波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

腹ペコ日記(残り3回)

2017年02月25日 | 【保管】腹ペコ日記

自己肯定観2(第147回)

(前回から続く)貧困が社会問題化する今、「頼る」という社会性をどのように育てるのか、その在り様が問われている。その際重要なことは、「他者への信頼」と「自己肯定観」だろう。助けてくれる人がいるという「他者への信頼」、そして、「自分は助けてもらう価値のある人間である」という「自己肯定観」だ。その視点からすると、この映画の母親は、どちらも欠けている人物として描かれている。子どもへの愛情は間違いなくあった。でも、「自立」した大人にはなれていなかった。

 

大事だと感じるのは、「自己肯定観」は「完璧な自分を求める」こととは違う、ということだ。そうでないと、「自己肯定観」は「自立(と共生)」に結びつかない。「自己肯定観」というのは、できる自分もできない自分も認められるということであり、「優越感」とは異なるのだ。

 

 「自己肯定観」がちょっぴり低めで「優越感」丸出しの腹ペコだからこそ、まめたには「自立」した大人になってほしいと願っている。腹ペコの手の届く範囲なんて、社会のほんの一部かもしれないけれど、「自立した大人」を育てる社会の担い手になりたいと思っている。(結)



残り3回の「腹ペコ日記」。イラストが少しづつ変化していますが最後は…公式裏ブログ「波風食堂、準備中です」更新しました。

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新聞の短歌

2017年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

院で検査し結果を聞きに行く。その前日、新聞にあった短歌(2/20朝日歌壇)に目が留まる。こんなお経なら歓迎だ。2階に上がる居間の階段脇に、未だ読み終わってないのを積んでいる。線香1本分の時間、仏壇の前に坐り、あの人のことを思いながら本を選び毎日静かに読んでいこう。自分も漱石からだな。

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果にほっとした。今回は前と違い、「もしかしたら」の事態にはならないようだ。教え子に、すぐに病院に行けと言われなかったら行かなかった。何だか少し変、とママヨさんは感じていたらしいが、口にしなかった。その気持ちはとてもわかる。だが、ママヨさんに言われても理由をつけて行くのを伸ばしていただろう。

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見俊輔さんの「教育の再定義」(岩波文庫)を病院の待合室で読む。再読だがその分、いちいち納得し、これまでの仕事が「手をつけたばかり」なことに気づき、気持ちよく自分を恥じていた。老後の読書にはこんな楽しみ方もあるのだ。
 家に帰って結果を伝え、遅い朝食を食べ終わったらあの短歌を思い出した。そう遅くないはずの「もしも」の時が来たら、その日にやっていることを次の日もその次の日も淡々と続けていけるような人生を送りたいものだと思った。修行が終わり、奉公も済み、やれやれと思いながら、4月から新しい修行だが、そんな人生の準備なんだな。
 


ブログを書いていたら、ゴンチチの「楽しみな週末」を聞きたくなった。syuumatuと打ったら終末と出た。ドキッとした。

gontitiカバー T.T.Acoustic ライブ 『楽しみな週末』

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腹ペコ日記(残り4回)

2017年02月20日 | 【保管】腹ペコ日記

自己肯定観1(第146回)

 先日、憲法の授業で映画「誰も知らない」を見た。親になってみて、改めて気づくことがたくさんあった。特に目をひいたのは、引っ越しの際に、子どもたちがおもちゃを片づけている場面。「母親一人の給料で、こんなにたくさんおもちゃや絵本を与えていたのか」と衝撃を受けた。母の子どもたちに対する愛情が、こういう形で描かれていたのだ。
                    

 学生が感想で、「この母親の一番の問題は、子どもを育てる能力と覚悟がなかったことじゃなくて、育てられない自分をうけとめ、まわりに助けを求められなかったことじゃないか」と書いてくれた。そう読み取ってくれたことを嬉しく思った。                    

 この国の特性か時代状況の反映か、その立場になった瞬間から完璧を求められる傾向がどこかにある。自分に対しても完璧を求めがちだ。でも、そんなの無理だ。「できない自分」を認め、その「できない分」を頼れる他者を見つけることが「自立」にはきっと必要で、その意味で「自立と共生」はセットなのだと思う。つまり、「共生」という環境があるから、「自立」っぽく見える、という関係性だ。(続)

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「買い物」の効用

2017年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム
1に、自分と家族の栄養状態と食べたいものをわかるようになること。第2に、我が家の経済と食料品保存の状態を具体的に把握できるようになること。第3に、世界の経済や流通の実態を消費の最先端で理解できること。最近の意識的な『買い物』で実感、夢遊病者みたいな店内散歩だと永久にわからない効用。
 
日の公式裏ブログ「波風食堂、準備中です。」の『マーボ豆腐』も『ネギもち』も、書いてはいないが「親子丼」の三つ葉、「チャーシューサンドイッチ」の甜面醤、「担々麺」の練り胡麻も、前記3つに照らした推理と判断が必要なのだ。台所状況を知らなければ買い物には行けない。ママヨさんにレシートを出して気持ちよく清算してもらうことだって無理。
 
馳走の意は、心を尽くして客をもてなすと辞書に。そうなら、普段の食事も「ご馳走」でありたい。中味というより心、自分の心に何かしらありがたい気持ち、そっと自分で自分をもてなしたい。「ご馳走」は料理の気配りを表現している。そうなら、『買い物』はご馳走の前半部分、調理は中間部分、食べる楽しみが後半部分だ。買い物しない料理に、ご馳走はあり得ない。
 

 
画像は到来物のタラバガニ。包まれていた新聞を開き、夜の台所の床に置き急いで描く。昨年秋以来のイラスト  映画館で「この街の片隅で」見て来る。こういうのが動画になり、ついにこの国の端でも上映。原作と少し違うが生活感、人間性の表現、何より音声と色彩が素敵だ。ずうっと「自己教育力」という言葉を感じて見ていた。11月にこの映画のことを裏ブログで書いていた料理の前段の「買い物」に奥の深さを感じ、どこかに書いておきたかった。
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腹ペコ日記【残り5回】

2017年02月13日 | 【保管】腹ペコ日記

啓蒙【第145回】

スマホ育児を手酷く批判する記事を見ると胸が苦しくなる。腹ペコ家では、スマホ率はそこまで高くないが、それでもときどき撮った写真や動画を子どもに見せている。そして、子どもが生まれるまで飾り状態だったテレビを毎日つけるようになった。

 

見せる理由は簡単で、家事をする時間を捻出するためだ。包丁や火を使っているときに、構ってほしがって近づいてこられると危ない。何より家事が進まない。相方さんも必ずいるわけではない。ひとり遊びもそこまで続かない。そんなとき、大人しくしてもらえるものが我が家ではテレビだ。

 

子育てにスマホやテレビを使わないように、という啓蒙活動は、なんだか自分の育児を責められているようで、つらい。子どものために、できる範囲でがんばっているつもりなのだけどなぁ。その気持ちをどこに訴えても自己弁護みたいになってしまうことが、一層腹ペコの気持ちをややこしくしている。

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