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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

富山の旅① 越中八尾の「おわら風の盆」

2016-09-09 00:35:15 | ゆきずりの*旅
 盆といえば旧暦7月15日にあたる中元節の日だったのが、今は殆ど.新暦8月15日に祝われる。
 その盆から大分遅れて、秋の声も聞かんとする9月1日から3日にかけて富山市八尾(やつお)で「おわら風の盆」なる踊りの祭りが行われた。
 この「おわら風の盆」とは、真中から折った長い編み笠を目深に被った男女が、3日3晩富山市八尾の街中を優雅に踊り歩く祭りである。何度か小説の舞台にもなり、隠れた人気になっていた。

 仙台の大学で民俗舞踊を研究していた友人の誘いもあって、富山に行ってみた。
 北陸新幹線ができて、金沢、富山は相当近くなった。最も速い特急「かがやき」だと2時間10~15分で富山に着くが、往きは、もう少し停まる駅の多い「はくたか」に乗る。
 9月1日、東京駅で東京弁当なる駅弁を買って特急「はくたか」に乗車。
 旧東京駅を描いた包装紙のこの弁当は、今半の牛肉タケノコや魚久のキングサーモン粕漬けなど、東京の老舗の味を集めた幕の内である。最近は駅弁を食べるのが、長距離列車に乗る楽しみとなった。
 10時32分に東京駅を出発した列車は、上野、大宮を通って高崎に着く。高崎から軽井沢を過ぎ上田へ。ここからは各駅停車となる。若いときに付きあったことのある上田出身の女の娘は、今頃どうしているだろうと考える間もなく長野に着く。
 田園と山あいを見ながら進む列車は、糸魚川あたりで海が見える。日本海だ。
 次の黒部宇奈月温泉駅では、トロッコ列車に乗ったのを思い出した。そのときは、乗る直前に急に天候が悪化し雨が降り出した。窓ガラスのない骨組みだけのガタゴト列車だったので、情緒を味わう余裕もなく冷たい雨に打たれ震えながら進んだ。
 そのときは夜に富山市内に着き、市内のホテルに泊まったのだが、次の日は朝すぐにバスで立山黒部の観光へ行ったので、富山市の知識はまったくない。
 新幹線の黒部宇奈月温泉駅の次は富山で、13時17分に着。「はくたか」の東京からの所要時間は2時間45分である。

 *

 富山駅前は、すでにいくつかの出店があり幟もたって、この日から始まる「風の盆」のお祭りモードである。
 ホテルに荷物を預け、高山本線猪谷方面行きの富山駅14時5分発の電車に乗る。祭りの期間中は、富山から越中八尾間は多くの臨時電車が組んである。深夜0時台も3本あり、最終は0時59分と東京都心並みの遅い時間である。
 越中八尾駅には14時37分着だから、富山駅から約30分で着く。

 越中八尾駅前は、ごく普通の地方の駅前だ。普段は閑散としているだろうと思える駅前も、この日は出店がいくつか出ている。駅から少し歩いた先の井田川とその支流の間が八尾の中心街のようだ。
 ガイドブックの地図にそって、街中の方に向かって歩いていると橋があり、橋を渡った先に踊りに繰り出さんとするグループに出くわした。子どもも交じっていて、母親が傍らで見守っている。街の端になる天満町だという。
 さらになだらかな坂を街の中心の方に歩いていくと、別の踊っているグループにぶつかった。11の町ごとに街中を踊り歩く「町流し」で、ここは下新町だという。
 甲高い歌とともに、三味線と胡弓の音に合わせて、女性と男性がそろいの浴衣と法被を着て踊りながら歩を進める。深く被った傘で踊り子の表情はわかりづらいが、そこがかえって艶っぽい。聞くところによると、踊り子は25歳以下でなければいけないという。だから、身体の動きがしなやかなのかなどと想像してしまう。
 地図を見ながら、街をさかのぼって歩いていくと、いくつかの町の「町流し」に出くわした。(写真)

 街中で、地元の町の人の踊りの出し物に出くわすという趣向は、長崎のさるく(歩く)「くんち」に似ている。長崎のくんちは、町ごとに出し物が異なっていて、盆踊りのような和風の踊りの町もあれば有名な蛇踊りや南蛮船を引き回す町もあるなど変化に富んでいるが、ここ八尾はどこの町も風の盆の踊り一色である。
 街の奥に位置する諏訪町を連なる一本の道は、道の両側に並んだ灯籠の明かりもあって美しい。

 午後7時から9時まで、小学校のグランドに設えた演舞場で、5つの町の踊りの出演が行われた。
 そのあと上新町では、一般の人も加わって躍る「輪踊り」が深夜まで行われる。
 友人が懇意にしているその上新町の呉服屋さんの坪庭で特別に行われた、男女2名ずつの風の盆の踊りを見せてもらった。街中ではなく家の中での踊りは、何となく密やかだ。
 この日、ホテルに帰ったのは深夜零時過ぎだった。

 *

 翌9月2日、午前中は富山市内の民族民芸村を見て、昼食の後、再び越中八尾へ。
 昨日のように、夕方、街中を歩きながら「町流し」を楽しむ。
 午後7時から9時半まで、やはり小学校のグランドの演舞場で、昨日出演した5つを除いた6つの町の踊りを見ることに。
 全11町の踊りを見た訳だが、浴衣の色や柄の違いはともかく、基本に則った各町の踊りに大きな違いがあるわけではないので、素人には同じ踊りに見えた。
 2日目は、時計の針を巻き戻したような、昨日初日のデジャブの行動となった。
 やはり、この日もホトルに戻ったのは深夜1時近くだった。
 風呂に入り、疲れていたので泥のように眠った。

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待望の、鳥栖駅の焼麦弁当

2013-02-03 03:12:04 | ゆきずりの*旅
 ふと机に向かって一息つくたびに、時間がたつのは速いと思う。
 年末から正月、1月下旬まで佐賀にいた。佐賀から東京へ戻ってきたのだが、何もしないうちに1週間が過ぎてしまった。こうやって人生が過ぎていくのか。

 佐賀から東京へ行くときは、在来線で博多まで出て、そこから新幹線に乗る。
 上り佐世保線の在来線鳥栖行きに乗ると、鳥栖駅の1駅手前(佐賀駅寄り)に、新しく新鳥栖駅ができていて、ここにも停まる。この駅は、九州新幹線が開通したときにできた駅で、新幹線駅とつながっている。
 新鳥栖駅に着いたとき、ふと博多からでなくとも、ここから九州新幹線に乗って大坂方面に向かえばいいかもしれないと思いついた。しかし、どのような接続となっているか調べていなかったので、とりあえず新鳥栖駅では降りず、博多で新幹線の時刻表をもらい調べてみようと思った。
 新幹線の列車内容、ダイヤが大きく変わっていたということは、去年の暮れ、東京から佐賀に帰るときに知った。今まで何気なく乗っていた博多直通の「のぞみ」から、「ひかり」と「さくら」に乗り換えて、初めてその変容を知ったのだった。
 いつしか「ひかり」には、すでに東京、博多間の直通運転はなくなっていた。「こだま」に関しては、さらに短距離間での各駅停車であった。 
 このことは、12月28日のブログ「新幹線の変容と太平洋側に現れた富士山」で書いた。

 鳥栖駅で博多行きに乗り換えるために降りた。
 鳥栖駅は、鹿児島本線と長崎・佐世保線の接点で、交通の要衝として古い歴史を持っている。
 ここで、駅弁を買った。鳥栖の駅弁を食べてみたかったのだ。
 鳥栖駅のホームにあるキオスクである販売店、中央軒は、新聞や雑誌の販売の傍ら、うどんをその場であげて売ってもいる。何種類かあるが、なかでも「かしわうどん」が美味くて人気だ。
 鳥栖の駅弁といえば「かしわ鶏めし」だが、幕の内弁当のように具がバラエティに富んだ弁当が好きな僕は、「焼麦(しゃおまい)弁当」を買った。これは、かしわ鶏めしをベースに、シュウマイを含めて、鶏肉、焼鮭、野菜の煮物など、具が豊富なので、前からこれを食べようと思っていたのだ。(写真)

 博多から鹿児島中央発、新大阪行きの「さくら」に乗った。
 車内で、駅弁の「焼麦弁当」を食べながら、新鳥栖駅の発着関係を調べておこうと、新幹線の時刻表を見た。
 わかったことは、新鳥栖駅に停まるのは、大半が鹿児島中央か熊本発の各駅停車の「つばめ」で、博多止まりであった。いや、新大阪行きの「さくら」も停まるのがあるのだが、本数は少ない。
 これでは、新幹線を利用するには博多から乗った方がいいということになってしまう。ましてや、新鳥栖駅は在来線の長崎・佐世保線の特急は停まらないのだから、長崎・佐世保方面から来た人は新鳥栖駅はスルーして、博多まで行ってしまうだろう。
 新大阪行きの「さくら」の停車本数を増やさないことには、新鳥栖駅の存在価値は薄いだろう。
 それにしてもだ。やはり、新幹線の駅は在来線の鳥栖駅と隣接すべきだった。サッカーJ1サガン鳥栖のメインスタジアムだって、鳥栖駅のすぐ近くだ。
 新幹線の久留米駅は在来線の駅と隣接しているのだが、新大牟田駅は大牟田の中心から離れたところの吉野にある。新大牟田駅もなぜそこに開設したか疑問である。

 鳥栖駅の「焼麦弁当」は、かしわ鶏めしとシュウマイ弁当と幕の内弁当の三つを食べたようで、得した思いであった。
 博多から特急「さくら」で新大阪へ行き、「ひかり」に乗り換えて、東京へ着いた。
 新鳥栖駅で思うのだが、九州は在来線の特急はどこも充実しているので、九州新幹線の魅力は乏しいように感じるのだが。
 九州を旅するなら、在来線の特徴ある特急および、時間に余裕があり景色と空気を楽しむなら、各駅列車との組み合わせがいい。

 「さくら」は、かつて長崎(のちに長崎・佐世保)と東京を結ぶ特急寝台夜行列車だった。
 しかし、いつの間にか九州から「急行」列車が消えてしまった。
 佐賀から東京へ向かう列車としては、かつては、長崎および佐世保から東京へ行く急行の寝台夜行列車「雲仙」「西海」が走っていた。この二つの列車は、肥前山口駅で併結して東京へ向かった。
 1日以上かかっていた記憶がある。
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新幹線の変容と、太平洋側に現れた富士山

2012-12-28 03:29:52 | ゆきずりの*旅
 12月26日、佐賀に帰るために東京を出発した。
 今回は寄り道をせずにまっすぐ博多に行くのだけれど、新幹線の特急「のぞみ」ではなく、東京発13時03分発岡山行きの「ひかり」に乗った。

 東海道・山陽新幹線の時刻表をよくよく見ると、新幹線が登場した頃脚光を浴びた「こだま」や「ひかり」はいつの間にかめっきり本数が減っていて、すっかり影が薄くなっていた。ダイヤの主流は「のぞみ」で、「こだま」や「ひかり」はプロ野球でいえば、かつては4番を打ったスター・プレーヤーが今では下位打線に置かれている、ピークを過ぎた引退間際の選手の感である。
 なかでも「こだま」の退潮は著しい。
 東京発の「こだま」は大阪以西まで行く列車はなく、それも大阪止まりと名古屋止まりが半々というのだから、もう長距離は無理と烙印を押されたかのようだ。
 しかし、早朝の時間帯を見ると「こだま」が主役である。といっても、新山口発博多行き(4区間)、広島発博多行き(7区間)、岡山発広島行き(6区間)などであり、新下関発博多行きというたった2区間のもある。これでも栄光の新幹線である。
 かつてホームランを打っていたバッターが、チームのためにランナーを進めるゴロの右打ちやバントをやっているようだ。
 あの「ひかり」にしても、いつの間にか博多まで行くのはなくなっている。新大阪止まりと岡山止まりが半々である。そのうち「こだま」のように、大阪までしか行かなくなるのではないかと、余計な心配をしてしまう。

 つまり、いつしか東京~博多間はすべて「のぞみ」に占められていて、「こだま」や「ひかり」は、脇役になっていたのだ。
 九州行きの寝台夜行列車もすべてなくなってしまったし。
 東京から新大阪間で新幹線が開通した後、岡山へ、さらに博多へと延びていって、「ひかりは西へ」と言っていた日の出の勢いの時代があった。今、「ひかり」は、Uターン現象を起こしているし、「こだま」は縮小、ローカル線化しているのだった。
 それに、大阪以西では、新加入の「さくら」が台頭している。「さくら」は、かつて九州と東京間を走る寝台特急だった。
 現在の「さくら」は、鹿児島中央行きの九州新幹線に繋ぐ新大阪発以外に、博多発がある。
 九州新幹線を見れば、博多から熊本間は「つばめ」が走っている。同じ博多、熊本間は少し駅を飛ばす「さくら」もあり、「つばめ」と「さくら」の関係は、「こだま」と「ひかり」の関係に似ている。

 ここで分かったことは、東海道・山陽新幹線でいえば、格差が出来あがっているということである。デノミの論理で再呼称すれば、「こだま」は、各駅停車の普通、「ひかり」が急行、「のぞみ」が特急ということになる。「さくら」は急行、「つばめ」は普通扱いか。

 *

 この日、東京発岡山行き「ひかり」で、進行方向左の座席に座った。つまり、太平洋の海側である。
 右側が2人席で、左側が3人席なので、空いている場合は普通、まず右側の2人席の窓際に座る。右側の内陸部側には、静岡県に入ったあたりから晴れた日は雄大な富士山が見える。
 あるとき、新幹線で、富士山が東京から大阪に向かう左側の座席からも見える場所があると聞いた。太平洋側である。
 最初そのことを聞いたときは都市伝説のように思っていたが、本当のことらしい。それ以来、新幹線に乗ると、注意して右側を見るようにしていた。
 見えるのは、富士山の手前から列車が急角度で北のほうに向かったときに、富士山が右から左に変わるのだと推測した。地図を見て、それは沼津から富士市に向かったところのあたりだと推測した。
 要するに、富士山が真横か後ろに遠ざかったら、左側に見える可能性はないと思った。そう思い、富士山が見える手前の熱海あたりから待ち伏せして、そのあたりに差しかかると、いつ富士山が姿を現わすかと注意深く窓の外の先の方を見ていたのだが、いつも見えなかった。

 今年の10月に博多から東京行きの新幹線の車内で、その日は曇っていて山側からも富士山は見えなかったが、通りがかりの車掌に何気なく「右側の車窓からも富士山が見えるそうですね」と訊いてみた。すると、車掌は「ええ、掛川を過ぎて安倍川あたりの、静岡の少し手前で見えますよ。あのあたりカーブになっていますから」と答えた。
 僕は、そもそも見える場所を間違って推測していたのだ。

 この日12月26日、雲はあるが空は晴れていた。富士山は見えるかもしれない。
 特急「ひかり」の左側の窓から、熱海あたりからずっと左の景色を、つまり太平洋側を見ていたが、やはり富士山は見えなかった。
 静岡に列車が近づいた頃を見計らって、車両と車両の間にあるガラスの大窓の扉のところに行って待っていた。そこに、車内販売の売り子さんがいたので、もしやこの人も知っているだろうかと思い、「富士山は右側からも見えるところがあるそうですね」と訊いてみた。すると「ええ、静岡を過ぎたらすぐのところですよ。今日は、晴れていたので朝見えましたよ」と、やはり知っていた。
 「静岡を過ぎて高架橋のようなところを過ぎるところまでですから。1分ぐらいですから、あっという間に見えなくなりますよ」と、さらに親切に教えてくれた。
 僕はカメラを持って、窓の外の列車の進行方向の先の方を指差し、「あっちの方にチラッと見えるんですね」と訊いたら、ベテランらしい販売員さんは、「いえ、あっちの方に見えますよ」と、窓の真横を指差した。えっと、意外だった。僕は前方にチラッと見えるので見逃す場合があると思っていたのだが、真横に見えるのだったら、晴れて見える日であれば、見逃すはずがない。
 「そうですか。そして、前の方に消えていくのですね」と僕が言うと、彼女は「いいえ、後ろの方に消えていきますから」と、さらに意外なことを言った。僕は前の方に出て、前の方に消えていくと思っていたのだ。
 僕はすっかり先入観にとらわれていたのだ。
 富士山は後ろから現れ後ろに消えていくのだ。そうだ、静岡では富士山はすでに通り過ぎている。列車は、北の方でなく南の方にカーブする、そのときに富士山は現れるのだ。

 僕は窓の外を、目を皿のようにして見つめていたはずだ。確かに、静岡を過ぎたときだった。とつぜん、富士山が横に現れた。
 僕は、「あっ、見えた」と声をあげた。思ったよりも大きく、もったいなげに物陰からチラとではなく、はっきりと姿を見せていた。
 売り子さんが「見えましたか」と気にかけてくれた。僕は、「ええ、はっきりと」と、おそらく嬉しそうな声で答えた。
 初めて、新幹線の太平洋側に現れた富士山を見たのだった。
 デジカメのシャッターを3回押したが、標準で撮ったのであまりにも小さく、判明するのは難しいだろう。(写真)
 走る列車の上に通っているのは東名高速道路だろう。左の青い屋根の先の白い2本の高圧線の間の、白い三角形の雲のような形が富士山なのだが。
 次の機会は、ズームで拡大して撮らないと。

 確かに、太平洋側に富士山は現れたのだった。

 新大阪で、15時22分発鹿児島中央行きの「さくら」に乗り換える。
 新しい「さくら」は初めての乗車だ。「昔の名前で出ています」とも言える「さくら」は、昔の寝台特急時代とは違って、鼻の長いアリクイのような流線型N700系の、すっかり時代の先端の容貌をしていた。
 博多18時06分着。

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九重、阿蘇へ

2011-04-19 18:00:16 | ゆきずりの*旅
 4月、福岡・秋月の桜は満開であった。
 空は青く晴れ渡り、歴史に消えた悲しみは、長い年月の風にまみれてしまったようであった。もう、秋月の乱も最後の仇討ちも、思い出す人もいないだろう。

 秋月を出たあと、大分自動車道に乗って東へ向かい、九重へ向かった。九州最高峰のくじゅう連山の北で、さらに東に行けば、湯布院、別府、大分へ到る。
 九重ICで一般道に下りた。ここは、大分県玖珠郡九重町で、「ここのえまち」と振り仮名はなっている。だが地図を見ると、その南は久住山、久住高原とあり、久住町(くじゅうまち)(現:竹田市)である。地図には、九重と久住が混在していて紛らわしい。
 だから、この一帯の山々はどちらにも配慮してか、ひらがな明記の「くじゅう連山」である。

 最近は、町村合併でひらがなの町名や固有名詞が多くなったが、どうも味気ない。
 歴史的地名なのに、どうして津軽市でなくて、つがる市(青森)なのか。このような例をあげれば枚挙にいとまがない。いわき市(福島)、つくば市、ひたちなか市、かすみがうら市(茨城)、さぬき市(香川)等々。
 東かがわ市(香川)や南さつま市(鹿児島)のように、漢字とかな交じりもある。
 県庁所在地でさいたま市(埼玉)とは、何と軽いことか。
 まあ、日本か外国か分からないカタカナの町名、南アルプス市(山梨)よりはましだが。
 今地図を見ていて、何かの間違いかと首をひねった。南アルプス市の横に、◎市のマークで「中央」とある。中央アルプスとか甲府盆地中央とかの駅の名前で、何か文字が欠けている誤植ではないかと探したが、そうではないようだ。浅学にして僕は知らなかったが、いつの間にか山梨県に中央市なるものが生まれていた。
 う~ん、大胆不敵な市名だ。
 甲府市の南に、南アルプス市と中央市が並んでいる。

 *

 九重ICより南に車を走らせると、九重夢吊橋に出くわす。標示板に、「日本一の大吊橋」と掲げてある。
 通常、橋は川や峡谷を渡る必要性に応えて架けられるものだが、この橋は向こうへ行く必然性のない橋である。いわゆる、生活のために造られた必要な橋ではなく、単に観光用のために、日本一というブランドを得るために架けられた橋である。
 だから、渡るための通行料(入場料ともいえる)がとられ、渡った人は向こう端に着いたらUターンして戻ってくるだけである。
 橋は、見た目は鉄筋の普通の近代的な橋と変わらず、インディー・ジョーンズの映画に出てくるようなアドベンチャー的吊橋とは程遠い。もちろん、橋の下の川にはワニがいるわけではない。
 橋に着いたときには、締め切り通行時間が過ぎて窓口が閉まっていたので、渡ることはせず、断わって橋の入口まで行って写真を撮ったにすぎないのだが、係員が橋を渡りはしないかと執拗に睨んでいた。

 橋からさらに南下すると、長者原に出る。
 ここから、三俣山、久住山、九州で最も高い中岳などの連山が望める。

 このあたりは、活火山の阿蘇の近くということもあって、小さな温泉場があちこちにある。この日は、少し山間を戻ったところの、「宝泉寺温泉」に泊まることにした。かつては芸者もいて少しは賑わったところらしいが、今は静かな温泉場だ。
 宿泊したホテルの大衆浴場に、「檀の湯」とある。檀一雄の檀である。わが愛する檀が、若いとき泊まった温泉らしい。その小説の一節が、入口に掲示されていた。
 このホテルの露天風呂に出てみると、日はまだ落ちていなくて、あたりは水彩画のような、のどかな黄昏の空気を漂わせていた。日が長くなった。
 湯に浸かって外の景色を眺めてみると、すぐのところに桜の木があった。白い花弁の山桜風だが、ここでも満開だ。

 *

 翌日、やまなみハイウェイを南下し、阿蘇へ向かった。
 阿蘇は小学校6年のときの修学旅行以来だ。
 阿蘇の煙が出ている活火山の火口を覗きたいのだ。あの小学生のときに味わった強烈な感覚の、硫黄の匂いと煙を出す地球の入口の穴を。
 このあたりは、風景が違う。山も緑の森林だけではなく、なだらかな小山のような牧草地帯が飛び込んでくる。草を食む牛を見ることもある。何となく日本離れしていて、スペインのラ・マンチャのようだ。
 やまなみハイウェイを過ぎたあたりで阿蘇神社にぶつかり、すぐ先が豊肥本線の宮地駅だ。
 宮地を東に向かうと阿蘇駅に出る。ここは、かつて坊中といっていたところで、阿蘇の中心地だったところである。
 坊中から東に杵島岳、西に米塚を見ながら南下すると、阿蘇の中岳の煙が見える。今日は、煙が多いようだ。(写真)
 阿蘇山上に着いた。山の先から煙が出ている。ここから、ロープウェイが走っていて、火口が見えるところまで行ける。胸が躍る。
 案内所のところに行ったら、なぜか入場停止になっている。説明によると、風向きが変わり(風が強く)、火山灰煙が危険なために、ただいまロープウェイの運行を中止したと言う。いつ運行を再開するか分からないらしい。
 残念だが、火口へ行くのはまたの機会にしよう。

 *

 阿蘇山麓から南阿蘇村をぐるりと周るようにして、高森町に向かった。
高森町の南は、すぐに高千穂町(宮崎県)である。
 高森町には、鉄道工事の途中、トンネルを掘っていて、そこに水が吹き出て、トンネル工事を、とどのつまりは鉄道工事を中断せざるを得なくなった、いわくのトンネルが残っているという。
 行くと、小川の先にトンネルの入口が顔を出していた。
 「高森湧水トンネル公園」という名だけあって、小川は清流で、トンネルの下にきれいな水がとうとうと流れていた。トンネル内も、来た人を楽しませる様々なライトアップの趣向を施している(入場料あり)。
 使われなくなったトンネルもアイディアしだいで名所になるという、いい手本である。

 高森から熊本のICに行くため、西に向かった。
 途中の俵山峠の展望所からは、阿蘇の外輪山が望める。
 俵山峠を越えて、益城熊本空港ICより、佐賀に向かった。
 九州の桜も、もう終わりだ。
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秋月へ

2011-04-17 01:44:16 | ゆきずりの*旅
 「秋月」というと、すぐに思い浮かべるのは「秋月の乱」であろう。
 300年近く続いた徳川幕府が倒れ、版籍奉還がなされ、明治の新政府が発足した。明治の維新は武士を中心とした無血革命であったが、同時に武士をなくすことでもあった。
 士農工商と身分は一応最も高いとされた武士だが、禄高はなくなり実質は無給となったのだった。商売による金儲けは卑しいと思われていたので、プライドの高い旧武士の多くは金儲けもままならなかった。ましてや、鍬や鎌を持って農業をするものもそういない。
 時代が変わったとはいえ、「武士は食わねど高楊枝」などといつまでも言っていられない時期が続いた。そんな旧武士である士族による不満が各地で鬱積していた。
 やがて明治7(1874)年、「佐賀の乱」を皮切りに、士族による新政府への反乱が九州・山口の各地で起こることになる。この乱で、新政府の中枢を担っていた江藤新平(前参議・初代司法卿)、島義勇(前侍従・秋田県権令)が死刑・梟首となった。
 明治9(1876)年、廃刀令が発布される。武士の魂とされた刀も取り上げられ、一般市民となんら変わらない立場になった旧武士たちは、新政府に向かって散発的に立ち上がった。
 その年、熊本・神風連の乱、福岡・秋月の乱、山口・萩の乱が起こり、翌明治10(1877)年の鹿児島・西南の役の西郷隆盛の死によって、やっと収まることになる。

 その秋月へ、地元の友人の車で行くことにした。
 佐賀から鳥栖を過ぎるとすぐに福岡県である。小郡の先が秋月だ。秋月はかつて甘木市にあったのだが、今は朝倉市と名を変えていた。
 秋月は、秋月の乱以後衰退し、城があるわけでもないので鄙びた村として忘れ去られていた。しかし、城跡周辺やその近くの杉の馬場あたりは古(いにしえ)の風情が残っていて、筑前の小京都として、この一帯は桜の名所にもなっている。(写真)

 そして、最近この秋月を思い出させたのが、今年(2011年)2月にドラマとして放映された「遺恨あり」(出演:藤原竜也、小澤征悦、松下奈緒)であろう。この話は、「日本最後の仇討ち」というものだ。
 物語は、日本が大きく揺れ動いていた幕末の期。藩主の命を受け秋月藩の行く末を模索していた馬廻り役臼井亘理は、秋月に帰郷した日に暗殺される。その当時幼かった嫡男の六郎が、長じて父の敵を討つという実話である。既に明治13年であった。
 江戸幕府の武士の時代であれば、父の仇討ちは美談であったが、文明開化の時代、もはや単なる殺人と見なされる。
 日本最後の敵討ちは、旧秋月藩士の手でおこなわれたのだ。

 秋月の4月は、桜が満開であった。
 秋月の乱も、遺恨ありも、その面影を見つけ出せなかったが、散る桜だけが儚さを伝えていた。

 しかし、何といっても僕がこの秋月で思いつくのは、「秋月へ」である。
 丸元淑生の小説「秋月へ」である。
 1978年の芥川賞候補作になったこの小説は、1980年に出版された。著者の前作「鳥はうたって残る」を読んでいた僕は、すぐにこの本を手にしたのだった。
 と言っても、「秋月へ」は秋月が物語の舞台ではない。秋月の乱に参加した曾祖父の子、おそらく著者の、戦前から戦中、戦後を生きた少年時代の回想の話である。舞台は秋月の近くの筑豊・田川だが、秋月は伏流としてあるのだった。
 詳しい内容を忘れた後も、このタイトルがいつまでも僕の心に残っていた。
 そして、秋月へ行く前日に、町の図書館で偶然この本が置いてあるのを見つけて、再び読んでみた。30年たっても瑞々しい文体は、色あせてはいない。
 その丸元淑生は、その後文学を捨てたのか、なぜか栄養学のほうへ行ってしまい、今はもういない。

 その日、秋月を後にし、九重、阿蘇へ向かった。
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