私はどうせ『ヘタレ』だから、の言葉を続けて聞いた。こういう人たちは、間違いなくそんな玉じゃない。ヘタレと正反対の人に限ってこんな自虐で相手を煙に巻く。何に対してヘタレなのかが問題で、謙譲の自己表現方法に騙されちゃあいけない。弱気、遠慮、オドオドといった自己保存方法はなかなかのもので、本気で『ヘタレ』と思う度合いが強いほど、その擬態は完璧になる。
手持ちの辞書にこの言葉が無かったので、PC検索で調べた。「愚痴にもなっていない泣き言を、口から屁を垂れ流している様」に笑う。「屁」や「垂れる」は、まさしく俗語。薄暗い路地裏、ジメジメした土、怪しげな遊びでケタケタ笑うようなイメージに通じる。文字通り子ども時代はみんな『ヘタレ』だ。生理的にも、言語的にも。だが、精神的には違う気がする。泣き言や愚痴は、大人になって無くなるわけじゃない。むしろ深刻さを増す。人は、人生を通じて『ヘタレ』を歩き続けるのだ。
庶民のそこはかとない諧謔、哀切のイメージが『ヘタレ』から湧き出すのは、語感とともに「私はどうせ…」の人柄からだろう。じーっと地面すれすれから世の中を見渡すように生きようとしている感じ。「私はどうせヘタレ」を公言できるとかなり楽に生きられるような気がする。カッコつけの立男は、今更『ヘタレ』とは言いずらい。こういう点で、ママヨさんには…怖いものが無い。いいなあ