【前号から続く】今は戦後70年?、それとも戦前X年?判別の物差しは憲法だ。その実現度合いで+なら戦後、-なら戦前だ。立男のこういう考えは洟垂の時からごく普通のお大人に教わった。自分が大人になり、ごく当たり前に平成の子どもたちにも伝えてきた。物心ついてから半世紀経ち、ここらが生き方の座標軸だ。
+側でもないが-とも言い切れない、と長く思ってきたが最近は怪しい。不戦の敷居低くなり、参戦の準備が瞬く間に進められている。庶民を黙らせ、庶民どうし競争でバラバラにし、「お上に反対しても碌なことにはならない」空気を蔓延させている…昭和は戦争と戦後の時代だったが、平成は戦前と戦争の時代かもしれない、と言う気もする。退職後に、こんな思いをするとは…。
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「昭和の~」が時代批評を欠落させた世代論、危険な歴史観と思うのは、こういう視点を持たない脳天気さだからだ。昭和人には、平成を戦前X年に決してしない精神があるはずだ。昭和中期の立男だってそうなのだ。そんな意味で「昭和の 子供だ 君たちも」なら、◎なんだが…と初級老人は思うのであった。あの安倍君も昭和後期のはずだが…。
「現代思想 4月号」読む。一昨日の朝日きっかけ。「愛国心を持たない愛国者」安倍の孤立と屈辱、日本の行き着く先は北朝鮮、世界最低の教育レベルの日本の教師、「教育改革」という教育の政治利用…昭和同世代による暗さと光の見える対談!それにしても、この雑誌の活字の小ささといったら…思想界は老人に配慮してないぞ!おい。
書評につられて読んだ「昭和の 子供だ 君たちも」(坪内祐三著:新潮社)。題名と、著者名にも引っ張られた。だが、こういうのは誰が読むのか。ある人には価値があっても、立男にはどうでもよい話ばかりだった。大学進学できた青年に光あて、流行した本や雑誌を並べたてて著者の博識が披露されるだけの話。世代論というのはおこがましい。そう思うと、題名も相当まがまがしい。
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「世代見つめる繊細な目」(道新)、「時代の断層に傷ついた者たち」(朝日)の書評は?だ。ある種の特権的な意識を共通に持ちあわせ者どうしの、身内どうしの持ち上げみたいな感じだ。だいたい、六全協、「されどわれらが日々」、全共闘運動をほぼ全編で使うキーワードに、昭和を語るには無理がある。いや、偏った意図さへ感じる。そもそも昭和という時代の批評がここにない。「世代論を語りたい」という著者、昭和33年生まれの男がこんなのでは…と著者より6歳年上の立男は思うのだ。こういう批判精神を感じない後輩から、「君もだよ」みたいな共犯者的な強要は、そんなのお前にいわれなくても自分の生まれた元号ぐらい未だ忘れないやい、と思う立男であった【次回に続く】
「担任、出席すべき入学式は 我が子か勤務先か」(4/23朝日社会面)であの尾木直樹氏が正論。その通りだ昨日、全国学力調査。人間関係を分断し、競争と自己責任を当然と教え、教育の政治介入に道を開く「教育改革」。学力向上と打ったら「学力工場」と出た。
半年前になる。詩「草にすわる」を偶然目にしたのは。詩人の名前は聞いたことがあった。初め、これも詩なのかと思った。読後、「わたしの まちがいだった」という言葉を意識することになった。意味には関係なく、「わたしの」、一拍おいて「まちがいだった」という音からくる意識が、何だか落ち着くような、懐かしいような気分になるからだ。
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昨日から、「永遠の詩 八木重吉」(小学館)読む。詩「雨」にドキリとし、「草にすわる」の言葉を考えてみたりする。そうなんだ、幼子を残して29歳で亡くなったんだ、たった1年の教員生活、キリスト教徒だったんだ。キャッチコピーの「しぜんとこころに涙が流れてくる」、立男はそう思わなかった。幸せな感情の方がまさった。
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父のことをもう少し早く母にいっぱい聞いておけばよかった。この詩人の境遇が父に重なる。父は詩が好きだったはずだ。そろそろここらへんのこともちゃんと整理しておかなければ。