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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

どしゃ降りの、隅田川花火大会

2013-07-29 02:38:20 | * 東京とその周辺の散策
 夏の盛り、花火の季節である。
 それなのに、今、日本列島の各地で集中豪雨が発生している。

 7月の最後の週の土曜日に行われる隅田川の花火は、広重の浮世絵「江戸百景」にも描かれているように、古い歴史を持つ日本有数の花火大会だ。
 去年の2012年に初めて、隅田川の橋の上からこの花火大会を見た。
 隅田川の上空に上がるに花火の横に、丸い月が出ていた。それに、新しくスカイツリーの塔が加わった魅力ある風情だった。しかし、いかんせん見物客が多すぎて、係員による通行規制による見物で、ゆっくりと夏の風物詩、花火でも見ながらかき氷でも、という雰囲気とはほど遠い見物だった。

 去年の混雑に懲りたわけではないので、今年は7月27日に行われるというので出かけた。その日の新聞の天気予報では、たたんである傘マークが付いていたが、東京は午後になっても雨の降る気配はない。
 夕方、浅草へ向かった。
 地下鉄表参道で銀座線浅草行きに乗り換えると、車内はすぐに満杯になった。浴衣姿の若者も目につく。みんな浅草へ行くのだ。この季節の夏祭りの時などにしかお目にかかれない浴衣姿だが、女性はみな美しく見える。
 電車が進むにしたがって混んできて、上野駅からは通勤ラッシュ並みになった。
 浅草の街中は、花火の打ち上げ開始は夜7時5分からというのに、すでに人で混んでいた。外人の姿も普段よりは多い。

 夕刻の6時過ぎると、今かと待ちかまえる人で吾妻橋に向かう浅草・雷門通りは人の波で埋まった。待っていても、みんな楽しげだ。まだ、みんな次に何が起るか知らないのだから。
 花火は吾妻橋から見て、北の言問橋の先の第1会場と、南の駒形橋の先の第2会場の、2か所から打ち上げられる。だから、吾妻橋からは、北と南、つまり左と右に花火を見ることができるのだ。
 橋を渡る開門(開始)を待ちながら、雷門通りから吾妻橋の方を見ると、正面にスカイツリーが聳えているのが見える。そして、右手にはあの不思議な形のキントン雲が。
 スカイツリーの彼方の灰色の空に、黒い雲が流れる。雲の流れが速いのは、上空は風があるのだろう。この黒い雲が前触れだったのか?

 7時5分から案内にしたがって、先頭集団から順次に吾妻橋に入っていった。初めは、花火は北の言問橋方面の第1会場から打ちあがった。
 僕のいる集団の番に来て、勇躍吾妻橋に入る頃、小さな雨を感じた。
 車上からスピーカーで誘導・案内しているお喋りな警察官が、「雨が降ってきました。傘はささないでください。周りの人が花火が見えません」と言っている。
 橋の上に入った7時半ぐらいから、雨足が強くなった。傘をさす人がちらほらと出てきた。そして、またたく間に大粒の強い雨となった。
 もう案内係も、傘をささないでと言うどころではない。傘を持っている人は稀だが、傘があってもなくても、みんなずぶ濡れだ。すでに花火は、北の方の第1会場では打ち上げていない。
 「花火は中止となりました。みなさん、係の案内にしたがって行動してください」と案内は言っている。それでも、駒形橋の方の第2会場からは次々と花火が上がった。(写真)
 雨に濡れながらというよりは、雨に打たれながら花火を眺めた。
 しかし、雨は強くなる一方で、雷の音もしている。ほどなくして、第2会場の花火も打ち上げられなくなった。
 係官が「雷は高いところに落ちるので、橋には落ちることはありません」とアナウンスしているが、それどころではない。バッグも何もかもずぶ濡れだ。戻ることはできないので、とりあえず橋を渡った。
 吾妻橋を渡ったところで、係員が「本所吾妻橋駅」方面を案内していたが、そこも大混雑だろう。
 まずは、今来た吾妻橋を浅草駅方面に戻ろうと、警戒の目を盗んで、橋を戻った。
 浅草でも、濡れた人々でいっぱいだった。
 翌日の新聞によると、78万8千人(実行委員会調べ)の観客がいたと報道されていた。佐賀県の人口に近い数字だ。

 かつてインドを旅したときのことだ。
 晴れた昼頃、カルカッタの街を歩いているとき、急にどしゃ降りの雨にあった。あっという間に道は雨水に覆われ、川のように流れとなって、踝(くるぶし)の上まで水に浸かった。
 通りの軒下に逃げ込み、困ったなあと思っていたら、30分ぐらいで雨はやんで、嘘のように再び青空になった。炎天の下、濡れたシャツもすぐに乾いた。
 日本も、熱帯地方のように、集中豪雨の国になったのだろうか。

 どしゃ降りの雨の中での、ずぶ濡れの、ほんのつかの間の今年の隅田川の花火。
 過ぎてしまえば、このことも忘れられない想い出となろう。

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夜霧の日比谷と、千鳥ヶ淵の満開の桜

2013-03-28 02:01:34 | * 東京とその周辺の散策
 3年ぶりの東京の桜である。
 この日(3月27日)は、午前中は小雨が降っていた。
 銀座では、歌舞伎座の再開場を記念して、午前に歌舞伎俳優が銀座通りを練り歩く姿がテレビで映し出されていた。
 今日は夕方から古い友人たちと、千鳥ヶ淵の桜を見に行く予定だったが、窓の外の雨を見て少し億劫になっていた。しかし、銀座通りを、周りに傘が散乱しているなか、傘をささずに歩く歌舞伎俳優がいるのを見て、小雨を気にもせず歩く姿は粋だなあと感じた。月形半平太じゃないが、「春雨じゃ、濡れてまいろう」の洒落心である。
 そして、雨に桜もいいものだと思い直した。

 3年前の桜の満開の季節、佐賀に住んでいた母が逝って、翌年が一周忌、昨年が三回忌で佐賀に帰っていたので、佐賀の桜を見ていた。そういえば、1昨年は、秋月(福岡県朝倉市)の桜を見に行ったことを思い出した。「秋月の乱」の秋月である。風情のある桜であった。

 雨は、午後にはやんだ。
 夕方、いつものコースで、靖国神社から千鳥ヶ淵に向かった。
 今年は桜の開花が早く、まだ3月だというのに、すでに満開の盛りである。今週末もまだ3月末だが、最後の花吹雪か葉桜かだろう。
 午前中雨だったこともあって、千鳥ヶ淵は例年に比べて人が少なく、ゆったりと桜を見ることができた。堀のボートも、今日は出ていない。
 雨上がりで少し霞がかかったような千鳥ヶ淵は、対岸の皇居の桜が堀にぼんやりと映って、青空の下とは違って、心なしか幽玄な雰囲気を漂わせている。なんだか、風景がモノトーンのようだ。(写真)
 千鳥ヶ淵を出たら、皇居の堀の周りをなぞるように続く内堀通りを歩いて、日比谷に向かった。この通りも桜が植えてあり、引き続き花見を楽しむことができる。
 半蔵門を過ぎて、三宅坂にさしかかると社会民主党の看板が見えた。日本社会党時代からあるこのビルは、古くなって近々取り壊されると聞く。さらに進むと、国会議事堂の頭が見える。そして、桜田門を過ぎるともう日比谷である。
 ちょうど薄暗くなった頃である。この日は、日比谷の中華食堂に入って、まずはビールで花見を祝った。
 花は、雨であろうと、見られるときに見ておかないといけない。明日、見られるとは限らないから。

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風流を忍ぶれど、隅田川の花火大会

2012-08-02 01:54:50 | * 東京とその周辺の散策
 夏の盛り、花火の季節である。全国の各地で花火大会が行われている。
 放浪の画家と言われた山下清は、この季節になると花火の名所を求めて旅したそうだ。作品に有名な「長岡の花火」がある。
 日本で有名な花火大会というと、この長岡(新潟県)の他に、大曲(秋田県大仙市)や諏訪(長野県)あたりがあがる。いやいや、おらが町の花火が一番だと言う人もいるだろう。
 しかし歴史でいえば、東京の隅田川の花火に勝るものはないのではないだろうか。
 隅田川の花火大会は、資料をひも解くと江戸時代中期にまで遡る。8代将軍吉宗がその前年の大飢饉とコレラの死者を弔うため、1733(享保18)年7月9日の旧暦、水神祭を催し、それに伴い「両国の川開き」に花火を打ち上げたのが始まりとされる。
 しかし、昭和に入り、第2時世界大戦の戦争で1度中断される。戦後復活したものの、今度は経済成長のあおりで隅田川の汚染が進み、1962(昭和37)年再び中断を余儀なくされる。そして、隅田川の水質が浄化した1978(昭和53)年に復活したという曲折がある。

 *

 今年(2012年)の隅田川の花火大会は、7月28日(土)に行われた。
 祭り好きの僕は、5月20日の浅草三社祭に続き、この日浅草へ出向いた。
 隅田川での花火の打ち上げは、午後(夜)の7時5分からである。
 夕方の浅草行きの地下鉄銀座線が、普通はゆとりがあるのに、表参道駅からすでにいっぱいである。乗客に浴衣姿の若い女性の姿も結構目につく。目当ては今夜の花火なのだ。それに、スカイツリーの完成もあって、今年は余計に人気なのだろう。
 浅草に着くと、浅草松屋前はすでに規制されて浅草(雷門)通りに入れない。隅田川に架かる吾妻橋に入る人たちが、歩行者専用道路となったあの広い通りいっぱいに溢れている。しかし、橋は塞がれていて、時間が来ないとまだ橋には入れないのだ。神谷バー前あたりは人で身動きとれない状態だ。
 5月の三社祭のときよりも人が多い。金曜日の国会・官邸前の脱原発のデモ集会よりもはるかに多い。 人は、いろんな時にいろんな所に集まるものだ。集合する動物なのだ。

 松屋前で、隅田川花火大会の案内図つきのパンフレットと団扇(うちわ)を配っていたのでもらった。
 案内図によると隅田川の川場2カ所で、2万発の花火が打ち上げられる。
 隅田川には、上流の明治通りに架かる白髭橋から、下流に行くにしたがい橋の名を記していくと、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、そして浅草橋駅と両国駅の間にある靖国通りに架かる両国橋となる。その先は、いくつかの橋を経て東京湾に流れる。
 この上流の白髭橋と言問橋の間が、花火が打ち上げられる第1会場となり、その下流の駒形橋と厩橋の間が第2会場となる。であるから、浅草松屋前の浅草通りから続く吾妻橋、およびその下にある駒形橋からは、第1、第2の左右の花火が見えるということになる。
 この日は、先にあげた橋の間は6時からは交通規制区域となり、車は入れず歩行者専用となる。しかも、橋は交互に一方通行だ。

 人込みに交じって、橋に入るのを待った。家族やカップルなど、笑顔が絶えない。外人も多い。整理のために装甲車の上に警察官がいるのは、国会・官邸前と同じだが、こちらは声も明るく、「今日の楽しい思い出のために列を守りましょう」などと叫んでいる。それにしても、耳障りになるくらいに口数が多い。
 人込みは、いつの間にか道路の左右から紐を持った係員によって、グループに分けられていた。暗くなり始めた7時少し前から橋が開き、「第1グループ前へ」と先頭グループから、随時グループごとに前に進むという按配だった。
 7時過ぎから、 まず第1会場の上流の方から花火が上がった。
 やっと順番がきて、橋の上に来た。上流の言問橋(ことといばし)の方に花火が上がった。
 あの在原業平も、ここいら辺で都の京都を思いながら、思えば遠くへ来たものだと詠ったのか。
 「名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」

 しかし今は、ひとときの情緒を味わっている余裕はない。
 「橋の上では、立ち止まらず歩きながら花火は見てください」と、整理係の警官が言う。といっても、今どきデジカメや携帯カメラはみんな必携だ。ほとんどの人が、立ち止まってカメラを向けている。
 「写真は1枚撮ったら、すぐに前に進みましょう。写真よりももっと大切な心に写しておきましょう」などと整理係の警官は、思わず笑ってしまう余計なおせっかいを言い出す始末だ。
 ちょうど、30分遅れで下流の第2会場の方からも花火が上がった。吾妻橋からは、左に右にと花火が見える。しかも、南の駒形橋の方には月も浮かんでいる。月の横に花火が舞う。(写真)
 立ち止まってゆったりしていると、後ろから来た紐を張った係員から押されるはめになり、しぶしぶ橋を渡り終えされた。

 吾妻橋を渡ったところにも、多くの人がいた。それはそうだ、僕のように浅草から橋を渡ってきた大群と、もともとこちら墨田区側にいた人たちが交ったのだから。
 ビルの間にイルミネーションに彩られたスカイツリーが大きく見える。人気のスカイツリーもこの夜は脇役だ。
 吾妻橋は一方通行で戻れないので、街中の道に入って南に歩いた。道のあちこちにビニールシートを敷いて、座って飲み物を飲んだりしている人がいる。ここでもビルの谷間に花火が見える。地元の人たちだろうか、橋からの花火は以前さんざん見たし、列を作ってまで見るこたぁないというのかもしれない。こういう花火見物もあるのだ。
 南の方に街角を歩いていくうちに、また人込みに出た。そこは、吾妻橋の一つ下流にある駒形橋のたもとだった。ここから、また反対方向に橋を渡る人込みだった。
 この橋でも人数制限が行われていて、列に沿って駒形橋に入り、そこからも花火を見ることができた。駒形橋を渡って、再び浅草へ出た。

 浅草駒形から、南の蔵前の先の浅草橋駅の方へ向かって、大きな江戸通りを歩いた。通りには、やはり人がいっぱいいた。ビルの谷間から花火が見える。まるで、ビルから火の粉が舞いあがって火事になっているようだ。
 橋を渡らない人たちは、ビルの谷間からの花火を楽しんでいた。夜7時から始まった花火は、8時半に終わった。
 隅田川の花火は、場所によっていろんな花火見物となっていた。
 翌日の新聞によると、来場者数は95万人と発表されていた。佐賀県の人口よりも多い。
 名物の隅田川の花火、今度はゆっくりと、願わくば風流に舟の上からでも見てみたいものです。

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ブラタモリの、哀愁の「江戸城外堀」

2011-02-09 21:11:09 | * 東京とその周辺の散策
 東京の「外堀」といえば、四谷から市ヶ谷へ向かった途中から飯田橋に到る約4キロの長さの堀である。
 この堀に沿って東側に中央線の電車が走る。この堀に沿った四谷、市ヶ谷、飯田橋は、皇居の西側にあり、丸い山手線を横断する中央線(総武線)の新宿駅と東京駅のほぼ中ほどで、東京の中央に位置する。
 線路の東は大きな土手になっていて、桜並木の遊歩道である外濠公園が続く。
 江戸城の内堀は皇居の周辺にほとんど残っていて、この堀に沿ってジョギングをしている人を見かけることでも有名だ。
 
 内堀のさらに外に堀を作った江戸城外堀は、約14キロあったが、明治以降の日本の近代化の途中で埋め立てられ、今この四谷、市ヶ谷、飯田橋あたりに残るのみである。
 外堀の西側には外堀通りがあり、市ヶ谷駅前の市ヶ谷見附で靖国通りと交叉する。
 中央線の走る電車からも、外堀通りを走る車からも外堀は見えるので、何げなく通り過ぎた人も多いだろう。飯田橋から東へ水道橋、御茶ノ水に向かっては神田川が流れているので、市ヶ谷前のこの外堀も、都心に流れる大きな川か、単なる長い池と勘違いしている人もいるかもしれない。
 徳川3代将軍家光の時代の寛永13(1636)年に、全国大名を総動員して造られたといわれる外堀は、わずかにここだけ、その姿のままでじっと佇んでいるのである。

 この外堀の東側、つまり皇居側は千代田区で、西側は新宿区である。
千代田区側には、五番町とか九段とか、いかにも武家屋敷が並んでいたような地名が連なる。
 一方西側の新宿区側は、市谷八幡町とか、市谷左内町、市ヶ谷番匠町といった名前が道や坂に入りくんで名づけてあり、街の職業や特性で細かく区切られていたことが分かる。
 市谷八幡町は亀ヶ岡八幡宮があり、左内坂なるものが残る左内町は島田左内なる者が町家を作ったとされ、番匠とは建築職人の意味から、番匠町には宮大工のような職人が集まっていたに違いない。
 飯田橋の外堀の突き当たりの牛込橋を渡ると、かつて赤坂と競いあった花街・歓楽街、神楽坂に出る。江戸の武士もこの界隈で羽目を外して、千鳥足で歩く姿がよく見かけられたに違いない。

 *

 NHKテレビの「ブラタモリ」が再開し、この「江戸城外堀」を2月3日放映した。2月8日再放映をし、そのとき僕は見た。ちなみに、2月10日朝11時よりNHK・BSでも再放映される。

 2008年の暮れの12月、深夜にNHKで唐突に「ブラタモリ」なる題名で、「原宿」が放映された。
 若者で賑わっている原宿を歩きながら、その足元の何げない小さな石垣や、なだらかな斜面や窪地から、昔はここに川が流れていた、などと推測し、古地図と睨めっこしながら、やはりこれがその痕跡だ、と言ってタモリがほくそ笑むのであった。そして、同行する専門家(その後毎回変わる)が、それを裏付ける根拠を解説するという趣向である。
 タモリと一緒に歩く久保田祐佳アナウンサーが、「あんきょ(暗渠)って何ですか?」などと尋ねるのも、今の女子アナらしくて愛嬌である。
 余談だが、当初この久保田祐佳は局アナではなくタレントだと思っていた。タモリと話すのも、普通の女の子のノリで、着ているファッションも女子大生風である。
 最近のNHKは、民放風にアイドル風のアナウンサーが出てきた。去年から朝のニュース番組「おはよう日本」のメインを務める鈴木奈穂子は、まさに可愛いアイドル風だし、今度夜の「ニュースウオッチ9」で青山祐子に代わる井上あさひは、正統派美人である。この井上あさひも、何だ!この髪型はといった殿様のチョンマゲのような格好で、堅い農業の番組に出ていたので、タレントか自称芸術家と思ったほどである。
 NHKの顔といえる朝の鈴木奈穂子と夜の井上あさひは、奇しくも04年入局の同期だそうである。「ブラタモリ」の久保田祐佳は、その1年下である。

 さて話を戻すと、このパイロット版とも言える「原宿」から1年たった、翌09年秋から「ブラタモリ」は2度レギュラー化された。
 そのなかでも、「銀座」、「丸の内」、「品川」、「新宿大久保」、「神田」など、知っている街なのに、今は失われた街の奥の歴史が抉られて、興味深いシリーズとなった。

 *

 ブラタモリの「江戸城外堀」は、千代田区歴史民俗資料館の後藤宏樹さんの案内で、外濠公園に沿ってそびえ立つ法政大学のボアソナードタワーの25階から、タモリ、久保田アナが外堀の全容を見渡すところから始まる。
 外堀を含めた東京の景色に、スタッフは感嘆の声をあげる。昔からこのあたりは眺望が素晴らしかったのだろう、富士見町という地名である。
 そして、タモリらスタッフは、四谷から市ヶ谷、飯田橋まで歩いて外堀の運命を紐解きながら、痕跡をたどる。
 明治期に建設された、今の中央線の元になる甲武鉄道の足跡も見つけることができる。この時の政府の先見の明で、中央線の新宿駅から東京駅までは、今でも踏切りがないようにできている。
 さらに、市ヶ谷の外堀の下に掘られた地下鉄の走る線路脇道にスタッフはもぐり、普通の人は入れない地下鉄有楽町線の留置線場にたどり着く。
 地下道を歩く彼らの横を地下鉄の電車が通りすぎるのを、笑って見送る。
 タモリが地下道を歩きながら、「通り過ぎる地下鉄に乗っていた人で、ちらっと俺に気づいた人がいたら驚くだろうね」と、笑って言う。
 すかさず久保田アナが「絶対、見間違いだと思うと…」と返事するのがおかしい。

 外堀界隈は、僕にとっては懐かしい思い出の地だ。
 外堀を挟んで千代田区と新宿区が広がる。学校も仕事も、この一帯へ通った。人生の大半をこの界隈で過ごしたと言ってもいい。
 市ヶ谷見附下には、外堀の一角に釣り堀がある。天気のいい午後、背広姿のサラリーマン風の男が釣り糸を垂れていたりするのも、長閑な風景だ。
 外堀を囲む建物やビルは変わっていったが、外濠公園の桜も、市ヶ谷亀ヶ岡八幡の急な階段も変わらない。いや、亀ヶ岡八幡の敷地はもっと広く、桜が茂っていたが、何年前になるか、土地の半分ぐらいが買収され予備校に変わった。
 外堀に面した、外堀通りの坂の下の角の大衆食堂はなくなった。市ヶ谷見附の番町に向かった先にあった喫茶店、五番町茶廊も変わった。中華料理店、九龍飯店はまだ店構えを保っている。
 外堀周辺の景色は、少しずつ変わっていく。
 しかし、外堀だけは変わらない。

 数多くある日本の城跡で、外堀が残っているのは、この江戸城の「外堀」、ここだけである。江戸城の外堀は、全体を見渡せば東西5キロ、南北4キロの大きさで、このことから江戸城が日本一の城だと言われている。
 四谷の外堀から続く赤坂見附にやってきたタモリは、夜の明かりの中で言った。
 「これだけでも、よく外堀が残っていたね。世界遺産でもいいんじゃないの」
 「全部残っていたのを見たかったですね」と久保田アナが合いの手を入れる。
 するとタモリは、すかさず言った。
 「全部残っていたら、文句なしで世界遺産だよ」
 こうして、ブラタモリの外堀探訪は終わっていった。

 *

 僕が大事にしている1枚の外堀の写真がある。(写真)
 何年前だったか忘れたが、季節は4月初旬。桜の満開の季節である。外堀の両側を囲む、中央線の奥の外濠公園にも、外堀通りの土手にも、桜が咲きほころんだ。
 その日の朝、突然、季節はずれの雪が降った。急いでカメラを持って家を出た僕は、外堀の桜に積もった雪景色を写真に収めた。花(桜)に雪。滅多に見られない景色だ。
 水(堀)の向こうには、総武線の黄色い電車も走っている。中央線は、柿(紅)色だった。
 ここに、月でも出ていたら、「雪月花」である。
 「雪月花」を、今まで見たことはない。もしこれからの人生で、それに出くわすことができたら、麻雀で「九連宝燈」ができたときのように(これも残念ながらできたことはない)、祝わないといけないな。

 花に降りそそいだ雪。
 昼になる前には、ひと時の儚い夢であったかのように、もう雪はあとかたもなく消えていて、うららかな桜の外堀の風景に戻っていた。

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変わりゆく丸の内界隈とマネ

2010-06-30 02:42:58 | * 東京とその周辺の散策
 東京駅の丸の内出口を出て振り返ると、赤煉瓦の東京駅は覆いに包まれていた。
 その白い覆いには、横に長く広がった建築物が描かれていた。その描かれた建物は東京駅のようだが、見慣れた東京駅とは少しニュアンスが違う。
 そうなのだ。東京駅は改造中で、覆いに描かれている建築時の姿に再現される途中なのだ。
 明治末に着工し、東京駅が完成、開業したのは大正3(1914)年だから、東京駅は着工からすでに100年以上たっている。設計したのは、日本銀行本店も手がけた辰野金吾である。
 東京駅の鉄骨をレンガで包んだ工法は、あの関東大震災でも強固に立っていたほどの優れた建築であったが、1945年の太平洋戦争での空襲では被災した。すぐに改修工事が行われて造られたのが、現在の(今までの)東京駅なのである。
 描かれた復元完成図を見ると、3階部の上に丸いドームが造られるようだ。駅舎の全長は335メートルというから長い。
 現在、丸の内は再開発が進んで、古い建築物が近代的な超高層ビルに変わりつつあるので、この東京駅の復元は価値があるというものだ。

 東京駅を背にして、丸ビルの通りの少し日比谷の方に向かったところに、三菱一号館はあった。(写真)
 三菱一号館に美術館が開設され、「マネとモダン・パリ」展が開かれているのだった。
 この三菱一号館は、丸の内最初の煉瓦造りのオフィスビルで、1894(明治27)年、ジョサイア・コンドルの設計である。同館が建ったあと、この丸の内界隈には煉瓦造りの建物が相次いで建てられ、日本屈指のオフィス街となり、一丁倫敦と称されるようになる。
 その威光は、今日にも引き継がれて、工場は地方にあっても、本社は丸の内のビルの一角という会社はいまだ多い。
 店舗は銀座で、会社は丸の内と言えば、いまだ超一流の証でもあるのだ。

 この三菱一号館を設計したジョサイア・コンドルは、イギリス・ロンドンの建築家で、鹿鳴館やニコライ堂や政府関連の建築物をはじめ、有栖川宮邸や岩崎弥太郎邸など日本の初期の西洋建築を多く手がけた。そしてのちに、工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として、日本の建築家を育てた。
 先にあげた東京駅を設計した辰野金吾は、このコンドルが教えた工部大学校の第一期生である。
 先生と弟子の建築物がはす向かいに対峙しているのである。
 この三菱一号館は、今年、表玄関の煉瓦造りは復元してその形として残し、その後ろの本体は高層ビルの姿を変えた。その煉瓦造りの中に美術館はあった。

 *

 マネが生きた19世紀の中~後半のパリには、のちに印象派と呼ばれる画家たちをはじめ、芸術家、作家が多く棲息していた。
 パリの街は、その頃オープンしたオペラ座をはじめ、劇場や酒場、カフェが賑わいを見せ、芸術、文化が花咲きはじめていたのだ。

 明日吹くであろう風に、誰も耳をそばだてていはしない。
 しかしながら、現代生活の英雄性はわれわれを取り巻き、われわれを促す。(ボードレール)

 マネは、特異な画家である。
 その特異性は、その絵の中の不思議さに表われている。
 「草上の食卓」は、当時センセーションを起こした絵だが、今でも一目見て忘れられない印象を植え付ける。ああ、あの絵かと、思い浮かべる人も多いだろう。
 昼下がりの午後であろうか。公園の木の下で男性2人と女性1人が談笑している。その傍には果物やパンが転がっているから、食事をしていたのが分かる。よくあるのどかな風景である。
 しかし、女性が服を脱いでいるのである。つまり、男性は着衣だが女性だけがヌードなのである。しかも、3人の奥の方にもう1人かがんでいる女性が見えるが、その女性はスリップ姿である。
 なぜ女性は裸であるのか、他人の視線は気にならないのだろうかと、見る者が気になってしまう。
 そもそも、マネはこの絵に何の意図を企んでいるのだろうか。
 彼は裕福なブルジョアジーの息子で、社会への反骨精神から描いたのではないようである。ただし、サロンの展覧会に何度も落選するが、サロンの評価に妥協をする性格ではなかった。

 「オランピア」という裸婦図でも、センセーションを巻き起こした。
 それまで、女性の裸体というのは天使やヴィーナスだった。多くの「ヴィーナスの誕生」画に見られるように、天使やヴィーナスの姿を借りてしか女性の裸体図を鑑賞してはいなかったのだ。
 それが、マネの描くオランピアはどう見ても天使ではなく、普通の女性、いや、娼婦なのだ。白い裸の女性と、着衣の黒い召使いの女性。裸の女性の手は性器の上に置かれ、見る者にそれを意識させている。

 もう1枚は「フォリ・ベルジェールの酒場」。
 テーブルに酒瓶が並べてあり、中央の若い女性がこちらを見ている。女性は、店のウェイトレスであろう。背景には酒場を楽しむ男女の姿がある。当時のパリの爛熟した酒場の雰囲気が窺える。
 女性の後ろには、同じ格好の女性が後ろ姿で、男性と向きあっている。女性の後ろの背景が鏡に映った景色であるなら、後ろ姿の女性は彼女自身であるが、角度が違うのである。

 しかし、今回の三菱一号館における「マネとモダン・パリ」展においては、この3枚は出展されていなかった。
 目玉は、女流画家のベルト・モリゾを描いた「菫の花束をつけたベルト・モリゾ」である。それと、「エミール・ゾラ」であろうか。
 それでも、マネの一端は窺える。
 それより、変貌する丸の内の散策の方が楽しいだろう。洒落たレストランもある。

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