M(マリリン・モンロー)のあと、B・B(ブリジッド・バルドー)が出てきて、さらにクラウディア・カルディナーレはC・Cと呼ばれていた。僕が思うに、別格の美女としてエリザベス・テイラーが存在していた。
*
では、歴代映画スターの最高の美女は誰だろうか。古い順から私的嗜好も少し入っているとして、好きな映画も含めて挙げてみよう。
☆エリザベス・テイラー (「若草物語」)この人は別格
☆マリリン・モンロー (「7年目の浮気」)身体だけ取りあげられているが、声がいい
☆オードリー・ヘプバーン (「ティファニーで朝食を」)セックス・アピールはない
☆ジーナ・ロロブリジーダ 映画は見ていないが、写真を見ているだけで喉が渇いた
☆デボラ・カー (「王様と私」)何といっても気品がある
☆ジェニファー・ジョーンズ (「慕情」)チャイナ・ドレスがよく似合う
☆キム・ノヴァク (「逢う時はいつも他人」)スーパーで擦れ違うとクラクラする
☆ジャクリーヌ・ササール (「3月生れ」)何をしても許してあげる
☆ジーン・セバーグ (「勝手にしやがれ」)薄幸だったから愛おしい
☆ブリジッド・バルドー (「軽蔑」)身体だけだったのか
☆クラウディア・カルディナーレ (「ブーベの恋人」)きっと翻弄されそう
☆アン・マーグレット (「バイ・バイ・バーディ」)まばゆい思春期の象徴
☆カトリーヌ・スパーク (「太陽の下の18才」)イタリアの少女は早熟
☆アンナ・カリーナ (「気狂いピエロ」)彼女が最高の美女かどうかはともかく、最高の映画だ
☆カトリーヌ・ドヌーブ (「昼顔」)老いても衰えを知らない驚異の美人
☆ドミニク・サンダ (「悲しみの青春」)わがままで気の強そうな瞳に一目惚れ
☆イザベル・アジャーニ (「アデルの恋の物語」)美少女の面影
☆エマニュエル・ベアール (「美しき諍い女」)いい女で、いい映画
☆シャロン・ストーン (「氷の微笑」)艶っぽいばかりじゃない
☆アンジェリーナ・ジョリー 次代を背負う美女に違いない
『悲しみの青春』(1971年作品)でのドミニク・サンダに衝撃を受けた後、『初恋』、『暗殺の森』と矢継ぎ早に彼女の作品を見た。気の強そうな瞳には、華麗さと奔放さを孕んでいた。やはり、彼女は15才で結婚したがすぐに離婚、その後未婚で子供を産んだ、自由な女だった。
僕のナンバーワンは、C・Cを押しのけて、このドミニク・サンダか。その後、あまり彼女の出演映画を見ないが、今はどうしているのだろう。
会いたいような、会いたくないような……。C・カルディナーレやA・ヘプバーンの例もあるからなぁ。
☆イングリッド・バーグマン(「誰がために鐘は鳴る」)は、なぜか好きになれなかった。この人は、とりわけ特徴があるわけではないのに作品に恵まれている。☆モナコ王妃となったグレース・ケリー(「裏窓」)は、美女なのに整いすぎて印象が薄かった。☆アヌーク・エーメ(「甘い生活」)は、大きな眼に吸い込まれそうだが、代表作の「男と女」の甘さが好きになれない。☆ソフィア・ローレン(「ひまわり」)は、どこもかもが過剰。☆キャンディス・バーゲンは、アメリカの優等生的。☆ジャクリーン・ビセット(「アメリカの夜」)は、いい女なのにねえ、どうしてでしょうか。☆ソフィー・マルソーは、アイドルのまま年を重ねている。悪いことではないが。☆ジュリア・ロバーツ(「プリティ・ウーマン」)は、可愛い女を演じているのがだんだん鼻についてきた。
本文中の上記の文面、笑ってしまいました。筆者の冗談かと思っても見ましたが、中々本気である事にさらに笑ってしまいました。
そして、美女列。エリザベス・テイラーのこの人は別格からドキドキしながら私的嗜好を読みました。おおむね同感では有りますが、アレーッ!!私のナンバーワンは何処へ行ったのでしょうか?まさか消去か?
その人はイングリット・バーグマン。