波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

暮らしを飾る はな

2018年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

の桜の根本、スノーフレークと入れ替わりに咲く野草、けなげで清潔な白い花を年賀状に仕立てた。今年描いた絵はこれぐらいしか浮かばない。コマネズミのように動き回ってるママヨさんには申し訳ないが、賀状の印刷済んでしまうと残る仕事は手作りうどんぐらいしか浮かばず、全仕事終了の気分。

 
賀状に添えた文章は、忙しかった1年だったけれど、心静かに暮らせたのは色々な方々と語らうことができたから、というような主旨。今年は絵を描かなかったけれど、身の回りの空や草や石ころなどをいつになく観た気がする。野草の海に浮かんでいたアトリエ華のことを急に思い出した。ギャラリーの前も、アトリエの周りも。黒く分厚いカウンターにも小さなガラス瓶に飾ってあったな。
 
元の本でこんな文章見つける。「暮らしに飾る花は、野草が一番似合います。日々の生活では色々と忙しいことがあったり、予測できない出来事があったりして、心があたふたしますが、そんなとき、言葉なくして心を癒やしてくれるのは、静かにたたづむ花だったりします。」(「暮らしのヒント集:暮しの手帖社」)今年、何度もこんな気持ちになった。
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公式裏ブログ、6年半になります。

2018年12月28日 | ご連絡

 

ブログは表よりいいかげん(笑)。成り立ちが違う。表は真面目な顔で給料もらっていた時のスタートだから実直公務員の休日風。裏の方は再就職時にブログを教えた時の教材用、中途半端な老人生活日記風。この硬軟の軟の方も早6年半。今は完全退職の身だから、まとめられるのだが、「硬軟」書き分けスペースは得がたい。言葉を面白がって暮らせるうちは2つとも続けたい。

だけで12月は7回更新、4日に1回だ(驚)。表を書いたら裏も更新したい。理由は分からないが、その逆は無い。最近のを紹介、『虐待、そして臓器移植』(12月4日)、『キツネノ団らん』(12月10日)、『クィーンの残像』(12月15日)、『13桁のお歳暮』(12月21日)、そして今日の『基本の「ネギ豚」』(12月28日)。おすすめは…、特にない(笑)。

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立ち止まった写真

2018年12月27日 | 新聞感想

だと思ったら写真。昨日の朝日朝刊掲載。「お祭りの顔のメイクを撮った写真を多く見る中で、作者が素直に『可愛い』と感じたままが表現されている。夕暮れ時の光が被写体とフィットし、2人のキツネ顔が傘の中に入ることで姉妹の可愛い姿を強調できた」と審査員講評。(応募作品4286点、審査員特別賞3点の中の1枚)

なのだろう、この世のものとは思えない不気味な愛らしさ。目をこらし、少女たちの目元を確かめて「生きている子どもなんだ」とホッとして、可愛さが湧いてくる。
雨が上がった直後の夕方か、舞台の書き割りみたいな背景。浮かび上がるよう加工された少女たちの画像。何とも言えない存在感だ。記憶にこんなのがあった、と錯覚させるような写真だ。

まで、写真は好きでも嫌いでも無かった。どちらかというと嫌い。絵は描く努力が全てだから自己満足が許されても、一瞬のシャッタで自己満足されてはかなわない、という気持ち。カメラや加工印刷技術、偶然に頼る表現だと思っていた。変わってきたのは最近。身近な人たちの写真を見てからだ。


『失踪日記』(吾妻ひでお作:イースト・プレス)読む。2005年発行で、漫画好きなら知らないはずのない本書をやっと読めた。悲惨な状況を第三者の視点で笑う作者に絶句。コマ割りといい、絵柄といい、子ども時代の漫画の描き方なのだが、漫画に与えられる賞の総なめに、漫画は健全な表現手段だと納得バラ肉800グラムあるのでネギ豚で夕食。本には、ネギ6本、紹興酒、醤油、水だけとあるが…。  ※「『失踪日記』の担当編集者は知っている」(「ほぼ日刊イトイ新聞」から)

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祈るクリスマスイブ

2018年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム


ども時代の12月24日夜は、妹をおぶった母に手を引かれ教会に行く特別な日だった。訳あって仏具と聖具が混在してた家の祭壇、そこに飾られた父の写真を前に毎日祈らされた。悪いことも良いこともここで言葉にさせられた。
朝起きたら、白い小さな紙袋に新しい鉛筆2本と消しゴムが枕元に置いてあった子ども時代の12月25日朝。少し恥ずかしそうな母を見ながら、「絶対に忘れないようにしよう」と思った。10歳くらいだったと思う。新聞コラム『バナナの教え』もそんな時代の思い出。


風氏は信心が極めて薄いが、信ずる人に対しては敬意を持ち、宗教を理解する機会も無理せず持ち続けたい。善悪や正義感の土台が宗教という精神史だからだ。無宗教の人にはなりたくない。日々の暮らしで時々、静かに祈る時間を持ちたい。自分が自分であるために。

 

像は、玄関脇の光取り入れに飾った、ママヨさん作のクリスマス・パッチワーク。こういう一刺し一刺しも、祈りの時間だろう。志村ふくみさんの本に、昔から世界中の女性が布を織って服を作る時、時間のかかる模様を入れる理由を書いていた。それは『愛』、という言葉に立ち止まったが、『祈り』と置き換えても通じるだろう。


来年1月の読書交流会「第5回 ほんのおつきあい」を1月27日(日)に開催します。

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工藤直子詩『冬の祭り』

2018年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

一夜にして塗り変わった雪景色にわけもなく興奮した子ども時代の朝。ずうっと「冬が一番好き」だった。それが、鉛色の空や兎跳ぶ白波に目が行き、重苦しく悲しく感じ始めた30代半ば。メランコリックな気分は、地球の自転と公転のせい、太陽の光がだんだん弱くなる生物的な影響だと知った。いくら自然支配が進んでも、人はこういうことから逃れられないんだね。心の強さ弱さでなく、敏と鈍の違い。波風氏は暮らしに影響を及ぼさなかったが、周りでは少なくない人達が苦しんでいた。素敵な人たちが。

       

画像『冬の祭り』は、詩集『あ・い・た・く・て』(工藤直子・詩、佐野洋子・絵:大日本図書)から。すっかり葉の落ちた木々をこんなふうに感じられるなら、気分の落ち込みも救われる。ナナカマドの赤い実を見たくて、少し離れた坂道まで滑って転ばないように冬道散歩用の靴も買い、摺り足で散歩するけれど、「枝先に春夏秋があつまって出番をまって遊んでいる」とは思わなかったなあ。

                       

『あいたくて』をこのブログ(「工藤直子詩『あいたくて』)に書いて2年経った。ほぼ毎日、それが読まれている不思議。昨日も10人(驚)。忙しい暮らしの中でも、「そうだ、そうなんだよ」と立ち止まらせる何かがあるのだろう。
枯れているように見える枝先に「遊んでいる」を見る詩人から、ずうっと忘れていなかった健気な自分を発見させてもらい安堵するのかもしれない。やわらかな光の射す春まで待たなくとも、冬の枝先の「はればれとした笑い」を感じたい。


『海街diary』のことを書いたら昨日、DVD『海街diary』と『さいはてにて』を珈琲教室をしてくれた教え子が送ってくれた。ありがとう。何だかとても会いたくなった 『19年度版波風カレンダー』を作れないと告知したら「残念だ」と言われた。波風氏も残念だ

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