波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

【その40】 30にして立つ

2011年12月29日 | 【保管】一寸凡師コラム

 年の瀬が迫った今日、息子と約束した映画「仮面ライダー」を見に行った。映画館で見る映画は、目と耳はもちろんだが、あの「香り」というか「空気感」が何とも言えない。「肌」で楽しむとでもいうのだろうか。

    子どもの頃、田舎の小さな映画館に家族4人で「宇宙戦艦ヤマト」を見に行ったことがあった。劇場は超満員。4人で一緒に座れる席はもちろんなく、小生と兄は近くのイスに、両親は後ろで立ち見をしていた。(その映画館は全て自由席。後ろに出入り口、通路があった)小学校低学年だった小生にとって「宇宙戦艦ヤマト=ちょっとこわいアニメ」で、ただでさえ落ち着かない時間なのに、隣には見ず知らずの人。あの時のヤマトが、どんな内容だったかは覚えてPhoto いないが、「とても恐ろしい映画」として今でもトラウマになっている。あれほど「早く終わらないかな」と思った映画は今までなかった。そう、今日までは。
 
 さて、今日の仮面ライダー。1時間半を超える上映時間を考えると、もはや子どもの映画ではない。「仮面ライダー=子どもの映画=すぐ終わる」と甘く見ていた小Photo_2
生は、始まる前にトイレにも行かず、アイスティーをガブガブと飲みまくっていた。クライマックスに近づく「ラスト30分」。映画の盛り上がりと時を同じくして「小生のトイレタイム」もクライマックスに。劇中の仮面ライダー同様「決してあきらめない心」で立ち向かったが、だんだん映画の内容よりも「あと何分かな?」と何度も時計を気にする始末。結局、一時退出することに。
 
 心配だったのは、息子が1人で大丈夫かどうか。真っ暗な場内、周りはもちろん知らない人だらけ。いそいで用事を済ませ再度劇場内へ。小生の心配をよそに息子はポップコーンをポリポリ…。子どもはなかなかたくましい。今日の映画が息子の「トラウマ」にならなくて良かった。
 
 30代最後の年の瀬に、よもや「30にして立つ」経験ができるとは。来年はいよいよ小生も40代に突入。
「惑わず」トイレに行ってから、映画を見るようにしたい。

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内田樹著「『おじさん』的思考」から

2011年12月28日 | 読書

 このブログ、1年続いた。我ながら意外にやるもんだ(笑)
  継続理由に週1掲載「一寸凡師コラム」が大きい。この前後で大家の立男を登場させなければ「一寸凡師氏の生活と意見」になってしまう昨年12月21日開始から今日で174回更新。内、凡師コラム39回でコメント83通。大手検索エンジンから入れないにもかかわらずアクセス数の多さに驚く。定年退職後の「どっこい、まだ生きてるよ」発信装置はだいたいこんな感じになりそうだ。

Photo  「『おじさん』的思考」(角川文庫)で内田樹は書く。
   私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田樹」、私がつくった「キャラ」である。私が「…した」と書いているのは、私が本当にしたことの何万分の一かを選択し、配列し直し、様々な嘘やほらをまじえてつくった「お話」…「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」にすぎない。…自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思ってなんかいない…だから、自説を論じたり、私生活を書いても平気だと言う。日曜の大雪で大幅遅れの汽車で再読。
    この弁、立男同感の部分は多い。最初の頃、ママヨさんが本ブログを見て「こんなこと言ってない」とよく怒っていたが、最近はあきらめたようだ。1年がかりでキャラ創造を理解したのか?と聞いたら、ここ最近ブログをまったく開いてないそうだ…こう書くと、いかにもありそうな話だが事実とは違う。立男像も、ママヨさん像もHP上の作られたキャラだ。しかし、1年経つと人格らしきものが、体臭と言えるようなものが作者の私にも感じられるようになってきた(笑)手に負えるうちはまだ良いが…暴走しないことを願う(笑)

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加藤周一の司馬遼太郎論

2011年12月27日 | 読書

 評論家・作家の加藤周一は書く。司馬遼太郎氏の歴史観は天才主義…民衆の役割、経済的な要因はほとんど描かれない、いくら読んでも歴史理解はできない、とした上で作品の面白さを分析し支持される理由を、①主人公の視野の広さや構想力、政策立案の戦略的天才、知的天才であること、②行き届いた調査と懇切丁寧な説明、③簡潔明瞭な文体、④一種の「ナショナリズム」が生み出す心地よさ、⑤仕事に生かせる実践的教訓を挙げる。さらに明るく書ける天才を好む…秋山真之、坂本龍馬しかり…と言う。

 世の芸術的・現代的な小説はほぼ例外なく「夕方小説」(仕事と関係のない人間関係や哲学的反省を描く)、ひとり司馬遼太郎の歴史小説が昼間小説(仕事や生きる上での知恵や勇気を描く)。「あれは娯楽小説だ」というのはまったく正しくない、読Photo 者の仕事とかかわるほとんど唯一の非娯楽小説といえるかもしれないと結論づける。立男は膝を打って同意した。だいたい、司馬作品で歴史理解しようとなんか思ったことが無い。少年時代の白戸三平作「カムイ伝」の時と同じだ。あの漫画も、忍法について作者の説明が実に面白く、司馬の「余談だが」と重なる。

   「坂の上の雲」も正岡子規が亡くなるまで、秋山兄弟が歴史に登場するまでが面白い。老後の読書に司馬遼太郎を入れないのは、代表作をだいたい読んだこともあるが、後半がたいてい「金返せ」と思いたくなるぐらい退屈だからだ。勤労者の立男には困難打開の天才性によるドラマが面白く、成功談に全く興味は持てない。勝った負けたはどうでも良いのだ。

 以上、 「加藤周一を読む 『理』の人にして『情』の人」(鷲巣力著) からの「また聞き」で思ったこと。それにしても加藤周一著作の編集に携わっていた著者のまとめ方に感嘆。森羅万象に精通した人間を350ページで評論できる人がいるのだ。司馬遼太郎については、「かたちに現れたる精神 -または『日本 その心とかたち』-」の章から、2ページ分。

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凡師のつぶやき(職員室編)

2011年12月25日 | 【保管】一寸凡師コラム

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 昨日の朝日朝刊、9回目の月1回掲載「先生のつぶやき」だ。我が凡師、7月から連続掲載中。前回、「短い文だが、入り口で興味を引かせ、速攻で主題に持っていき、最後でドンデン返しといった構成が、読ませる文章のお手本」と書いた。
    また、「凡師さんの温かな人柄を感じる。クスリと笑いながら、どこかしみじみとした人間らしい感情が湧いてくる、爽やかな読後感を作ってくれる」と書いた。この紙面、短文コラム学ぶに絶好の機会だ。

 このことが、今回は一層強く感じた。「職員室」をテーマにすると、先生たちの人間関係が主な材料になるんだなあと変な感心をした。そして、どちらかというとそれぞれの先生が、自分の領分というのか、やや厳しい人間関係というのか、そんなところに話を持っていくのが共通している。実は先生たちの人間関係はこんなものなのです…これが真実、これが本音です、という内容は何となく読者に媚びているようで少し卑しく感じた。文は人なりだと思うが、これは深読み過ぎるだろうか。いや、全道の教育現場の現実が立男の想像以上に厳しいのかもしれない。

    隣の先生をどうみるか、隣の先生にどう見られるかで汲々としている学校とはいかがなもんだろう?先生どうしが疑心暗鬼な学校こそ怖い。2階にある職員室の窓に映る…、誰もいないはずの廊下から聞こえる…、こんなことを校長に内緒で書いている先生のいる学校が私は好きだ。

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肉体の悪魔

2011年12月24日 | 読書

Photo  「週刊プレーボーイ」創刊が、昭和39(1964)年。表紙に度肝を抜かれた。堂々と女性の「半裸」(今は死語だな、この言葉)を巧みに使ったグラフイックデザイン。こんなのありなのか、と思った。勇気を奮い少し遠くの、お婆さんが店番の雑貨屋で買った。そういえば最初の煙草もここだ。自分が見たかったもの、読みたかったものはこんなのだと知った(笑)人生を変えた一冊、Photo_2デザイン感覚が今も新鮮。
    競争相手の「平凡パンチ」も同年創刊。表紙のせいで大人びた感じ。表紙の大橋歩のイラストの素敵さといったら。今も通用する斬新さ。高校でこちら側へ。精神的に少し大人になった感じ。

    昭和40(1965)年の資生堂サンオイルの宣伝ポスター、モデルに前田美波里。売ってない大判のこれが、友人の部屋にはだいたい張ってあった(笑)小川ローザ(丸善石油)や夏\目雅子(カネボウ化粧品)のも宝物だったネ。

    銭湯の帰りに立ち寄る古本屋で、ずうっと売れ残っている文庫本があった。題名が「肉体の悪魔」、定価10円。もう一回書く、「肉体の悪魔」だよ(笑)「夫婦生活」などという怪しげな雑誌の横に並んでいた。店に立ち寄る度に果てしない妄想が全身を充たした(笑)だがついに、このトラップに引っかかった(笑)月刊漫画誌の「少年」や「ぼくら」が本当は欲しいのだけれで、何かの間違いというか、ほんの出来心でつい買ってしまった風な感じでさりげなく漫画の上に置いて買った。走って帰り布団に隠れて読んだ。いくら読み進めても期待する言葉が見つからない。ダマされたと思った。木の股を見ても興奮した時代…中1にしてはませているのかな?同年代に聞くと皆苦労しながら青春必須情報の入手に明け暮れていたようだ。大学に入って冷静に再読。20歳で夭折した作者ラディゲの天才に驚いた。

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