*さすらいの氷室神社
奈良の大仏、東大寺をあとにして、その南にある興福寺に向かった。
近鉄奈良駅に向かう登大路(のぼりおおじ)は、いろいろな店が立ち並ぶ。そこを歩き始めたら、通りに面して赤い鳥居に出くわした。
「氷室神社」とある。珍しい名前の神社である。(写真)
この近辺は、東大寺、興福寺、春日神社など有名な寺や神社が集まっている観光コースであるが、氷室神社はガイドブックでも見かけない神社である。
「氷室」(ひむろ)とは、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管した施設のこと。昔は夏場の氷は貴重であり、献上品として重宝された。
「氷室」とあるのを見て、すぐに胸に響くものがあった。
小林旭である。
日活、小林旭ファンはピンとくるであろう。
1950年代後半から1960年代前半にかけて、日活で石原裕次郎と双璧の人気を誇っていた小林旭は、単発映画の裕次郎と違って、シリーズ物が多かった。当時は今では考えられないが、毎月のように旭主演の新作映画が公開された。共演者も浅丘ルリ子、笹森礼子はじめほぼ同じ顔ぶれが並び、内容も似たような無国籍的アクション映画であった。
では、シリーズのどこが違うかといえば、主人公の名前である。
「渡り鳥」シリーズは滝伸次、「流れ者」シリーズは野村浩次。「銀座旋風児」シリーズは二階堂卓也。そして、それらのあと作られた「賭博師」シリーズで、凄腕の賭博師なのが「氷室浩次」である。
氷室神社に遭遇し、「さすらいの賭博師」氷室浩次が頭のなかを巡った。
シリーズの最後の作品は1966年公開の「黒い賭博師 悪魔の左手」(監督:中平康)で、それを最後に氷室浩次は銀幕から姿を消した。それから半世紀以上が過ぎた。
うむ、奈良のここで祀られていたのか、と思うと感慨深い。
(そんな訳ない)。
何はともあれ、これも何かの縁と氷室神社の鳥居をくぐった。鳥居の先には、両側に石灯籠が立ち並ぶ。
黄昏時ということもあってか、観光客はいなく境内は静かだ。今までいた東大寺の混雑ぶりに比べれば、落ちついて見てまわれそうだ。
途中、門のところの隅に四角い台があり、その上に四角い氷の塊が置いてあった。
清めの氷なのだろうか、氷室神社らしいなと思った。しかし、氷の前に説明書きがあり、見ると「氷みくじ」とある。
その氷は、おみくじ用のだった。おみくじを買い、それを氷に張りつけると文字(ご託宣)が浮かび上がるらしい。授与料200円とある。
なるほど、氷室神社らしい。
さらに門のなかに入ると、中央に拝殿があり、奥に本殿がある。
そこに先客がいた。なんと、1匹の鹿がじっと立っていた。東大寺前の通りにわがもの顔でうろついていた鹿が、こんなところまで入り込んでいた。寺の人も追い出すようなことはしないのだろう。
拝殿の前に、賽銭箱が置いてある。
ここにも何やら説明書がある。読んでみると、賽銭箱上に設置されているコイン穴に100円を入れると、舞楽曲「賀殿」が流れるとある。
つまり、ジュークボックスのような仕掛けである。氷室神社は、商売っ気がある。
面白いので100円玉を入れてみると、雅楽が流れてきた。雅(みやび)な曲が境内に響き渡る。雅楽を聴きながら参拝するのも、これいかに!
遠く曲に曳(ひ)かれてというのではないだろうが、観光客が数人、門をくぐってやってきた。雅楽効果というものもあるものだ。
「氷室神社」(奈良市春日野町)は、奈良時代に春日山に造られた氷室を祀ったのが始まりとある。平安時代に、現在の地に移された。
また、江戸時代、雅楽の伝承組織が制度化された。それにより、宮中方(宮廷・京都)、南都方(興福寺・奈良)、天王寺方(四天王寺・大阪)のそれぞれの楽所(がくそ)を三方楽所とし、楽人(雅楽家)は朝廷や幕府の行事に参勤した。
氷室神社は南都方の楽人の拠点として、拝殿で舞楽を上演したとある。
あの賽銭で流れてきた雅楽は、この伝統の舞楽に拠るものだったのだ。
奈良の観光地の真ん中にあるのに、たぶん多くの人が知らない(知られていない)氷室神社を発見したのは僥倖だった。氷と雅楽にまつわる、知る人ぞ知る神社なのだろう。
氷室なる神社は、ここ奈良市のほか京都市、天理市などに数社あるようだ。
*黄昏の興福寺
すでに日は暮れ、夜のとばりが下り始めた。氷室神社を出て、近くの興福寺に向かった。
「興福寺」は、五重塔や三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が教科書に載っているような、有名な寺である。
もとは藤原京(飛鳥時代)にあった寺で、平城京・奈良遷都とともに現在地に移され、名前も興福寺となった。
歩いていると、薄暮のなかにクレーンを備えた工事中の高い建築物が浮かんで見える。現在、修理中の興福寺の五重塔である。
五重塔の創建は730(天平2)年で、現存の塔は、1426(応永33)年の再建で6代目である。高さは50.1mで、京都の東寺五重塔に次いで現存する日本の木造塔としては2番目に高い。
興福寺の中央にでんと構えているのは中金堂だ。時間が遅かったので、堂はもう閉まっている。
中金堂を横目で見ながら進んでいくと、暗さのなかで明かりの灯った堂が見えた。小さいがきれいな形の南円堂である。
南円堂をあとに境内を下りていくと大きな通りに出た。三条通りだった。
*奈良の街の古き商店街
三条通りを西の方に歩いていくと左手に、入口を派手に形作ったアーケードの商店街があった。親しみのある古い商店街である。
商店街の名前は「もちいどのセンター街」とある。どういう意味かと考えていたら、漢字で書くと「餅飯殿センター街」である。これでも意味が分からない。
案内板にはこう書いてある。
「奈良で最も古い商店街のひとつ「餅飯殿センター街」。「餅飯殿」の地名の由来は諸説ありますが、こんな伝説が残されています。
今から千百年余り前、東大寺の高僧、理源大師が、大峰山の行者を困らせる大蛇退治に出かけることになりました。そのお供に名乗り出たのがこの町の箱屋勘兵衛と若者七人衆。たくさんの餅をつき、干飯を作り、大峰山に向かいます。そして、大蛇の被害を受けた人々たちに「餅」や「飯」を配り、無事に大蛇を退治します。
その後、理源大師は、この町の若者に「餅飯の殿」の称号を与えその労をねぎらいました。以来、この町を「餅飯殿」と呼ぶようになったということです。」
懐かしさを感じさせる「もちいどのセンター街」を先端まで歩いて再び三条通りに戻った。そして再び通りを進むと、すぐの右手に商店街が出てきた。通りに並ぶ建物の感じから、こちらの方が「もちいどのセンター街」よりも近代的に見える。
「東向商店街」とあり、この商店街を進むと、近鉄奈良駅に出る。
東向きとあるが、通りは南北に向いている。どうしてだろうと考えたがわからない。
理由は、この通りの東には興福寺の伽藍である寺院が立ち並んでいたので、人家は西側にあり、みんな東側を向いていた。それでその名がついたそうである。
この商店街も、名前の由来からして古い通りである。
この三条通を西へまっすぐ突き進むと、予約したホテルに近いJR奈良駅である。
腹が減っていたので、この三条通りを歩きながらどこか食事するところを見つけようと、東向商店街には入らず歩き始めた。
それが失敗だった。三条通りに店はいくつかあったのだが、気をそそられる店が見つからずJR奈良駅まで来てしまった。歩き疲れたので、駅前の中華のチェーン店で、とりあえず腹を満たすという結果になった。
明日は奈良を出て、和歌山の海岸線を走る紀勢本線に乗り、串本の潮岬を目指すことにしよう。
奈良の大仏、東大寺をあとにして、その南にある興福寺に向かった。
近鉄奈良駅に向かう登大路(のぼりおおじ)は、いろいろな店が立ち並ぶ。そこを歩き始めたら、通りに面して赤い鳥居に出くわした。
「氷室神社」とある。珍しい名前の神社である。(写真)
この近辺は、東大寺、興福寺、春日神社など有名な寺や神社が集まっている観光コースであるが、氷室神社はガイドブックでも見かけない神社である。
「氷室」(ひむろ)とは、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管した施設のこと。昔は夏場の氷は貴重であり、献上品として重宝された。
「氷室」とあるのを見て、すぐに胸に響くものがあった。
小林旭である。
日活、小林旭ファンはピンとくるであろう。
1950年代後半から1960年代前半にかけて、日活で石原裕次郎と双璧の人気を誇っていた小林旭は、単発映画の裕次郎と違って、シリーズ物が多かった。当時は今では考えられないが、毎月のように旭主演の新作映画が公開された。共演者も浅丘ルリ子、笹森礼子はじめほぼ同じ顔ぶれが並び、内容も似たような無国籍的アクション映画であった。
では、シリーズのどこが違うかといえば、主人公の名前である。
「渡り鳥」シリーズは滝伸次、「流れ者」シリーズは野村浩次。「銀座旋風児」シリーズは二階堂卓也。そして、それらのあと作られた「賭博師」シリーズで、凄腕の賭博師なのが「氷室浩次」である。
氷室神社に遭遇し、「さすらいの賭博師」氷室浩次が頭のなかを巡った。
シリーズの最後の作品は1966年公開の「黒い賭博師 悪魔の左手」(監督:中平康)で、それを最後に氷室浩次は銀幕から姿を消した。それから半世紀以上が過ぎた。
うむ、奈良のここで祀られていたのか、と思うと感慨深い。
(そんな訳ない)。
何はともあれ、これも何かの縁と氷室神社の鳥居をくぐった。鳥居の先には、両側に石灯籠が立ち並ぶ。
黄昏時ということもあってか、観光客はいなく境内は静かだ。今までいた東大寺の混雑ぶりに比べれば、落ちついて見てまわれそうだ。
途中、門のところの隅に四角い台があり、その上に四角い氷の塊が置いてあった。
清めの氷なのだろうか、氷室神社らしいなと思った。しかし、氷の前に説明書きがあり、見ると「氷みくじ」とある。
その氷は、おみくじ用のだった。おみくじを買い、それを氷に張りつけると文字(ご託宣)が浮かび上がるらしい。授与料200円とある。
なるほど、氷室神社らしい。
さらに門のなかに入ると、中央に拝殿があり、奥に本殿がある。
そこに先客がいた。なんと、1匹の鹿がじっと立っていた。東大寺前の通りにわがもの顔でうろついていた鹿が、こんなところまで入り込んでいた。寺の人も追い出すようなことはしないのだろう。
拝殿の前に、賽銭箱が置いてある。
ここにも何やら説明書がある。読んでみると、賽銭箱上に設置されているコイン穴に100円を入れると、舞楽曲「賀殿」が流れるとある。
つまり、ジュークボックスのような仕掛けである。氷室神社は、商売っ気がある。
面白いので100円玉を入れてみると、雅楽が流れてきた。雅(みやび)な曲が境内に響き渡る。雅楽を聴きながら参拝するのも、これいかに!
遠く曲に曳(ひ)かれてというのではないだろうが、観光客が数人、門をくぐってやってきた。雅楽効果というものもあるものだ。
「氷室神社」(奈良市春日野町)は、奈良時代に春日山に造られた氷室を祀ったのが始まりとある。平安時代に、現在の地に移された。
また、江戸時代、雅楽の伝承組織が制度化された。それにより、宮中方(宮廷・京都)、南都方(興福寺・奈良)、天王寺方(四天王寺・大阪)のそれぞれの楽所(がくそ)を三方楽所とし、楽人(雅楽家)は朝廷や幕府の行事に参勤した。
氷室神社は南都方の楽人の拠点として、拝殿で舞楽を上演したとある。
あの賽銭で流れてきた雅楽は、この伝統の舞楽に拠るものだったのだ。
奈良の観光地の真ん中にあるのに、たぶん多くの人が知らない(知られていない)氷室神社を発見したのは僥倖だった。氷と雅楽にまつわる、知る人ぞ知る神社なのだろう。
氷室なる神社は、ここ奈良市のほか京都市、天理市などに数社あるようだ。
*黄昏の興福寺
すでに日は暮れ、夜のとばりが下り始めた。氷室神社を出て、近くの興福寺に向かった。
「興福寺」は、五重塔や三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が教科書に載っているような、有名な寺である。
もとは藤原京(飛鳥時代)にあった寺で、平城京・奈良遷都とともに現在地に移され、名前も興福寺となった。
歩いていると、薄暮のなかにクレーンを備えた工事中の高い建築物が浮かんで見える。現在、修理中の興福寺の五重塔である。
五重塔の創建は730(天平2)年で、現存の塔は、1426(応永33)年の再建で6代目である。高さは50.1mで、京都の東寺五重塔に次いで現存する日本の木造塔としては2番目に高い。
興福寺の中央にでんと構えているのは中金堂だ。時間が遅かったので、堂はもう閉まっている。
中金堂を横目で見ながら進んでいくと、暗さのなかで明かりの灯った堂が見えた。小さいがきれいな形の南円堂である。
南円堂をあとに境内を下りていくと大きな通りに出た。三条通りだった。
*奈良の街の古き商店街
三条通りを西の方に歩いていくと左手に、入口を派手に形作ったアーケードの商店街があった。親しみのある古い商店街である。
商店街の名前は「もちいどのセンター街」とある。どういう意味かと考えていたら、漢字で書くと「餅飯殿センター街」である。これでも意味が分からない。
案内板にはこう書いてある。
「奈良で最も古い商店街のひとつ「餅飯殿センター街」。「餅飯殿」の地名の由来は諸説ありますが、こんな伝説が残されています。
今から千百年余り前、東大寺の高僧、理源大師が、大峰山の行者を困らせる大蛇退治に出かけることになりました。そのお供に名乗り出たのがこの町の箱屋勘兵衛と若者七人衆。たくさんの餅をつき、干飯を作り、大峰山に向かいます。そして、大蛇の被害を受けた人々たちに「餅」や「飯」を配り、無事に大蛇を退治します。
その後、理源大師は、この町の若者に「餅飯の殿」の称号を与えその労をねぎらいました。以来、この町を「餅飯殿」と呼ぶようになったということです。」
懐かしさを感じさせる「もちいどのセンター街」を先端まで歩いて再び三条通りに戻った。そして再び通りを進むと、すぐの右手に商店街が出てきた。通りに並ぶ建物の感じから、こちらの方が「もちいどのセンター街」よりも近代的に見える。
「東向商店街」とあり、この商店街を進むと、近鉄奈良駅に出る。
東向きとあるが、通りは南北に向いている。どうしてだろうと考えたがわからない。
理由は、この通りの東には興福寺の伽藍である寺院が立ち並んでいたので、人家は西側にあり、みんな東側を向いていた。それでその名がついたそうである。
この商店街も、名前の由来からして古い通りである。
この三条通を西へまっすぐ突き進むと、予約したホテルに近いJR奈良駅である。
腹が減っていたので、この三条通りを歩きながらどこか食事するところを見つけようと、東向商店街には入らず歩き始めた。
それが失敗だった。三条通りに店はいくつかあったのだが、気をそそられる店が見つからずJR奈良駅まで来てしまった。歩き疲れたので、駅前の中華のチェーン店で、とりあえず腹を満たすという結果になった。
明日は奈良を出て、和歌山の海岸線を走る紀勢本線に乗り、串本の潮岬を目指すことにしよう。