波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

【その17】 伸びる

2011年06月30日 | 【保管】一寸凡師コラム

 6月も最後の日を迎えた。今年も折り返し地点ということで、本当に早い。書類に日付を書く際17 に「あれ、今2011だっけ?」とか「平成23でいいよね?」といった「確認作業」が凡師の場合は必要になるのだが、気づけば大晦日を迎えているかもしれない。最近「覚えようと意識しなければ、覚えられない事」が増えてきた。というか、そもそも「覚えようとしなくなってきた」自分がいる。このまま時の流れに身を任せていていいのだろうか。徒歩通勤の時に考えた。徒歩通勤は凡師に様々な思考のチャンスをくれる。

 凡師が「時の流れ」を感じるポイントは3つ。キーワードは「伸びる」だ。
①いつのまにか伸びた爪を見たとき 
②いつのまにか髪が伸びて、かけているメガネがよくずれるようになったとき(凡師はメガネがずれるのを極端に嫌う) 
③妻が凡師の「散らかり放題の机」に見かね、凡師の居ぬ間に片付けを。仕事から帰ってきた時に妻から「気づいた?」と静かに言われたとき(妻のツノが伸びたとき)。

 最近また、机周りが乱れ始めてきた。忙しそうに振る舞う凡師を気遣う妻の目が、少しずつ刺さるようになってきた。メガネもよくずれる。爪は昨日切った。
 
 今月も今日で終わり。あと2ヶ月で凡師と息子の誕生日。息子の「伸びた」身長に負けぬよう、凡師も「父親力」を伸ばさなければ。

コメント (1)

青い花  №5

2011年06月29日 | 新聞掲載

   今年も青い花は咲いてくれるだろうか。                            Photo
 一昨年、朝顔の咲く季節を病室で過ごした。花はどうだと家に電話したら、しばらくして随分と不細工な花の画像がケータイに送られてきた。今年はこんなのばかりが咲いて、送信もちゅうちょしたと言う。私は息が詰まりそうになった。,胃を手術し気弱な自分に比べ、形はいびつだが、けなげにあるがままに輝く生命を画面に見たからだ。
 昨年、軒先に縦横一間ほど朝顔のつるをはわせてみた。8月に緑のカーテンができ、9月になって咲き始めた。多い日には、60も70も咲いた。生きる喜びを祝福する、青い打上げ花火のように。つぼみも愛らしかった。巧妙に格納された日傘を、まだ暑くない朝の光が音もなく開ける仕掛けは、何とかれんで不思議なことだろう。
 こう書くと私は花を愛する良い人みたいだ。だが違う。夏が過ぎようとしても花をつけない朝顔を、土から抜いて捨てようとした。手間暇かけてもつぽみを持たないのが不欄(ふびん)に思えたのは確かだ。だが本当の理由は、私の育て方のまずさを世問に知られるのが嫌だったからだ。
 まだ私はわかっていない。育てることは待つことだという真実を。咲かせるのではなく、咲いてもらうのだということを。だいたい、世問体だとか理屈だとかに合わせて咲く花なんかあるはずはないのに。                    【平成23年6月29日朝刊】

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………

私もママヨさんも青い朝顔、特に藍色のが好きだ。今回、子どもや教育をもちろん暗示している。掲載されたのを読み感じたのは、「青い」が未熟さの象徴ともとれることだ。今回で掲載5回目。

前に紹介した「不良定年」(嵐山光三郎著:ちくま文庫)は全240ページ中、73ページまでは良かった。が、旅や食べ物、俳句等の趣味、人間関係の下りは…。★★★☆☆だ。それにつけても、昔読んだ、池波正太郎著作の食べ歩き記はすごいものだと思った。

コメント

映画「武士の家計簿

2011年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

  江戸時代も人はこうやって生きていたのか…親子の絆と家族愛、覚悟Photo ある仕事、世間体や時流におもねずつつましく潔い生き方に見入る。城に詰めた何十人という武士が算盤を弾いて会計処理をすすめ る姿、息子に拾った銭をもとのところに戻させる哲学が強く印象に。刀を一度も抜かない時代劇。映画「武士の家計簿」をママヨさんと。監督の森田芳光、主役の堺雅人、磯田道史(朝日新聞に週一回、古人の忘れ難い一言連載)の原作に期待し、その通りの満足感で帰宅。
    イラストは、映画を見た後に喫茶店で一休みした時、テーブルにあったナプキンに。


  「日本人とは何か」(加藤周一著:講談社学術文庫)を寝しなに。日本の知識人の特徴を言う下りで、「お富さん」の例が2回あり笑う。難しいが論理明快だから読み続けられる。「天皇制という軍国主義的な宗教」というような刺激的かつ本質的な言葉に出会い、布団腹ばいの読書ながら、瞬間的に覚醒を迫られたりして。心の内側に「日本人とは…」があり、今日の映画もより面白く感じたのかもしれない。
     この頃、人として楽しむ時間が大事だと思う。あたり前だが、年々その大事さは深く、与えられる時間は逆に短くなる。これが年とることなのだろう。

コメント

【その16】 エプロン

2011年06月23日 | 【保管】一寸凡師コラム

     昨日、エプロンを着用する機会に恵まれた。昨年も1度だけ着用する機会があったが、その16_2 時には閉まらなかった後ろのヒモ(カチッとはまるようになっている)が、今年は「カチッ!」と誇らしげに鳴り響いた。う~む、こんなところにも運動の効果が…。

   エプロンといえば、小学校の家庭科で作った覚えがある。不器用だった凡師は授業だけでは終わらず、宿題に。見かねた母が「神の手」を少々。後日学校で、「一糸乱れぬ縫い目」と「完成度」に、周りから問い詰められた苦い思い出がある。凡師の親世代は、「ミシン」だとか「裁縫道具」というのは、生活の中でちょくちょく顔を出す存在だった。破けたトレパン(今はジャージと言う)は「ダダダッ!」とミシンで補修され、補修を繰り返すうちに、トレパンの膝はまるで「ブッチャーのおでこ」のようになっていた。「破けたら買う」という発想は皆無で「破けたら直す」が当たり前。「ものを大切にする」という思いがつまっていた気がする。

   さて、昨日はサンマを3枚におろし、蒲焼きに。骨は油で揚げて「骨せんべい」。塩をササッとふって食べた「骨せんべい」はお酒によく合いそうな味だった。
 魚をさばいて食べると、いつもより「ありがたみ」を感じた。自分で作ったからというよりは、「命を頂いている」感が強いからか。食べ物にしても、身の回りの物にしても「大切に」、そして「ありがたみ」を感ずることは、忘れてはならないことだと改めて感じた一日だった。

   一通りクッキングを終えて、エプロンを脱いだ時、ふと思い出した。昨年、エプロンを着たのは冬。トレーナー&ウインドブレーカーの上に着用した。昨日はYシャツ一枚。どうにもこうにも気になって、昨年と同じ格好の上にエプロンを。誇らしげな音は鳴り響かなかった。

コメント (2)

真面目に遊べ

2011年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

   このブログも、今日でちょうど半年。我ながら、よく続いたと思う。

Photo_5    「仕事と遊び」でなく、「仕事を遊びに」がモットーの立男、間違いなくPCは健全な遊び道具だ。これを、定年後の道楽に使わない手はない。そうでないなら、今まで仕事に名を借りて 遊んできた膨大な時間と、ママヨさんを騙して6台も買い換えてきた出費は何だったのか?ということになる。「来年はもっとこれで遊んでやる」と思う立男だ。「不良定年」まであと少し。

  本ブログは容量5000メガ、月300円の使用契約。半年使って20メガ(0.4%)だから計算上ではあと120年使える。「最新式ウインドゥズ98、大容量HDD10メガ」のPC初体験から15年、隔世の感。だが、「こんなことも出来るのか!」の感動は昔の方に軍配。このごろ、万年筆や鉛筆や筆に愛着を覚えるのも自然の成り行きか。

    PC生活は、ハード面を本ブログ常連コメンテーターのKTHさんに、ソフト面は職場の親切な隣人に面倒見て もらってきた。この点、「最近の若い者」は実に素晴らしい。同期・先輩はまずだめだ。立男は自分をあてにしたことなんかもちろん一度も無い。これからもだろう。

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

画像は、昨日作った壁掛け時計。4種類8個のうちの一つ。仕事で真面目に遊んでいると「作品」と言ってくれる(笑)

コメント