今回のブログ更新で、『草枕』の冒頭「(前回の続き)・・・とかくに人の世は住みにくい・・・どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ絵が出来る。」を読む、そうだったなあ、芸術の意味というか存在意義が書いてあった。あの頃、三島由紀夫『金閣寺』『仮面の告白』、武者小路実篤『馬鹿一』『真理先生』を読み、受験間近なのに絵を描き、真善美の世界に浸ろうとしていた。素直で純粋で馬鹿だったなあ(笑)。
この頃も今も変わらない人生観は、俗物で終わりたくないこと。〈【俗物】社会的に高い地位を得たい、金持ちになりたい、人からよく思われたい、といった欲求のみが念頭にあってややもすれば利己的な(虚栄心にかられた)言動に陥りやすい傾向にある人〉と辞書(新明解国語辞典)にあるが、老いるほど難題だと思えてくる。救われるのは「・・・といった欲求のみが」の「のみ」で、時々なら許される余地(笑)。身近な方の俗物主義を見て呆れたり失望したりも多くなり、それは我が身点検の機会。率直痛烈のママヨ評価を求めれば一線を越えないで済むこと多し、ありがたきかな。
俗物の反対は『いき(粋)』だと思う。生き方全体に及ぶセンスとしての「いき」の体現は難しい。才能と修練の果てにあって、すぐ横に俗物がある感じ。九鬼周造著『「いき」の構造』はとても興味深い哲学書(青空文庫で読めます)だが、何度読んでも難しく理解は乏しい。平凡な庶民がわかることは、俗物と粋の間を行ったり来たりしながら反省と希望で残りの人生を送るしかないという理解。だいたいは上手くゆかないが、その度に「今度こそ」カッコ良く後悔と反省をしてやろうと思い続けること。そうしているうちに、『真善美』と『知情意』の理解と使い方も前より確かになるかもしれない。
終戦記念日を記念して趣味パチンコを終戦いや停止。昨年9月にパチンコ店入出金カード作り約200日遊んだ。1回2時間以内、収支決算4万円勝ち、さすがに飽きた。主に雨の日に夢中になった非行(パチンコ)を本日テーマに 前述の哲学書で、『いき』の構造を、異性関係の媚態、武士道の理想主義による意気地、仏教の非現実を背景にする諦めの関係としているのが面白いなあ。周りに見せたい「俺は立派だ」「俺は偉い」とは違う「俺はこれが素敵だと思う」を細々でも続けられるのが一番の幸せ。