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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

ブルーライト・ヨコハマ① まずは山下公園から埠頭へ

2022-01-20 01:43:46 | * 東京とその周辺の散策
 街の明かりがとてもきれいねヨコハマ……

 横浜は加速度的に姿を変えている。
 特に海辺の山下公園から続く埠頭の景色はすっかり変わったし、今なお変わりつつある。横浜埠頭に、空高くロープウェイが飛行しているのを知っていましたか?
 (写真は、黄昏時の万国橋からミナトミライ方面の景色)

 時が速いのは知ってはいたが。おとそ気分でうたた寝している間に、正月の松の内も明けてしまった。
 振りかえれば既に去年のことになるが、近年の年末恒例となった横浜散策&中華街・満州料理食行を、12月28日、湘南の士と行った。
 今回の横浜散策の目的(目標)は、ホテル・ニューグランドから山下公園を抜けて、横浜税関資料展示室、新港埠頭の海上保安庁資料館横浜館を見て、臨港線の廃線跡である汽車道を歩き、その道に並行して運河パークと桜木町を結ぶロープウェイのヨコハマ・エア・キャビンに乗ることである。
 そして最終地は中華街、満州料理。

 *日本洋裁発祥の地→ホテル・ニューグランド→山下公園

 午後1時半、みなとみらい線・元町中華街駅前から出発。
 中華街方面の地上の出口を出たすぐのところに、赤茶色の台座の上にクラシックな洋装の婦人の銅像が建っているのが目に入った。素通りしそうだったが、よく見ると、なんと「日本洋裁発祥の地」の記念碑だ。
 碑文には「1863年 (文久3年) 英国人ミセス・ピアソンが 横浜居留地97番にドレス ・メーカーを開店したのが 横浜の洋裁業の始まりである。その頃から在留西洋婦人は 自家裁縫のため日本人足袋職人・和服仕立職人を入仕事として雇い、これにより婦人洋服仕立職人が育った……」とある。
 母が洋裁業をやっていて、私の編集者としての出発が服飾誌「ドレスメーキング」なので感慨深いものがあった。私のなかで、洋裁の師と思うのは杉野芳子のみである。

 次はスパゲッティ・ナポリタンの発祥の地「ホテル・ニューグランド」へ。
 ホテル・ニューグランドは、戦後マッカーサーの占領軍に摂取されたことでも有名な、横浜の代表的なクラシック・ホテルである。
 山下公園からはよく見えるのだが、実際中に入ったことはなかったので、この機会のコーヒーでも、コーヒー一杯では悪ければスパゲッティ・ナポリタンでもと思って、扉を開いた。
 中に入ると、重厚で薄暗い雰囲気と思っていたが、思ったより明るいが、さすがに落ち着いた雰囲気だ。
 入った1階のすぐのところにカフェがある。ところが、その前の椅子に数人が座っている。ウェイターがやって来て満席を告げたので、どのくらい待つのか訊いてみたら約1時間と言う。夜はおそらくカップルで混むだろうからと予測し、この時間にしたのだが、それでも1時間待ちとはいかんせん、今回は諦めることにした。
 ここは、昔から変わらない人気な観光スポットなのだろう。

 ホテル・ニューグランドの前は、もう「山下公園」である。
 海辺に浮かぶ氷川丸を眺め、船内を見回ったのはもう3年前、2018年の年末かと思いを巡らせながら公園内を歩くと、公園中央辺りで噴水に囲まれた「水の守護神」の像が目立つ。奥には、オリエンタルなインド式水飲み場の「インド水塔」が異彩を放っている。
 北原白秋詩による童謡で馴染みの深い「赤い靴はいてた女の子」像も、静かに膝を立ててしゃがんでいる。

 *横浜税関→赤レンガ倉庫→海上保安資料館

 山下公園を抜けた先の海岸通りには「横浜税関」が待っている。関東大震災で倒壊した庁舎を1934(昭和9)年に復建したもので、緑青色のドームがシンボルとなっている。
 税関の建物は、門司港駅にある1912(明治45)年に建てられたレンガ造りの旧門司税関の建物が美しいが、この横浜税関も風情がある。
 さっそく建物の正面にある「横浜税関資料展示室」を見ることにする。入場料は無料だ。
横浜税関の歴史とともに、押収した密輸品の実物を展示しているのが面白い。

 横浜税関を出て新港埠頭の方に向かうと、赤いレンガの棟が見える。
 この辺りはまったく風景が変わった。
 会社勤めの1980年代後半の頃、週末には訳もなく世田谷から第3京浜を車で飛ばして山下公園に行き、ただ海を見て帰っていた時期がある。その時、車を停めていたのが、横浜税関脇から倉庫に向かう道だった。ここはいつも薄暗く人通りがなく、警官の見回りも来ないので車の駐車にはよかった。
 その裏通りだった道が別の道だと思う洒落た通りに、遠くに見えるのはエキゾチックな建物と化した「赤レンガ倉庫」となっている。まるで「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のようだ。
 とりあえず「横浜赤レンガ倉庫」に入ってみた。
 小物からレストランまで、様々な店がぎっしりと並んでいる。上野のアメ横を今風若者向けにした感じだ。
 赤レンガ倉庫は、外から見ると風格があって格好いい。

 赤レンガ倉庫の先の新港埠頭にあるのが「海上保安資料館横浜館」である。「工作船展示館」とあるので入ってみる。
 入口を入ると、いきなり巨大なマッコウクジラのような、錆びて赤茶けた鉄の船が目に入る。これが北朝鮮の工作船かと、思わずうなりたくなる異様な迫力感だ。
 船尾には2連の対空機関銃が備えてある。船体にはいくつも銃弾の跡がある。
 説明によると、2001(平成13)年12月22日、九州南西海域で不審船を発見したので、巡視船・航空機で追跡。停船命令を出したが、逃走したので威嚇射撃。しかし不審船より攻撃を受けたので正当防衛射撃を行う。その後、不審船は自爆して沈没した、とある。
 その沈没した不審船を引き揚げたのが、ここに陳列されている船である。調べた結果、この不審船は北朝鮮の工作船と結論した。
 船体にある銃痕は日本の巡視船が放ったものである。つまり、銃撃戦が行われたのを物語っている。
 平成の時代のことだから、この事件はそんなに遠い出来事ではないのに、もう記憶のかなたに追いやられていた。この沈没船を見なかったら、遠からず忘れていただろう。

 海上保安資料館を出て、臨港線の廃線跡が残る汽車道に向かった。

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四谷の〝谷″と御所トンネル

2021-12-19 03:50:06 | * 東京とその周辺の散策
 *知られざる「鮫河橋」

 それから、明治神宮外苑をあとにしてJR信濃町駅に出た。
 信濃町駅の北側に出て、JR中央線に並行して右(東)の四谷方面に向かう細い通りを進む。左(北)側は創価学会の建物が並ぶ。
 突然、出羽坂という表示に出くわす。なだらかな下り坂だ。坂が終わったところで左(北)へ進むと、静かな住宅街だ。
 さらになだらかな下り坂になっていて、この辺りは四谷の領域で、四谷の名前にあるように〝谷”だったことがわかる。低地なせいか都心なのにひっそりとした佇まいの通りは、昔の下町の住宅地といった風情が漂う。
 この辺り一帯は、かつて「鮫河橋」(さめがばし)と呼ばれていた。それにしても鮫河橋とは、何やらいわくありげな名前だ。昔は低湿地帯だったのだろう。今の町名は、若葉である。
 さらに上段に進むと、須賀神社に出る。境内に、六歌仙絵のレプリカが飾ってあった。

 *甲武鉄道のレガシー、「御所トンネル」

 そこから、四ツ谷駅に向かった。
 JR中央線の前身、甲武鉄道の名残である、いわゆる「御所トンネル」の入口(出口)があるので、それを見るためである。
 地下鉄の丸の内線四ツ谷駅は、地下鉄としては珍しい地上に駅がある。
 この駅の新宿方面行のホームの南端(赤坂見附寄り)から前方を見ると、赤煉瓦の縁に囲まれた古いトンネルが見える。ここを、JR中央線の各駅停車、中野行きの電車が通る。これが、「旧御所トンネル」で、現役で使われているトンネルとしては都内で最も古いものある。
 
 1889(明治22)年、甲武鉄道会社線の新宿-立川-八王子間が開業。さらに、1894(明治27)年に新宿-牛込(現・飯田橋)間を延伸開業した際に、四ツ谷駅も設けられ、赤坂御所の敷地の下を通るために造られたのが「御所トンネル」なのである。
 このトンネルが造られたのは1893~94(明治26~27)年で、日清戦争の頃である。人だけでなく物資の輸送においても、鉄道の建設が急がれていた時代なのだ。

 ところで、御所トンネルは、これ1つではない。
 JR中央線は、お茶の水駅から三鷹駅まで複々線である。快速が2本、各駅停車(総武線)が2本、合計4本である。
 先の1本と、後にこれとは別に、3本の電車が走るトンネルが造られているのだ。その電車が出入りするトンネルが見える場所が、四谷の学習院初等科のある辺りにあるはずなのだ。

 地図上では、学習院初等科の辺りで電車は地上に出てきている。学習院を横に見て四ツ谷駅が見える若葉東公園のある外堀通りまで来てしまったが、見つからない。

 *ようやく「御所トンネル」の口を発見

 四ツ谷駅近くの外堀通り「四谷中前」から、若葉東公園に向かって、迎賓館を挟んで左手には赤坂見附に向かう外堀通り、右手には外苑・権田原に向かう通りと分かれている。
 迎賓館の塀を左に見ながら、外苑・権田原の方へ緩やかな下り坂を歩いてみた。迎賓館の塀の前には監視の人が立っている。通りの迎賓館の側には、トンネルに繋がるそれらしいものは見つからない。
 坂を下りた「南元町」の信号で四ツ谷駅方面に引き返し、今度は迎賓館とは反対の左手の「みなみもとまち公園」側を注意深く見ながら歩いた。すると、公園の先に左の折れる道がある。この道だ、と確信した。
 近くに、「鮫河橋」の由来と、この坂が「鮫河橋坂」という案内説明板があった。

 折れた道を進むと、陸橋に出た。下を見ると線路が走っているではないか。橋の欄干より高く両サイドには金網が張ってある。
 これだ、ようやく発見したと心が躍った。赤坂と四谷南を結ぶ橋で、「朝日橋」とある。
 もう夕暮れで暗くなってはいたが、橋の中ほどから四ツ谷駅方面を見ると3つ並んだトンネルの口が見える。
 ほどなく明かりが見え、四ツ谷方面からの電車がトンネルから出てきた。しばらくして、今度は信濃町方面からの電車がトンネルに吸い込まれていった。そんな電車のトンネルへの往来をしばらく見ていた。
 すると、右手のやや遠くから1台の明かりを灯した電車が走ってきた。出てきた先に、最初の御所トンネルがあった。
 この朝日橋から、トンネルに出入りする電車4本が同時に見られるのだった。(写真)

 *四谷でポルトガル料理

 御所トンネルは、暗闇に紛れてしまった。
 それで、四ツ谷駅に出た。歩いたあとは夕食だ。四谷にはファドを聴かせるポルトガル・レストランがあり、前から行こうと思っていた。
 ポルトガルは大好きな国だ。落ち着いた国民性がいい。世界中を番組で旅した関口知宏が「日本以外で住むとすれば、ポルトガルかなあ」と言っているのを聞いて、わかる気がした。
 かつてポルトガルを旅して美食という印象はないが、港町ナザレでは、街中で日本によく似たイワシの塩焼きを売っているのが好ましかった。
 
 四谷のこの店では、あいにく現在ファドはやっていないが、ポルトガル料理を日本で食べる機会はめったにないので「Manuel Casa De Fado」へ。細い階段を地下に降りていくと、落ち着いたいかにもヨーロッパ風のレストランが待ち構えている。
 ポルトガルの赤ワインで、料理は、バカリャウ(干し鱈)のコロッケ、イワシのオーブン焼き、アサリと豚の煮込み、鴨の炊き込みご飯……
 ポルトガル料理にしては洒落すぎている(ポルトガルに失礼か)。

 この日の夜は、アマリア・ロドリゲスの歌を聴き入った。

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東京五輪のレガシー、国立競技場を歩く

2021-12-16 03:11:07 | * 東京とその周辺の散策
 *いつにもない夏の流れ

 今年、2021(令和3)年の夏は、これまでにない異様というか不思議な夏だった。
 暑い夏、長引くコロナ・パンデミック、経済か生命か、緊急事態宣言、アクセルかブレーキか、ワクチン接種、東京五輪、自民党総裁選、衆議院選……
 民主主義の根源は自由であるという考えが根づいている欧州では、コロナ禍による行動規制・制限に反対の抗議行動がしばしば起こっている。それに比しわが国での、できるだけ規制・制限の緩和を模索・提唱する政府と、できるだけ制限・自粛を要望する世論の矛盾現象。
 自粛および緩和要請のたびにテレビの前で繰り返し弁明を余儀なくされる菅総理と、隣で補佐弁明を繰り返すコロナ対策分科会の尾身会長。コロナへの対策標示をキャッチコピーとして繰り返し提唱する小池東京都知事。東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長から橋本聖子五輪相への会長交代。 Etc.

 去年2020年の初めに予期せぬ出来事として世界中に拡散・蔓延したコロナウイルスによるパンデミックが、その年内には収まるだろうという大方の予想に反して今年2021年になっても収まらず、多くの計画・予定が中止・延期・破棄されることとなった。
 去年の夏に行われるはずだった東京五輪は、今年に1年延期されたが、五輪が始まる8月直前には、五輪開催には反対という声がマスコミおよび世論では大勢を占めていた。
 本当にできるのか、という誰もが抱いた半信半疑の思いのなかで、ほとんどの競技が無観客という今までにない形で、それでも五輪は開催された。
 静かなテレビの画面の中での、それまでの人生を賭けたアスリートの汗と笑顔と涙。冷たい世論の空気の中を、吹き抜けた熱いオリンピックの風。
 東京五輪とは何だったのだろう、という思いが残った。

 東京五輪に関しては、「パンデミック下の東京五輪」(2021.9.3)参照
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/b2a02d64ac5fd11060be86ce6e115e1e

 *オリンピックの足跡

 124年前、14の国と241人の参加選手で始まったオリンピック。
 近代オリンピックの第1回大会は、1896年のアテネ大会。
 日本の初参加は、1912年の第5回ストックホルム大会。28か国2407名参加で、日本人選手はマラソンの金栗四三ら2名だった。
 アジア初の東京開催は1940(昭和15)年第12回大会の予定だったが、戦争のために中止となった。
 そして、念願の東京大会は高度成長期の1964(昭和39)年第18回大会。アジアで初めての開催であった。
 2度目の東京開催が、今年2021(令和3)年のパンデミック下での第32回東京大会である。

 *五輪のレガシー、国立競技場を歩く

 11月10日、今年行われた東京五輪の陸上競技他、開催式、閉会式などが行われたメイン競技場である国立競技場を見に行った。
 設計の選考段階から紆余曲折を経て完成した国立競技場だが、実際にはまだ見たことはなかったのだ。戦いすんで日が暮れたあとの、五輪の主戦場を年度内に見ておかなければと思っていた。
 今回の東京五輪のための新しい国立競技場は、当初イギリス(国籍)の女性建築家、ザハ・ハディドによる流線的で斬新な設計案が採択された。しかし、その案が「白紙撤回」となった後に選ばれたのが今建っている、隈研吾の設計による国立競技場である。

 まず、地下鉄大江戸線「国立競技場」駅のA3の出口に出た。目の前に外苑西通りが走っていて、その横に円形の競技場が見える。(写真)
 目の前の国立競技場の第一印象は、”大きい”ということだ。
 すぐに競技場のところに行った。もちろん入口は閉まっていて、外から仰ぎ見るだけだが、私のように見物に来たのだろうか、今でも競技場の周りには何人か見上げている人が見うけられる。
 ぐるりと首を回して見渡してみると、何本もの柱が上に向かって立っていて、最上層の屋根が柱で突き上げられている感じだ。地上と屋根の間には、円い(正確には楕円形だが)建物に沿って3層に庇が水平にそり出している。
 隈研吾は日本の木を意識して設計したと言っていたので、競技場を取り囲むように各層に樹木が並んでいるのがすぐに目に入る。
 それに、仰ぎ見る庇の裏は、細長く切った木材が等間隔に並んでいるルーバー仕様だ。これは日本建築を意識したものだと思われるが、これで張りとして天井を支えているものではなくデザインとして用いたものだろう。日本全国から集めた木と言っていたのは、このことだろうか。
 競技場は、大きな平べったい円盤状のものを、屋根と庇による水平の横の線と、柱やルーバーの縦の線でデザインした、日本の格子感覚を味付けした建築物という印象だ。
 
 大きさを体感しながら、競技場の周りをゆっくり一周した。
 なんだか、できたばかりの競技場なのに、ローマのコロッセオに行ったときに似た感情が沸いてきた。もう偉大なる遺跡か?
 あまりにもオリンピック関連で、レガシーと言われたので、見る目がすっかり遺産という言葉に染色されているではないか。もうしばらくは現役でいてくれよ!

 *懐かしの千駄ヶ谷から神宮外苑へ

 国立競技場から千駄ヶ谷駅へ出た。昔はこの駅をよく利用したが、駅前はすっかり変わっている。
 駅前の津田塾大のビルは、かつては同大学関連の英語のビジネス・会話の専門学校だった。
 かつて仕事が終わった夜に、学生時代に勉強しなかったので少しは英語でもと思い通ったことがあるが、高校の教室みたいなのですぐに辞めてしまった。

 千駄ヶ谷駅を背に、まっすぐ進むと鳩森八幡神社に出る。久しぶりに歩いてみた。
 鳩森八幡神社に着くちょっと手前のビルの2階に、まだメジャーな作家になる前の村上春樹がここでジャズ喫茶をやっていた。
 1980年のある日、私はある事情でこの道のあたりで時間をつぶしていた。ビルの2階にある「ピーター・キャット」という名前に惹かれて、中に入らなかったが店を眺めていた。この年、「1973年のピンボール」で、村上春樹は芥川賞を受賞した。
 この話は、それだけのことだが。

 鳩森八幡神社を出て、再び国立競技場の南縁を周りながら、隣の明治神宮外苑に出た。ここも、懐かしいところである。
 国会議事堂の屋根を丸くしたような絵画館は、外苑全体を睥睨しているかのように威厳のある建物だ。
 絵画館を背に外苑を見渡すと、正面に青山通りに続くイチョウ並木が見える。日比谷高校の名前を染めたジャージ姿の女子高生が、ランニングの後の脚を休めている。

 私の初めての社会人としてのスタートは、出版社での服飾雑誌の編集者だった。流行のファッション、新しい服・デザインを紹介するのが主要な内容なので、多くは写真掲載ページが占めていた。
 グラビアページでは、モデルに新しい服を着てもらいカメラマンに写真を撮ってもらう、いわゆる「撮影」が主たる仕事になる。室内のスタジオ撮影だけでは変化に乏しく味気ないので、多くは外のロケ撮影を必要とする。だから、そのロケ場所にも苦慮した。
 そのロケ撮影の場所として、しばしばここ神宮外苑を利用させてもらった。事前に撮影許可をもらうのは、あの厳かな絵画館内の少し暗い事務所においてだった。
 神宮外苑に懐かしさが漂っているのは、初めて社会人になった頃の言いようのない甘酸っぱい風が吹いているからである。
 あゝ、「風の歌を聴け」

 次には、神宮外苑を出て、信濃町から四谷方面に向かうことにした。

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「武蔵国」② 国府に繋がる府中の熊野神社古墳

2021-11-22 03:18:10 | * 東京とその周辺の散策
 *府中・旧甲州街道沿いの「高札場」と「高安寺」

 府中の大國魂神社を出たら、すぐに旧甲州街道が左右(西東)に走っている。
 旧甲州街道を西に、つまり分倍河原駅の方向へ進むと、すぐの府中街道との交差点の道路わきに、屋根の付いた木の板を並べたような塀が目に入る。一部は朱色に塗られていて、一見して歴史的建造物であるのがわかる。
 案内板には「高札場」の跡とある。
 高札場(こうさつば)とは、江戸時代、お尋ね者などのお触れを告示した立札の置かれたところである。この辺りは、かつての「府中宿」の中心地だったところである。人が多く行き来したので、壁新聞ともいうべき告示板、立札を置くには格好の地区だったのだろう。
 律令国家時代の「国府」のあった「国衙」以来、この地は交通の要所だった痕跡でもある。

 さらに、旧甲州街道を西に進むと、「高安寺」に出くわす。
 参道の入口からして古刹の雰囲気が漂い、なかに続く山門には左右に仁王像が構え、さらに鐘楼も配置されている。
 元々は平安時代に藤原秀郷の居館だったところが寺となり、南北朝時代には新田義貞が分倍河原の合戦でここに本陣を構えたこともあり、戦に巻き込まれその後、寺は荒廃した。
 そこに、室町幕府を築いた足利尊氏が臨済宗の禅寺に改めて再興したのが、この高安寺である。
 高安寺は、様々な歴史を偲ばせる、武蔵の国衙にある寺である。

 *石積みの熊野神社古墳へ

 旧甲州街道をさらに西へ進む。京王線の踏切を渡り、本宿町で甲州街道(国道20号線)に合流し、さらに新府中街道を突っ切り進む。
 やがて、右手に熊野神社の鳥居が見えてくる。ここにあるのが、今散策の最終目的地の「武蔵府中熊野神社古墳」である。
 鳥居の先に本殿がポツンと佇んでいる。本殿の裏、北側に回ると、円(まる)く積み上げられた石の構築物が目に入る。
 武蔵府中熊野神社古墳はその名の通り、府中市にある熊野神社の本殿北側にある古墳である。(写真)

 あまり知られていないが、多摩川流域では前方後円墳や円墳があちこちに見うけられる。
 府中市にも国衙跡地域にいくつかの古墳が発見されていて、現在も発掘中である。
 この熊野神社境内にある古墳は、飛鳥時代の7世紀に造られた「上円下方墳」という、全国的にも希少な特殊な形をしている。全面石で覆われた3段構造で、下方部の1段目と2段目は四角の方形になっていて、上段の3段目はドーム風の円形に盛り上がっている。
 大きさは、1段目の1辺の長さは32m、2段目の長さは23m、上円部の直径は16m、高さ6mである。
 古墳としては大きくはないが、現在確認されている上円下方墳では最大とされている。
 しかし、ここにある綺麗な石積みの古墳は、惜しいかな発掘された原形そのものではない。発掘調査後、築造当時の姿に近い形に復元されたものである。

 日本の古墳を見てみると、初期のものとされる「箸墓古墳」(奈良県桜井市)が3世紀後半、最大規模の大きさだとされている前方後円墳の「大仙古墳」(伝仁徳天皇陵、大阪府堺市)が5世紀中葉の造営とされている。
 武蔵国で最大の前方後円墳のある「埼玉(さきたま)古墳群」(埼玉県行田市)は、5世紀後半から7世紀初めごろの造営とされる。なかでも、金錯銘を有する剣鉄が出土したことで有名になった「稲荷山古墳」(埼玉県行田市)は、5世紀後半の造営である。
 1978(昭和53)年に、出土した鉄剣に施されていた金象嵌の文字が判明したと新聞で話題になり、私は当時それを見に、稲荷山古墳に行ったことがある。この鉄剣の文字からは大王の名が読み取れ、当時すでに大和の王権が東国の関東地方にまで及んでいたものと思われる。

 こうして見ると、7世紀に造られたとされる「武蔵府中熊野神社古墳」は、古墳時代の終焉期の作といえよう。いや、時代区分的には飛鳥時代といえる。
 飛鳥時代とは、遣隋使を送った推古天皇時代から大化の改新を経て平城京へと移る時代で、仏教文化が栄え、律令国家としての形成がなされた頃である。
 この府中熊野神社の石墳は被葬者は誰か不明だが、7世紀末から8世紀初頭にかけて、先に書いたこの近くの大國魂神社近辺に「国府」が置かれたことを考えれば、「武蔵国」の「国衙」との連続性を想像させる。
 
 律令国家時代、府中は武蔵の国の中心だったことが偲ばれる散策となった。

 *夜は、府中のタイ料理

 熊野神社を出て、JR南武線「西府」駅を横目に見て「分倍河原」駅へ向かった。
 途中、駅近くの「八雲神社」に出くわした。ここも、何かありそうな雰囲気の神社名である。
 この辺りは分倍河原の合戦があったとされる地だし、駅名は「分倍」河原であるのに、町名は「分梅」町となっているのは、何かいわれがあるのだろう。

 どこかで夕食をと思い、分倍河原から京王線で再び府中駅へ。
 府中駅に着くともうすっかり辺りは暗く夜の雰囲気だ。明かりを求めて駅近くの脇道に入ると、夜の酒場のネオンに混じってタイ・レストランの文字が目に入る。妖しい店でもなさそうなので、味は期待しないで「Bua Thai Restaurant」の扉を開く。
 久しぶりのタイ料理は、オーソドックスにトムヤムクンをメインに、あと幾品かを注文。ビールは当然シンハーで。
 おう! 予想外の本格的なタイ料理の味で、どの料理もとても美味しいではないか。
 人も店も外観ではない(見た目に支配されるが)。
 料理を運んでくれたお姉さんはミャンマー(元ビルマ)人だと言ったが、タイと隣の国だから、インド料理をネパール人が作るのと同じようなものに違いない、と思っておこう。
 
 知らない街での、意外性の味の出合いはいい!
 人も歩けば美味にあたる……
 
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「武蔵国」① 国府、総社(府中市)、および一の宮(多摩市)へ

2021-11-06 01:42:38 | * 東京とその周辺の散策
 *「武蔵」の国とは……

 かつての「武蔵」(むさし)国とは、明治に現在の行政区分ができる前の旧国(地域)名で、現在の東京都と埼玉県、神奈川県の一部を含む関東の中心地域の呼称である。
 現在でも、JR中央線の「武蔵小金井」(東京都小金井市)、JR五日市線の「武蔵五日市」(東京都あきる野市)や、JR南武線の「武蔵小杉」、「武蔵中原」(いずれも神奈川県川崎市)など、東京、神奈川、埼玉には武蔵と名が付く駅が多数(21か所)ある。
 武蔵の付いた市名では、武蔵村山市(東京都)があるが、吉祥寺で有名な「武蔵野市」(東京都)も、この名に関した名称といえよう。

 「武蔵国」と言われたのはいつからかははっきりとはしないが、「无邪志」(むざし)国と「知々夫」(ちちぶ)国とが合わさって、7世紀に令制国の武蔵国となったと見なされている。
 そして、奈良から平安時代に、律令制のもと各令制国に国庁を設けた「国府」が置かれ、「国司」が政務を執り行った。武蔵国については、710(和銅3)年頃に、現在の東京都府中市に「国府」が置かれたとある。
 そして、国府の近くには国分寺、国分尼寺、総社が設けられた。
 この他、各国には、「一の宮」をはじめ、「二の宮」「三の宮」…と称される神社がある。
 「一の宮」の神社は、その国の最も格の高い神社とされている。律令制のもとでは国司が任国に赴任した際、諸社を巡拝するのだが、通説では、最初に参るのが一の宮の神社とされている。

 *「武蔵国一の宮」の、「小野神社」のある多摩市へ

 この武蔵国の国府があった律令制時代の中心地を、東京都多摩市から府中市へと10月17日、湘南の士と散策した。
 まずは、武蔵国の総社・六所宮である「大國魂神社」に「一の宮」として祀られ、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」の記述に「多磨郡吉富に一宮」とある、東京都多摩市にある「小野神社」に出向くことにする。
 「一の宮」は、「一之宮」「一宮」とも書く。
 京王線・聖蹟桜ヶ丘駅を昼12時にスタートする。やっと暑い夏も去り、コロナ禍も峠を過ぎ下火になってきたかなと感じた秋の日である。
 聖蹟桜ヶ丘駅から多摩川沿いの住宅街の、小さな水路に沿った石畳の洒落た通りを進むと、ほどなく木に囲まれた小野神社の鳥居にぶつかる。鳥居の中央の額束に菊花紋章が目につく。
 さらに進んだ先の、正面の鳥居の奥の山門を入った先に、紅く塗られた本殿が見える。
 住宅街の奥に佇む小野神社は、どこにでもある田舎の素朴な神社の風情だ。
 小野神社に関しては、以前このブログに記した文の一部を以下に掲載しておこう。

 ※「武蔵国一の宮――多摩の三社祭り」(2017-09-21)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201709
 <武蔵国一の宮、小野神社>
 「小野神社」は東京都多摩市一ノ宮にある神社で、住所表示に残っているように、武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の一の宮である。
 一の宮とは、平安時代の中頃から全国の国(律令国(令制国)による地方行政区分)ごとに決められた神社の社格で、順次、二の宮、三の宮…とある。
 愛知県一宮市や神奈川県二宮町など、地名として残っている地域も全国に見出すことができる。千葉県外房の上総一ノ宮も、一の宮神社(玉前神社)のある町だったのである。

 小野神社は、古くは「延喜式神名帳」に記載されていて、南北朝時代に成立した「神道集」の記載に「一宮は小野大明神」という記載が見られ、武蔵国では下記のように編成されているとされる。
 武蔵国総社・六所宮(現・大國魂神社:東京都府中市宮町)でも、以下の編成で祀られている。
 ・一之宮:小野神社(東京都多摩市一ノ宮)
 ・二之宮:小河神社(現・二宮神社:東京都あきる野市二宮)
 ・三之宮:氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)
 ・四之宮:秩父神社(埼玉県秩父市番場町)
 ・五之宮:金鑚(かなさな)神社(埼玉県児玉郡神川村二ノ宮)
 ・六之宮:杉山神社(神奈川県横浜市緑区西八朔)

 ところが、この社格は時代により地域の勢力図などで変わることがあったようで、さいたま市の氷川神社(上記にある三之宮)も一の宮を名のっている。
 私の手元に、全国の一の宮を走破したという士から譲り受けた「諸国一の宮一覧図」があるが、そこには小野神社が載っていないので疑問に思っていた。これは、「全国一の宮会」加盟社のみの記載なので、加盟していない多摩市の小野神社や新潟県糸魚川市一の宮の天津神社などは含まれていないのだ。
 他に加盟していない一の宮も各地に見られるし、本来一国(地域)に一社の一の宮であるはずが複数の神社が加盟している(名のっている)地域もある。
 ちなみに、肥前国(佐賀・長崎県)の一の宮は、與止日女(よどひめ)神社(佐賀県佐賀市大和町)と千栗八幡宮(佐賀県三養基郡みやき町)の2社が記載されている。ここでも、時代による揺れとはっきりとした統一告示がなされなかったようだ。肥前国の二の宮は不明で、三の宮は天山社/天山神社(佐賀県小城市)である。天山神社は佐賀県唐津市厳木町にもある。

 *
 かつて小野神社は、多摩川の氾濫で幾度か遷座したとある。
 だからだろうか、今の小野神社に武蔵国の一の宮のいにしえの栄華を見つけることは難しい。ただ、記録にない歴史の波に浮沈したであろうと、想いを偲ぶだけである。
 聖蹟桜ヶ丘の街中を通る広い川崎街道に、「武蔵一之宮 小野神社参道」と刻まれた参道入口の石柱が建っている。そこから続く参道も、かつての面影は薄く儚い。

 *全国にある「国府」、「府中」の町

 聖蹟桜ヶ丘駅から同じ京王線で府中駅へ。
 「府中」とは、かつて「国府」があったところである。東京都府中市は、武蔵国の国府があったところだ。

 「国府」とは、日本の奈良、平安時代に、令制国の「国司」による施政の国庁が置かれたところである。
 「国府」は、古代に呼ばれた「こう」という名で残っているところ、地名も全国にある。
 ・国府、国府川(こう、こうがわ)伯耆国:鳥取県倉吉市
 ・国府、国府駅(こう、こうえき)三河国:愛知県豊川市
 ・国府津、国府津駅(こうづ、こうづえき)相模国:神奈川県小田原市
 また、普通に「こくふ」と呼ぶ地域、駅名もある。
 ・国府駅(こくふえき)但馬国:兵庫県豊岡市
 ・国府町府中、府中駅(こくふちょうこう、こうえき)阿波国:徳島県徳島市。
 この徳島県の場合はややこしい。1967年に国府町(こくふちょう)が徳島市に編入されて、大字は「国府町~」と冠が付くようになった。ところが、徳島市国府町府中は、呼名が重複した「こくふちょうこう」である。駅名は府中駅(こうえき)である。

 国府である「府中」という名の地域、町名も全国にある。
 ・府中市(ふちゅうし)武蔵国:東京都多摩地区
 ・府中市(ふちゅうし)備後国:広島県備後地区
 ・府中町(ふちゅうちょう)安芸国:広島県安芸郡
 ・讃岐府中駅(さぬきふちゅうえき)讃岐国:香川県坂出市。
 広島県には、「府中市」と「府中町」の二つの府中がある。これは現在の広島県に、かつて備後と安芸の別の国があったからである。
 ところで、「府中町」は、四方を広島市に囲まれている。つまり地理上では、広島市の中に独立した広島県安芸郡府中町が存在するのだ。それに、町の法定人口は約51,000人(2021年)と、日本で人口が最も多い町である。

 *武蔵国の総社・六所宮である、府中市の「大國魂神社」へ

 京王線の府中駅を出ると、すぐに大きな並木を従えた大通りに出くわす。「馬場大門のケヤキ並木」と呼ばれていて、並木道は参道でもあり「大國魂神社」に繋がっている。
 雄大なケヤキ並木は、源頼義・源義家父子が前九年の役の凱旋時に苗木を寄進したとする説があり、「天然記念物大國魂神社欅並木」の石柱と、近くに「源義家」の銅像が建っている。
 広くて長い参道の先に、大國魂神社の鳥居が聳え、その先に優美な随神門が見える。門を潜ると、拝殿・本殿が待ち構えている。(写真)
 「大國魂神社」は、出雲大社と同神である大国主神を祀った古い神社である。そして、武蔵国の「総社」であり、先に記した武蔵国の「一の宮」から「六の宮」までを合わせ祀るため「六所宮」とも呼ばれる。

 国庁など政務を司る「国府」のあった地区を「国衙」(こくが)という。
 武蔵国の「国府」は、平安時代に書かれた「和名類聚抄」に「多麻郡に在り」とあるものの、正確な位置はわからなかった。しかし、最近の調査で府中市の大國魂神社とその周辺が国衙であることが判明した。
 大國魂神社の境内内に「武蔵国府跡」の石碑を見ることができる。
 武蔵国の国府のあった府中市は、国分寺・国分尼寺のあった現在の国分寺市とも、一の宮のある多摩市とも隣接していて距離的にも近い。
 現在の関東である、いにしえの武蔵の国の中心地が、府中市とこの近辺にあったのだ。

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