波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

【その218】 249枚

2015年06月30日 | 【保管】一寸凡師コラム
16_2  249枚
 隙間コラムを書いているパソコンソフト。「文字数」が自動でカウントされている事に気づいた。隙間コラムの1回目から今回までの文字数を見てみると、その数なんと99,464文字。原稿用紙にして約249枚。内容はおいといて、我ながら良く書いたもんだ。波風さんからあの時に声を掛けてもらっていなかったら、絶対にこれだけの文章を書くことは無かっただろう。波風さんに感謝したい。

 おっと、そうこうしている内に原稿用紙250枚目に突入。次回のコラムで、10万文字を突破しそう。記念すべき10万文字目は何という字だろう。凡師の「凡」または荒馬さんの「馬」あたりがくると、コラムのネタになるのだが…。


 
 左側の題字とカットは、4年前の6月の凡師ブログ(2011.6.23 【その16】エプロン)から。何だか懐かしい。今日のブログにある、原稿用紙(400字詰め)にして約249枚、すごいね本ブログの座付きコラムニストである凡師さんと腹ペコさんが、全世界の読者に毎週毎週クスっと笑わせたり、少し考えさせてくれる。「週に1回、但し無料」ときっぱり依頼した波風立男氏の先を見通した眼力と、さわやかな図々しさに驚く(笑)
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犬のこと【昔話3】

2015年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 クロは遠い親戚からもらってきた。小学校低学年の頃だ。初めて泊まった農家の豚や鶏に興奮し、生まれたばかりの犬を抱いて喜んでいたら、欲しいならあげるという話になった。一緒に生まれた中で一番賢いという真っ黒なのをくれた。犬にも賢いのとそうでないのがいるのを初めて知った。小さいのにこいつはすごいんだと思ったが、そんなことまで大人はわかってしまうのかという話を聞くと、近所の人から「賢そうな顔だ」と言われたことのある立男は急に不安になった。
                         
 そのクロが突然いなくなった。母を問い詰めると、家では飼えないから知り合いにあげたと言う。どうしてそんなことした、どこの家だと泣いて抗議した。辛そうな母の顔を見ているうちに自分も泣いた。お前たちを食べさせるのがやっとでクロまで飼えない、という言葉の前には泣くことしかできなかった。高度成長期の少し前、母一人の内職の稼ぎでは犬は飼えなかったのだ。飼うのも手放すのも、母には相当の決断だったろう。
 予想外のことが起きた。もらわれていったクロが、次の日から毎日家に通ってくるようになったのだ。家で内職している母が、「お前の家はもうここじゃない。お帰り」というと、いつも困ったような顔をして、しょんぼりしながら何回も振り返りながら帰っていったそうだ。神様が私に罰を与えたんだ、来たら来たで心配、来なければ来ないで心配だと言っていた。その口ぶりに嬉しさも感じ、おやっと思った。それに比べ立男には、自分の帰りを午前中から夕方近くまで待ち続けていたクロの記憶がどういうわけか残っていない。浮かぶ玄関前のクロの姿はいつのものなんだろう。
    飼い主の家の石炭小屋で老衰で亡くなった、クロの一生は幸せだったはずだと親戚の叔父さんから聞いたのは、だいぶ経ってからだ。
                         
 アカは祖父の家からもらった。立男は小学校高学年になっていた。丸々と太った茶色い犬で額に白い星のような模様があった。今度は誰にも渡さない、という約束を母と何度もしたから安心して学校へ行った。食べ過ぎて苦しんでいると言えば薬を飲ませ、跳ねるようについてくる散歩もした。かわいい盛りに、家の前の道路で、トラックに轢かれて死んだ。
   それから今日まで、犬を飼いたいと思ったことが無い。新聞配達で、いやと言うぐらい恐いめにあったせいもあるが、心の深いところで、自分には生き物を飼う資格が無いと思っている。思い出したが、クロもアカも名付け親は母だった。一番かわいがっていたのも母だったと思う。【第4話「石炭小屋の記憶」を予定】


昔話を書き始める。母の体調が悪く頻繁に見舞いに行くようになって、故郷の風景で古い記憶がよみがえる。書き残さないと忘れてしまう不安と、書くことで思い出せる記憶がある。

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「都忘れ」咲く

2015年06月25日 | 図工・調理

  今が盛りの「都忘れ」。波風家は青い花が好きで、家の周りのどこかに青が咲いている。クロッカスやムスカリの春から始まり、もうすぐ鉄線。昨日、青い朝顔を苗床からプランターに移植した。昨年は、引っ越し直後に冷たい雨にやられかわいそうなことをした。今日から雨のようで要注意だ。
 どうだろう、この色あいと姿形。見とれてしまう、何より愛らしさと気品がある。それでいて庶民的な感じもする。ちょっとした贅沢な小さな花火みたいだ。黄と青紫と緑の絶妙なバランスに自然の不思議を感じる。青い朝顔を植えるようになったのは、ごく最近のことで、この初夏の花の色を忘れないようにしたかったからかもしれない。

 庭に花を植え、花が咲いたら描く。いや、描かせてもらう。描かなければ落ち着かず、いつも描き終わってホッとする。この世にやっと生まれることのできた花。青い花には特にそんなことを感じる。水性ボールペン(黒)+色鉛筆+色チョーク+5B鉛筆、PCで調整。

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コウヘイのこと【昔話2】

2015年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 コウヘイを、公平と書くのか幸平とかくのかは知らない。わかっているのは、たぶん小学校3年生ぐらいで、汚くて、お母さんと妹の3人家族で、銭湯の近くのじめじめした小路の崩れかけた小屋に住んでいることだけだ。「たぶん-」というのは学校へ行ってないからで、こんなに汚かったら先生も困るだろうなあと、コウヘイより2つか3つぐらい年上のはずの立男は思った。一度、歳や学年を聞いたら、指を折りながら言葉を濁らしたので、何だかかわいそうになってそれきりだ。
 出会いは、立男がご飯を食べていた時だ。窓の外から、真っ黒な汚い顔でじいっとこっちを見ている奴がいる。何だか落ち着かなくて、見ないようにしていたら、母親が外に出て行き少しやりとりがあり、立男がおにぎりを渡す役になっていた。窓から渡そうとしてピシリと叱られた気がする。遠慮していらないなんて言ったけれどお腹がすいていたんだね、ありがとうって言える礼儀正しい子どもだよ、と母が言った。
                           
 その日からコウヘイは、毎日遊びに来た。朝からずうっと待っていたんだよと、家で内職している母が言った。おとなしい妹を連れてくることもあった。あんまり汚いから家の中には入れなかったが、暗くなるまで遊んだ。立男の友だちとも時々遊んだ。嘘か本当か知らないがお母さんは元小学校の先生、脳の病気で離婚して2人の子どもを連れて逃げてきた、コウヘイは学校に行ってないけど頭は良い、正直だ、なんていう話も耳に入ってきた。今で言うホームレス、当時の言葉で乞食が、橋の下に住んでいた、「どうかお恵みを」と家々を回る人もいた。昭和30年代中頃の話だ。宮本輝の「泥の川」も舞台は30年代で、キッちゃんとコウヘイが重なる。

   コウヘイの家族が家の前にタライを出して行水をしていた。コウヘイの妹のあんな元気な笑い声を初めて聞いた。コウヘイの母親の白くて細い背中が夏の夕陽に反射していた。立男は、母親と妹と一緒に銭湯に行く途中だった。理由はわからないが、この場にいては駄目なんだ、コウヘイに見られたら困ることになるんだと立男が真剣に思っているのに、母はじっとして動かない。立男が大人になりこの時のことを聞いたら、動けなかった、拝まなければいけない尊いものが目の前にあった、と教えてくれた。

                           
 しばらくぶりにコウヘイが来た。この近所では見たことの無い、ラクダ色の子供用の背広を着ていた。同色のハンチングもかぶってた。バリッとした靴も、靴下だって履いていた。妹も赤いドレスを着て笑っていた。明日、汽車に乗って大阪に行く、母さんが結婚するんだ、って言った。コウヘイと遊んだ時間は、1、2ヶ月だったはずだ。【昔話3に続く】


「昔話」を2つ書いた。この歳になっても時々思い出すことのある人や言葉を書き残しておきたいと思ったからだ。第3話は「犬のクロ」にしよう。

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【その217】 綱引き

2015年06月22日 | 【保管】腹ペコ日記
 綱引き
 
 今日、息子の運動会。PTAの役員をする荒馬さんと共に凡師もPTA種目(綱引き)に参加。以前綱引きで、肋骨にヒビが入った経験のある凡師は、ある意味『綱引きのプロ』。勝つための引き方は知らないが、折らないための引き方はマスターしている。「綱を脇にしっかり挟んで…」との周囲のアドバイスを尻目に、凡師オリジナルの「肋骨と心を折らない綱の引き方」を実践。おかげで今年も肋骨は無傷! 成績も一勝一敗とそこそこな結果で終えることができた。ぜひこの引き方をマスターしたいという方は凡師まで。
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