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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

紀伊半島一周③ 奈良で発見した「氷室神社」

2024-10-21 01:03:55 | ゆきずりの*旅
 *さすらいの氷室神社

 奈良の大仏、東大寺をあとにして、その南にある興福寺に向かった。
 近鉄奈良駅に向かう登大路(のぼりおおじ)は、いろいろな店が立ち並ぶ。そこを歩き始めたら、通りに面して赤い鳥居に出くわした。
 「氷室神社」とある。珍しい名前の神社である。(写真)
 この近辺は、東大寺、興福寺、春日神社など有名な寺や神社が集まっている観光コースであるが、氷室神社はガイドブックでも見かけない神社である。
 「氷室」(ひむろ)とは、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管した施設のこと。昔は夏場の氷は貴重であり、献上品として重宝された。

 「氷室」とあるのを見て、すぐに胸に響くものがあった。
 小林旭である。
 日活、小林旭ファンはピンとくるであろう。
 1950年代後半から1960年代前半にかけて、日活で石原裕次郎と双璧の人気を誇っていた小林旭は、単発映画の裕次郎と違って、シリーズ物が多かった。当時は今では考えられないが、毎月のように旭主演の新作映画が公開された。共演者も浅丘ルリ子、笹森礼子はじめほぼ同じ顔ぶれが並び、内容も似たような無国籍的アクション映画であった。
 では、シリーズのどこが違うかといえば、主人公の名前である。
 「渡り鳥」シリーズは滝伸次、「流れ者」シリーズは野村浩次。「銀座旋風児」シリーズは二階堂卓也。そして、それらのあと作られた「賭博師」シリーズで、凄腕の賭博師なのが「氷室浩次」である。
 氷室神社に遭遇し、「さすらいの賭博師」氷室浩次が頭のなかを巡った。
 シリーズの最後の作品は1966年公開の「黒い賭博師 悪魔の左手」(監督:中平康)で、それを最後に氷室浩次は銀幕から姿を消した。それから半世紀以上が過ぎた。
 うむ、奈良のここで祀られていたのか、と思うと感慨深い。
 (そんな訳ない)。

 何はともあれ、これも何かの縁と氷室神社の鳥居をくぐった。鳥居の先には、両側に石灯籠が立ち並ぶ。
 黄昏時ということもあってか、観光客はいなく境内は静かだ。今までいた東大寺の混雑ぶりに比べれば、落ちついて見てまわれそうだ。
 途中、門のところの隅に四角い台があり、その上に四角い氷の塊が置いてあった。
 清めの氷なのだろうか、氷室神社らしいなと思った。しかし、氷の前に説明書きがあり、見ると「氷みくじ」とある。
 その氷は、おみくじ用のだった。おみくじを買い、それを氷に張りつけると文字(ご託宣)が浮かび上がるらしい。授与料200円とある。
 なるほど、氷室神社らしい。

 さらに門のなかに入ると、中央に拝殿があり、奥に本殿がある。
 そこに先客がいた。なんと、1匹の鹿がじっと立っていた。東大寺前の通りにわがもの顔でうろついていた鹿が、こんなところまで入り込んでいた。寺の人も追い出すようなことはしないのだろう。

 拝殿の前に、賽銭箱が置いてある。
 ここにも何やら説明書がある。読んでみると、賽銭箱上に設置されているコイン穴に100円を入れると、舞楽曲「賀殿」が流れるとある。
 つまり、ジュークボックスのような仕掛けである。氷室神社は、商売っ気がある。
 面白いので100円玉を入れてみると、雅楽が流れてきた。雅(みやび)な曲が境内に響き渡る。雅楽を聴きながら参拝するのも、これいかに!
 遠く曲に曳(ひ)かれてというのではないだろうが、観光客が数人、門をくぐってやってきた。雅楽効果というものもあるものだ。

 「氷室神社」(奈良市春日野町)は、奈良時代に春日山に造られた氷室を祀ったのが始まりとある。平安時代に、現在の地に移された。
 また、江戸時代、雅楽の伝承組織が制度化された。それにより、宮中方(宮廷・京都)、南都方(興福寺・奈良)、天王寺方(四天王寺・大阪)のそれぞれの楽所(がくそ)を三方楽所とし、楽人(雅楽家)は朝廷や幕府の行事に参勤した。
 氷室神社は南都方の楽人の拠点として、拝殿で舞楽を上演したとある。

 あの賽銭で流れてきた雅楽は、この伝統の舞楽に拠るものだったのだ。
 奈良の観光地の真ん中にあるのに、たぶん多くの人が知らない(知られていない)氷室神社を発見したのは僥倖だった。氷と雅楽にまつわる、知る人ぞ知る神社なのだろう。
 氷室なる神社は、ここ奈良市のほか京都市、天理市などに数社あるようだ。

 *黄昏の興福寺

 すでに日は暮れ、夜のとばりが下り始めた。氷室神社を出て、近くの興福寺に向かった。
 「興福寺」は、五重塔や三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が教科書に載っているような、有名な寺である。
 もとは藤原京(飛鳥時代)にあった寺で、平城京・奈良遷都とともに現在地に移され、名前も興福寺となった。
 歩いていると、薄暮のなかにクレーンを備えた工事中の高い建築物が浮かんで見える。現在、修理中の興福寺の五重塔である。
 五重塔の創建は730(天平2)年で、現存の塔は、1426(応永33)年の再建で6代目である。高さは50.1mで、京都の東寺五重塔に次いで現存する日本の木造塔としては2番目に高い。

 興福寺の中央にでんと構えているのは中金堂だ。時間が遅かったので、堂はもう閉まっている。
 中金堂を横目で見ながら進んでいくと、暗さのなかで明かりの灯った堂が見えた。小さいがきれいな形の南円堂である。
 南円堂をあとに境内を下りていくと大きな通りに出た。三条通りだった。

 *奈良の街の古き商店街

 三条通りを西の方に歩いていくと左手に、入口を派手に形作ったアーケードの商店街があった。親しみのある古い商店街である。
 商店街の名前は「もちいどのセンター街」とある。どういう意味かと考えていたら、漢字で書くと「餅飯殿センター街」である。これでも意味が分からない。
案内板にはこう書いてある。
 「奈良で最も古い商店街のひとつ「餅飯殿センター街」。「餅飯殿」の地名の由来は諸説ありますが、こんな伝説が残されています。
 今から千百年余り前、東大寺の高僧、理源大師が、大峰山の行者を困らせる大蛇退治に出かけることになりました。そのお供に名乗り出たのがこの町の箱屋勘兵衛と若者七人衆。たくさんの餅をつき、干飯を作り、大峰山に向かいます。そして、大蛇の被害を受けた人々たちに「餅」や「飯」を配り、無事に大蛇を退治します。
 その後、理源大師は、この町の若者に「餅飯の殿」の称号を与えその労をねぎらいました。以来、この町を「餅飯殿」と呼ぶようになったということです。」
 懐かしさを感じさせる「もちいどのセンター街」を先端まで歩いて再び三条通りに戻った。そして再び通りを進むと、すぐの右手に商店街が出てきた。通りに並ぶ建物の感じから、こちらの方が「もちいどのセンター街」よりも近代的に見える。
 「東向商店街」とあり、この商店街を進むと、近鉄奈良駅に出る。
 東向きとあるが、通りは南北に向いている。どうしてだろうと考えたがわからない。
 理由は、この通りの東には興福寺の伽藍である寺院が立ち並んでいたので、人家は西側にあり、みんな東側を向いていた。それでその名がついたそうである。
 この商店街も、名前の由来からして古い通りである。

 この三条通を西へまっすぐ突き進むと、予約したホテルに近いJR奈良駅である。
 腹が減っていたので、この三条通りを歩きながらどこか食事するところを見つけようと、東向商店街には入らず歩き始めた。
 それが失敗だった。三条通りに店はいくつかあったのだが、気をそそられる店が見つからずJR奈良駅まで来てしまった。歩き疲れたので、駅前の中華のチェーン店で、とりあえず腹を満たすという結果になった。

 明日は奈良を出て、和歌山の海岸線を走る紀勢本線に乗り、串本の潮岬を目指すことにしよう。

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紀伊半島一周② 東大寺、奈良の大仏に会う

2024-10-16 02:07:09 | ゆきずりの*旅
 *大阪、九州・佐賀経由で奈良へ

 懸案事項だった紀伊半島を一周する旅に出た。その前に、高校および中学校の同窓会に出席するために、九州・佐賀に行くことにした。
 「東京→大阪→武雄→佐賀・大町→大阪→奈良→串本(潮岬)→伊勢(三重)→名古屋→東京」という大まかなコースである。

 2024(令和6)年9月20日、東京を出発、大阪下車。兵庫・宝塚泊。
 9月21日、新神戸発、博多を経て佐賀着。佐賀泊。
 9月22日、佐賀・武雄市で高校同窓会出席。武雄泊。
 9月23日、佐賀・大町町で中学校同窓会出席。佐賀泊。

 9月24日の朝、佐賀を出発し、まずは紀伊半島の真ん中部の「奈良」に向かった。
 奈良は何度か行っているのだが、行くところは桜の吉野、石舞台や高松塚のある明日香、里山から離れた室生寺あたりで、教科書に載っている奈良の代表的な東大寺、法隆寺という有名な寺には行っていなかった。
 奈良に行って、法隆寺はともかくもなぜ東大寺に行かなかったのだろう。鎌倉の大仏は何度も見ているのに、奈良の大仏を一度も見ていないのは、何だか胸を張れないような気持になってきていた。
 日本の大仏といえば、まずは東大寺の大仏をあげざるを得ないだろう。ともかく、東大寺の大仏は見ておかねばと思ったのだ。

 「佐賀」駅8時48分発の列車に乗り、「博多」駅10時23分発の新幹線「さくら」で12時59分「新大阪」駅に着いた。大阪から奈良への列車を探した。
 奈良に着いたら、すぐに東大寺に行きたかったので、駅に近いところのホテルにしようと、列車のなかでスマホでホテルを探し、JR奈良駅のすぐ近くのホテルを予約した。
 スマホが普及して便利になったものだ。電波が届くところはどこででも、列車のなかでも電話連絡ができる。
 スマホがない時代は、私のように行き当たりばったりの旅人は、目的地に着いてから駅周辺の観光案内所に出向いて当地の案内書や地図をもらい、宿泊施設を紹介してもらったり調べたりした。小さな町で案内所がない場合や案内所がすでに閉まっているときは、自分で探すしかなかった。
 それはそれで何とかなるものだし、苦労や失敗もあるが、それも旅の一部だと思っている。そして、苦い経験や辛い体験ほど長く印象に残っていて、人生に彩りを与えているものだ。

 「新大阪」駅13時11分発、「おおさか東線」にて「久宝寺」駅13時43分着。久宝寺駅13時51時51分発、「関西本線」にて「奈良」駅14時18分着。

 *奈良・東大寺の大仏

 ホテルに荷物を預け、すぐに駅前のバスで東大寺に向かった。
 バスの中から鹿が見え隠れした。
 東大寺の参道近くでバスを降りると、観光客に交じって鹿がいる。いる、いる。参道を歩くと、もうあちこちに鹿がいる。人を恐れないどころか、観光客には寄ってきて愛嬌を振っている。最初は可愛いと思っていたのが、エサをせびりに寄ってくるたびに、だんだん煩わしくなってくる。
 それよりも、歩くのに注意が必要なのだ。というのも、道路にはあちこちに焦げ茶の塊りや丸い粒が落ちている。すでに踏みつぶされてか固まっているのもある。鹿の糞である。これを踏まないように足元を注意しながら歩かなければならないのだ。
 ニューデリーの道では、あちこち牛の糞が落ちていたのを思い出した。

 鹿を払いのけ足元に注意しながら参道を歩いていくと、大きな門に着く。
 「南大門」である。門の左右には、運慶、快慶等作とされる阿吽の金剛力士立像が見る者を睥睨している。
 南大門をくぐり、さらに進んで右手の鏡池を過ぎると中門がある。中門の先に、大仏が収められている「大仏殿」が現れる。長らく「世界最大の木造建築」といわれてきた、見るからに大きな伝統的建築物だ。

 さてと、ふと足首を返してスニーカーの裏底を見てみた。すると、注意しながら歩いてきたはずなのに底に黒いものが……。
 何とかしようと思って左右を見まわすと、中門から大仏殿に向かう道の右側に細い水路が延びている。浅く、水がゆっくりと流れているようである。スニーカーを浸すと底がちょうど浸かるぐらいなので、洗ってみたがきれいにとれない。
 その先、大仏殿の手前の右手に手水舎があった。そこで、手を洗う(清める)とともに、スニーカーの底を洗う、もとい、浄(きよ)める。

 いよいよ殿の中に入って、大仏を見た。いや、大きいので仰ぎ見たといった方が正しい。
 大仏は本尊一体だけではなかった。左右に、従わせるかのように金色に輝く菩薩像が置かれていた。(写真)
 中央の本尊である大仏は、全体に黒く、薄目で正面を見ている表情は優しいのか厳しいのかわからない。左手は開いて膝の上にのせ、右手は前に曲げた掌を正面を向けている。
 正面に向けた右手は、人々の恐れを取り除き安らぎをもたらす印らしいが、これ以上近づくなといっているように見える。
 しばらくじっと見ていたが、人を寄せつけないような威厳がある。

 「東大寺」は華厳宗の大本山で、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が建立した寺である。本尊の大仏は、正式には盧舎那仏(るしゃなぶつ)といい、大地震や戦火に2度あって、現在の像は江戸時代に修復されたものである。像の高さは約14.7m。鎌倉の大仏の像高は約11.4mであるので、こちらの大仏が幾分大きい。

 個人的感想でいえば、鎌倉の大仏の方に親しみが持てる。
 鎌倉の大仏は厳かな建物のなかに鎮座しているのではなく路上にあるので、後ろから見ると少し侘びしげもに見える(奈良の大仏は後ろ姿は見られない)。
 手は、両手で膝の上で組んだまま(状態)である。相手に説教するのでもなく、自我に没頭しようとしているように見える。
 鎌倉の大仏を見ると何だかほっとするが、奈良の大仏にはそれはない。威圧感の方が大きい。

 威厳のある大仏殿をあとにして、広い境内の東奥にある「二月堂」に向かった。
 二月堂の横には三月堂が、前には四月堂があった。
 階段を上がった二月堂からは、奈良市街が一望できるのびやかな風景が広がっていた。

 東大寺をあとに、近くにあるこれも有名な「興福寺」に向かうことにした。

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紀伊半島一周① 誘惑する日本列島の突端、先端

2024-10-12 01:30:02 | ゆきずりの*旅
 *列車の旅の魅惑

 私は基本的に国内の旅では、飛行機は使わず列車である。飛行機による“点の旅”でなく、列車およびバスによる“線の旅”を旨としている。
 佐賀に帰省(帰郷)する際も、学生時代から年に2~3回帰っていたので、計150回くらい東京~九州を往復したことになるが、飛行機を利用したのは僅か3回である。もうずいぶん昔のことだが、東京(羽田)—福岡空港2回、東京—佐賀空港(開港時に)1回のみ。
 あと、船(東京港―徳島港―新門司港)で1回、夜行バス(東京—福岡)で1回がある。
 東京から九州・佐賀に行くのに、新幹線開通後は主に東京~博多間は新幹線を利用するのが多いが、ときに気紛れに山陰本線を各駅列車で乗り継いで関門海峡を渡ったり、寝台特急列車で四国へ行って、八幡浜あるいは宿毛から九州(大分県)へ船で渡り、そこから佐賀へ帰ったりもした。
 要は、鉄道オタクではないが列車が好きなのである。

 列車で、今までの景色を置き去りにして、新しい風景に分け入っていく感覚がいい。それに加えて、窓の外の景色を見ているという一つの状態で(例えば本を読んだり、食事(駅弁)をしたりお茶を飲んだり、他に何かをやったりしている状態でも)、目的地もしくはどこかに向かって移動しているという二重感覚が心地よい。
 旅するときは、軽い文庫か新書本を1冊バッグに入れていくのだが、ほとんど読んだことがない。本を読むのは家でもできると考えたら、そのときの通り過ぎ去る一瞬一瞬の風景、そこにいる状態が大切だと思えるのだ。
 前にも見た同じ場所・景色でも、季節やそのときの空が違うように、あるいは以前とそのときの自分の気持ちも違っているように、それは同じ景色ではない。通り過ぎる風景は、人生の時間のようだ。
 だから、列車は速ければいいというものでもない。

 *北の宗谷岬から下北半島、津軽半島の突端、終着駅

 人はなぜか突端、先端に好奇心を抱くものだ。そして、最果てという響きに心魅かれ、そこへ行ってみたいと思う。
 南極や北極を目指すのも、エベレストやマッターホルンに登るのも、その現れだろう。
 そんな地球規模、世界規模でなくとも、日本の国内でも地図を眺めていると、気になる突端、先端、最果て、行き場のない終着駅はあるものだ。

 列車が好きだといっても突端、先端を意識して周ったことはないのだが、思えば、何となくそこへたどり着いた、誘われるように行ってしまったということはある。
 地図を見ていると、突端、先端、それに終着駅は気になる存在ではある。

 終着駅の最たるところは、北の突端にある「稚内」駅であろう。北海道に行ったら、一度は行かねばと思わせる駅である。
 日本最北端の駅、北海道の「稚内」(宗谷本線)には2度行き、そこから利尻・礼文島にも渡ったが、今思えば近くの最北端の地、宗谷岬に行かなかったのが悔やまれる。

 本州の最北端といえば、北海道と向かい合う斧のような形の青森県の「下北半島」である。下北半島は、本州の最北端ということだけでなく、その形からして何だろう、何かあるなと思わせる。
 この半島は恐山に惹かれ2度行ったが、野辺地から大湊(おおみなと)線で終着駅の「大湊駅」で降りることになる。
 現在(2024年)は、その一つ手前の「下北駅」が緯度としては本州最北端の駅であるが、当時はそのことを知らなかったので下北駅は通り過ぎただけである。そのことは全く意識していなかったのだ。住んでいる近くの下北沢駅は何度も行ったというのに!
 恐山をあとにして、陸奥湾側から仏ヶ浦をなぞり突端の大間崎を周り下風呂温泉あたりにたどり着くという航路で、2回とも船で半島を周回した。
 下北半島は、何やら掴みづらい半島ではある。

 下北半島と向かい合っているのが「津軽半島」である。この半島と北海道の間に津軽海峡がまたがっている。
 かつて、この海峡を津軽連絡船が通っていた。津軽からこの船が離れるときに、船に乗っている人と陸地で別れを惜しむ人たちがテープを繋いで、手を振る姿が映し出されるたびに郷愁を抱いた。
 現在は青函トンネルが開通し、本州と北海道は列車で繋がっているが、トンネルが開通する前の1974年と1983年、津軽連絡船に乗って北海道へ渡った。
 1988(昭和63)年に開通した青函トンネルは世界最長の海底トンネルであり、2016(平成28)年にスイスのアルプス縦貫「ゴッタルドベーストンネル」が開通するまでは、世界最長のトンネルであった。

 1997(平成9)年のこと。札幌へ行く途中、青森から津軽線の終着駅で降りたった。竜飛(たっぴ)崎を遠く見ながら、凧あげをしていたのを眺めるなどしばらく時間を費やしたあと、青函トンネルで函館へ渡る「海峡線」に乗った。
 海底を通る海峡線に乗った私は、トンネルの途中の駅「竜飛海底駅」で降りた。トンネル内に「竜飛海底駅」(青森県側)と「吉岡海底駅」(北海道側)という2つの海底駅があったのだ。
 降りたといっても、そこに街があり住人がいるわけではない。世界的にも珍しい海底トンネルの見学のための駅である。
 竜飛海底駅は本州最北端の駅だった。そして、吉岡海底駅は北海道最南端の駅だったし、海面下149.5mの世界一低い位置にある鉄道駅であった。
 過去形で書いたのは、2014(平成26)年、北海道新幹線開業に伴い駅は廃止され、今は緊急時の避難施設となり、両駅はなくなったのだ。
 今にして思えば、世にも貴重で稀有な海底のトンネル駅だった。

 *九州最南端、最西端の駅

 2016(平成28)年、霧島へ行ったとき、鹿児島から九州の最南端を走る大隅半島の終着駅「枕崎駅」、その先の「坊津」(ぼうのつ)に行くため、指宿枕崎線に乗った。そのとき途中の駅「西大山駅」が日本最南端の駅(普通鉄道)と知った。開聞岳が目の前に見える素朴な駅だった。
 ※2003(平成15)年、沖縄都市モノレールが開通し、モノレールも含めると「赤嶺駅」が日本最南端の駅になる。

 長崎の平戸島に行くとき降りたのが松浦鉄道西九州線「たびら平戸口駅」である。ここが日本最西端の駅(普通鉄道)である。
 この近くにある煉瓦造りの田平天主堂には、なんとフランスにある「ルルドの泉」が造られている。

 *紀伊半島の突端「潮岬」への想い

 地図で四国を見ると、カニを上から見たような形をしている。そして、下(太平洋)の方の両サイドに尖った先端(岬)が脚のように出ている。
 四国へ行ったときである。
 高松から徳島、牟岐線を経て、高知の太平洋・土佐湾の右(東)サイドの尖った先端である「室戸岬」へ行って、予土線で宇和島へ行き、八幡浜から船で九州(別府)へ帰ってきたとき、もう一つの左(西)の先端「足摺岬」が気になった。
 それで、次に四国に行ったとき、室戸岬を通って、土佐くろしお鉄道で「足摺岬」へ行った。そして、宿毛から船で九州(佐伯)へ渡った。
 そのとき、漠然と「潮岬」の存在が浮かんできた。
 紀伊半島の先端である潮岬に行かねばならない、と思った(義務ではないのに)。和歌山市や新宮・那智には行ってはいるのだが、紀伊半島の突端には行っていないのだ。
 そう思っているうちに何年かが過ぎていった。人生とは、そうやって老いていくものだなぁと、少し寂しくもなった。振り返れば、やり残したものがいっぱいあるのだ。
 この秋、紀伊半島に行こうと決意した。

 *紀伊半島とは

 日本列島の地図を見ると、南の太平洋側には、いくつかの半島が突き出ているというより垂れ下がっているようにある。房総半島(千葉)も、伊豆半島(静岡)も、紀伊半島も、似たような形をしている。
 そのなかでも、日本列島のほぼ中央にある紀伊半島の大きさは目につく。この半島こそ、日本の最大の半島なのである。
 それでは、紀伊半島はどこからどこを言うのだろう。
 半島のくびれから見ると、西は大阪(大阪府)あたりで、東は津(三重県)あたりだろうか。
 半島の内陸部にはでんと奈良県があり、奈良の西、大阪から南は和歌山県が太平洋岸まで延びている。奈良の東、和歌山の北に三重県があり、名古屋(愛知県)へ続く。
 半島の中央部には、千メートル以上、2千メートル近い山が連なる紀伊山地が横断している。紀伊は木の国からきているといわれているように、内陸部は山でおおわれている。それを包むように海が広がり、その先端が太平洋を望む「潮岬」なのである。
 (写真は、この度行った潮岬と本州最南端の潮岬灯台)

 この秋に紀伊半島に行こうと思っていた矢先に、9月に九州の佐賀の出身高校、武雄で同窓会を行うという知らせが来た。東京から帰ってくる者がいるからと、その隣町の出身中学校、大町町で相乗りの形で、次の日に中学校の同窓会を開くことになった。

 ということで、九州に行った帰りに、紀伊半島を周ることにした。
 「東京→大阪→武雄→佐賀・大町→大阪→奈良→串本(潮岬)→伊勢(三重)→名古屋→東京」という大まかなコースを想い描いた。
 とりあえず、宿泊ホテルも決めずに地図を頼りに出発した。

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富山の旅③ 移りゆく富山市の商店街

2016-09-22 01:49:10 | ゆきずりの*旅
 富山県を地図で見ていると、蝶むしろ蛾か蝙蝠(コウモリ)が羽を広げたように見える。あるいは蟹(カニ)。どれも、漢字にすると何やらいわくありげだ。
 この富山県の姿、どこかに似ていると思っていたら四国に何となく似ている。
 海に面した県には、このような形の県が多い。あえてあげれば、愛知県、神奈川県。もっと広げると静岡県、鳥取県、高知県など。佐賀県だって、この形に近いと言えなくもない。
 僕は地図を見るのが好きなので、見ていると形も個性があって面白い。

 *

 9月4日、この日の午後富山から東京へ帰るので、午前中は市内地図を片手に富山市内を歩いた。
 富山市は、駅の南側に路面電車やバスが走っている通りが間隔をおいて延びている。その3本の道の間が市の中心街のようだ。歩いて周れる程度の適度な大きさのようなので歩いてみる。
 駅から南に歩いていくと県庁と市役所のある通りがある。いわゆるこの辺りが官庁オフィス街の中心なのだろう。 その先に「富山城址公園」がある。前田家の城があったところで、櫓や城壁は新しく、この街が城下町であることの証明であるかのような存在だ。今では公園になっていて市民の憩いの場となっている。
 その先の「大手モール」を過ぎ、さらに南の方へ行ってみた。

 大通りを渡ると、急に今までとは違う空気の漂う商店街の入口に出くわした。通りの入口にアーチ型に「千石町モール」とあり、入口の角の古い家には木の看板が掲げてある。誰も住んでいない廃墟かなと思ってよく見ると、一番町公民館とあるが人はいないし、その気配もない。
 店が並ぶ通りを歩いたが、明らかにかつての商店街である。通りのあちこちにある店は営業をやっているが、客らしい人が見あたらない。(写真)
 かつてと言ったのは、通りから懐かしい匂いがしたからだ。通りは静かだが、今はない賑やかさを忍ばせている。何年前か知らないが、地元のおばさんや子供たちで通りは賑わっていただろうと想像を喚起させる商店街だ。僕は、佐賀の育った田舎の商店街を思い起こしていた。
 千石町という街の名前からすると、富山城大手門から続く城下の町として、昔は最も栄えた一帯だったのかもしれない。

 旅先で、このような地方の街をいくつも見てきた。「陰翳礼讃」ではないが、今は廃れているが、かつて栄華を誇った街や商店街を歩くと、切なさとも愛おしさともいえる、何とも言えない感情がわいてくる。華やかなりし頃、そこに住んでいた人たちは、今はどこでどうしているだろうと考えると、時を巻き戻したような走馬燈が頭を駆け巡る。
 街は、時代によって変わる。
 失われゆくもの、廃れゆくものを立ち止まって見つめるのは、言われえぬ胸を焦がすものがある。

 千石町商店街を出たあと、「日枝神社」に寄った。東京・赤坂に日枝神社があるが、この系列の神社は全国にあるのだろう。
 日枝神社から北へ向かい、大通りの図書館のあるガラス美術館の前を通って、「池田屋安兵衛商店」をのぞいた。富山の薬売りの老舗で、店自体が観光地になっているようだ。中では、レトロな薬をはじめ、様々な薬や茶などを展示ではなく販売している。
 その先に市の観光案内所があった。あまり観光客が来そうもないところなのに、どうしてこんなところにあるのだろうと思った。
 僕が中年の男の係りの人に「景気はどうですか」と訊くと、この辺りで育ったというその人が言った。
 「私が子どもの頃は、この通りの前の中央通りの商店街が賑わっていましたが、今ではすっかり廃れました。西の方に移ってしまいました」と指をさして、嘆いた。
 この辺りはかつて中心街と言っていいほど栄えていたのだろう。富山の商店街の中心は、今でも移り動いているのだ。

 そこから再び南の方に向かった。地図に卍の印が集まった「梅沢町寺院群」なる地域があったからだ。
 ずいぶん歩いたが、いわゆる住宅街で、住宅の間にあるいくつかの寺にぶつかったが、時間の余裕もないので全域を周るのは諦めて、また北の大通りへ戻ることにした。
 途中、寿司屋のようなカウンターのある造りのトンカツおよび中華料理店に入り、昼食をとることにした。トンカツがこの店の人気のようだが、麻婆豆腐と餃子を注文。四川風で美味い。

 上本町から西町のガラス美術館に面した大通りに再び戻った。
 その先の駅方向の北に向かう通りを行くと、すぐに右と左にアーケードの商店街が延びている。
 右、つまり東側の「中央通り商店街」は、観光案内所の人が言っていたかつて栄えた商店街で、左の西側が「総曲輪商店街」である。この2つの商店街を直線にすれば、かなり長い商店街だ。
 しかし、「総曲輪」はちょっと読めない字だ。「そうがわ」と読むそうで、現在の賑わいは、この西側の総曲輪商店街に移ったようだ。
 そこから北へ進み、富山駅に戻った。

 *

 富山駅14時6分発上り「かがやき」528号に乗る。途中、長野に停まったら次は大宮だ。そして、上野の次が東京駅、16時20分着。
 富山駅から東京駅まで2時間14分である。富山に行くのはちょっと面倒だがと思っていたころから考えると、何ともあっけないほど物足りない速さである。これじゃあ、旅と言うのもはばかられるなぁ。
 僕には、急行列車あたりが一番合っている。景色も充分見られるし、駅弁もゆっくり食べられるし、何なら落ち着いて読書だってできる。
 しかし、かくのごとく日本列島新幹線の配設で、いつの間にかJR(旧国鉄)の定期急行列車はなくなってしまった。
 何でも速ければいいとは思えないのだが。

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富山の旅② 富山湾の水上ライン

2016-09-16 02:08:48 | ゆきずりの*旅
 富山といえば、昔から薬売りが有名だ。
 僕が小さい頃は、何種類かの薬がセットになっているのを各家庭に置いて行き、時々家を周っては、使った分だけ料金を取り、なくなった薬は補充して帰っていく行商人のおじさんがいた。富山の薬売りだった。
 いつの頃からか薬の行商人は見なくなったが、各地にドラッグストアーができ薬が簡単に入手できるようになったので、職が奪われたのだろう。それでも、少なくなったが今でも残っているという。
 そういえば10年位前であろうか、母が生きていたときのことだ。僕が佐賀の実家に帰ったときのこと、若い男が「こんにちは」とやってきた。そして、家の玄関脇に置いてあるドリンク剤(数本の小瓶)を交換しますという。聞けば栄養ドリンクのような小型の飲料水(瓶)で、飲んだ分だけ料金をもらいますが、飲んでいなくても定期的に新しいのと交換に伺っていますという。
 僕は母に確認して、飲まないからもう置かないでくださいと言って断ったのだが、飲まなくても構いませんからとか契約されたものは本社の了承がないと私個人では解約は難しいとか、相当粘られた記憶がある。あれは、新しい形を変えた薬の行商人かもしれない。

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 富山には八尾の「おわら風の盆」を見に来たのだが、富山の市内も見るつもりではいた。
 風の盆の踊りは夕方からなので、富山に着いた次の日の9月2日の午前中は、駅から北西にある丘陵のふもとの富山市民俗民芸村に行くことに。
 まず、民俗民芸村の近くにある五百羅漢の像を見ることにした。石像が段状に整然と並んでいる。おそらく500体以上あるようだ。
 若いとき、大分県中津市の耶馬渓(やばけい)に行ったとき、羅漢寺に五百羅漢があった。五百羅漢は、各地にあるようだ。

 陶芸館は、市内に建てられた豪農の住宅の一部を移築した建物だが、頑強な構造ながら木の造りが美しい。なかで、全国各地の暮らしのやきものを紹介している。

 売薬資料館は、その名の通り富山の薬の歴史と資料を展示してある。
 別館の「旧密田家土蔵」は、富山を代表する売薬商家であった密田家に残されていた資料を展示してあるもので、顧客名簿や行商において守らなければならないことなどが書かれた資料など興味深い資料があった。
 ここの資料館で貰った折りたたんだ紙風船は、かつて行商のときに土産として配ったものであった。油紙の色付きの紙風船を手に取った途端、僕の遠い記憶を甦らせた。確かに、薬の交換のときに、薬売りのおじさんが置いていった。僕ら子供は、それを膨らませて遊んだことがある。今の子どもなら喜びそうもない他愛ないものだが、当時の子どもには嬉しかった。

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 9月1日、2日と越中八尾に「風の盆」を見に行ったので(前ブログ「富山の旅①」参照)、9月3日は富山市内見物とした。
 富山市の北、富山湾に面した町、岩瀬に行くことにした。
 岩瀬は、かつて江戸から明治時代にかけて栄えた北前船文化が色濃く残る港町である。
 富山駅の正面に当たる南口から、地下道で北口に出る。この北口に新型路面電車ともいえるライトレールの出発停車場がある。アムステルダムを走るトラムのようなこのライトレールは、富山駅北から港の岩瀬浜までを約25分で往復している洒落た電車である。
 このライトレールに乗り、終点岩瀬浜の一つ手前の東岩瀬で降りて、街を散策することに。
 街は道に沿って古い家並みが続き、一昔前の町に迷い込んだかのようである。特に北前船廻船問屋の明治11年に建造されたという森家はそのままの形で開放されていて(ただし入館料大人100円)、往時の生活を見ることができる。

 港の近くにあるカナル会館で昼食をとったあと、運河を走る船で富山市内へ戻ることにした。「冨岩(ふがん)水上ライン」といって、岩瀬浜から富山駅北の冨岩運河環水公園までの5.1kmを約70分で遊覧し、料金1500円である。(写真)
 僕は列車が好きだが、船も好きだ。旅の途中、舟廻り、舟遊びがあると乗りたくなる。
 このクルーズは、海辺から街中へのゆったりとした船航である。
 船のなかでは、季節柄だろう、船のガイドの女性が風の盆の格好をしていて、踊りも披露してくれた(おそらく25歳を超えていたが)。
 この運河は上流と下流の水位差が2.5mあり、その水位の調整門である中島閘門(こうもん)を通るので、段差の調整段階をじかに見ることができた。ガイドの人が、パナマ運河を例に説明してくれるのが何とも面白い。
 水郷潮来に行ったときは、「潮来花嫁さん」の歌を聴きながら川を下る舟廻りをしたが、そのときも閘門があった。といっても、冨岩運河は潮来より規模が違って大きい。パナマ運河よりはるかに小さいが。
 終点の冨岩運河環水公園は、富山市民の憩いの場のようだったが、暑いのでとりあえずホテルに戻る。
 
 夜は、駅の南口の繁華街のなかの和食屋で富山料理を。
 八尾で鱒寿司は食べたので、これはパス。
 何といっても魚が美味い。白エビは富山ではどこでも付きもののようだ。これはカラ揚げがいい。

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