波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

心の残し方

2024年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

今回のブログ更新で、『草枕』の冒頭「(前回の続き)・・・とかくに人の世は住みにくい・・・どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ絵が出来る。」を読む、そうだったなあ、芸術の意味というか存在意義が書いてあった。あの頃、三島由紀夫『金閣寺』『仮面の告白』、武者小路実篤『馬鹿一』『真理先生』を読み、受験間近なのに絵を描き、真善美の世界に浸ろうとしていた。素直で純粋で馬鹿だったなあ(笑)。

この頃も今も変わらない人生観は、俗物で終わりたくないこと。〈【俗物】社会的に高い地位を得たい、金持ちになりたい、人からよく思われたい、といった欲求のみが念頭にあってややもすれば利己的な(虚栄心にかられた)言動に陥りやすい傾向にある人〉と辞書(新明解国語辞典)にあるが、老いるほど難題だと思えてくる。救われるのは「・・・といった欲求のみが」の「のみ」で、時々なら許される余地(笑)。身近な方の俗物主義を見て呆れたり失望したりも多くなり、それは我が身点検の機会。率直痛烈のママヨ評価を求めれば一線を越えないで済むこと多し、ありがたきかな。

俗物の反対は『いき(粋)』だと思う。生き方全体に及ぶセンスとしての「いき」の体現は難しい。才能と修練の果てにあって、すぐ横に俗物がある感じ。九鬼周造著『「いき」の構造』はとても興味深い哲学書(青空文庫で読めます)だが、何度読んでも難しく理解は乏しい。平凡な庶民がわかることは、俗物と粋の間を行ったり来たりしながら反省と希望で残りの人生を送るしかないという理解。だいたいは上手くゆかないが、その度に「今度こそ」カッコ良く後悔と反省をしてやろうと思い続けること。そうしているうちに、『真善美』と『知情意』の理解と使い方も前より確かになるかもしれない。


終戦記念日を記念して趣味パチンコを終戦いや停止。昨年9月にパチンコ店入出金カード作り約200日遊んだ。1回2時間以内、収支決算4万円勝ち、さすがに飽きた。主に雨の日に夢中になった非行(パチンコ)を本日テーマに 前述の哲学書で、『いき』の構造を、異性関係の媚態、武士道の理想主義による意気地、仏教の非現実を背景にする諦めの関係としているのが面白いなあ。周りに見せたい「俺は立派だ」「俺は偉い」とは違う「俺はこれが素敵だと思う」を細々でも続けられるのが一番の幸せ。

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心の作られ方

2024年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

学の時、『真善美』という言葉に出会った。世の中のことはこれから知ることだが、その前に価値あることとは何かを一発で言っている。この一言があれば大人になって迷うことがあっても困らない、ニキビづらが唸った。白髪頭の老人大人になった今、この言葉だけで乗り越えられるほど人生は簡単では無いと知ったが、後々考えると「あれで良かったなあ」とか「あれはまずかったなあ」と思う時、この言葉が心の底に確かに横たわっている。深い意味は知らなくとも、理屈を超えた「本当のこと・良いこと・美しいこと」に出あえることが、日々の暮らしの本当の意味かも知れない。

校の時、『知情意』という言葉を知った。夏目漱石『草枕』の「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ・・・・」を習った時だろう。心の側面というか、精神の構造を言い当てている。これも「客観的な道理の知、人間的な感情、どう生きるかの意志」ぐらいの理解だが、老いるほどにそのバランスの大事さを思う。
妙に怒りっぽくなったり、自慢・説教・長話、俗物臭が漂い始めるのは老いの傾向だが、知情意のどれかが欠けたり突出した時の病気だ。結局、それまでの自分が作った自分の歴史だから病院に行くわけにもいかない。
(どう続くかは分からないけれど、書きたかった2つの言葉を書き残した。続きは次回・・・のはず)


雨で外遊びできず、家でうつらうつらしながら思い浮かんだことを書き残してみよう。ということで「雨中飛考」。心だけは広大な世界を駆け巡る漢字(もとえ感じ) 漱石全集で『草枕』を開いた時、その前が『坊ちゃん』で、赤シャツと野だいこを山嵐と一緒に懲らしめて学校を辞めた坊ちゃんのその後を読む。ああそうだったな、清と一緒に住み鉄道の技手になったんだった。忘れていたなあ。

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8月の朝夕

2024年08月10日 | 日記・エッセイ・コラム

うい健康と足りない貯金でも、「今日も楽しかったな」で寝付き「今日はどんな楽しみがあるかな」で始まる朝、こういう暮らしが長く続いて欲しい。昔はもっと固い『生きがい』だったが、時間とともに芯は残っていても柔らかくなり、その分、好き嫌いに正直迅速に反応しストレスが残らなくなってきた。もう少しで思うがままの言動でも嫌われず仙人初級試験に合格できるかも(笑) 崎の平和式典にイスラエル招待しないから出席しないとウクライナ支援の各国代表。円滑な運営できるなら紛争当事国こそ呼ぶべきだの長崎市長に共感しつつ、ウクライナ支援の欺瞞を思う。ガザの非道非正義、死者4万、学校攻撃で多くの子どもが亡くなり62万人全員が1学年分の教育受けられず2600人の教師死傷。 違いは「この人の言うことはたぶん正しいから」というバイアスかけたままのものごと判断。先週のブログ記事『危うさの時に』のこと。直接本人どうしでなく第三者の判断が間違い固定。電話ではなく、対面で話せばすぐに解決したはず、電話1本の便利主義は危険。こういう間違いは妙に頭に残るなあ。今週、珍しく頭痛が続く。 ライドと名誉欲の近そうで全く遠い意味を思う。他の人に喜んで貰うのが親切で自分で喜んでいるだけがお節介に似ている。これ、仙人上級試験突破の難問かもなあ。 


画像は、一篭の朝の収穫。やっと20℃越えるようになり遅ればせながらの喜び。花が咲いた後の成長の早さに驚き喜ぶ。イラストは未だ描かない西部遭『自死について』読み、孤独と無目標で楽しみの無い老いの末路を言葉の藪を漕ぎ手で払うように読む。ちゃんとした死生観が必要だな。

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危うさの時に

2024年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム

に何も入っていなかったからもう一度確かめてくれないかと言われた。札と硬貨を数えて入れて渡したのをありありと覚えていたから相手側の間違いでは無いかと思ったが、お金のことだからザワザワする感情を抑えて「わかりました」と電話を切った。不思議なことがあるものだ、いや、老いのせいで自分の気づかない間違いかもしれないと思った。理屈抜きに、絶対に相手を悪く思わず自分が悪いと決めた。何度確かめても「何も入っていない」理由は見つけられなかったが。

い頃に出来たピアノが老いてから出来なくなったことを、周りの人たちの助けで授かったことを返すときが来たのだ、という話を知った。お金の話の次の日に。生きる術を身につけられた感謝と、それを手放すときがきたことを率直に認める潔さを感じた。「返す」相手は自分より若い人だと思った。電話が来て、自分の勘違いだったと謝罪があった。一晩、俺も年貢の納め時かなとウンザリしていたが息を吹き返した気分になった。あらためて、渡すときにお金を見せて確かめなかった自分が悪いと思った。同時に、これから1つずつ出来なくなるのは、1つづつ返すことという言葉を反芻した。


画像は庄野潤三著『プールサイド小景』(新潮文庫)、いつか読もうと思っていた小説家。平凡で穏やかな日常に隠れている危うさを描く洗練された小説。戦後すぐの作品が今も読み継がれているのがわかるな。畑仕事のない雨の日に読む 記事中のピアノの話は、美智子上皇が残されたもの。

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平均寿命で思うこと

2024年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム

女性87.14歳、男性81.09歳の平均寿命と昨日の新聞記事。日本人の亡くなる年齢は70〜80歳が1番多いらしいが、この手の数字は心をさっさと素通りする。残りの生存年数を教えてくれるわけでなく、そう遠くない「もしもの時」をちょっと意識させるけれど一昨日の夕飯何食べたかと同じぐらい記憶に残らない。平均寿命なんてたかがそれぐらいなもの。平均は平均、自分は自分なのだ。逝くのは100%間違いなく、少し遅いか早いかだけの問題。そう思うのは、7年前に耳下腺腫瘍手術して以来、比較的平穏に過ごすようになってから。

 

80歳にもなれば誰でもほぼ病気持ち。72歳の今だって不意の通院・入院を覚悟しながら遊んでる。願いはママヨさんより早く逝くことだが、それは手前勝手なわがままだし、平均寿命が保証してくれるわけでない。昨日ママヨさんに、「最近までずうっとあなたは病人と思ってました」と真面目な顔で言われたが、この頃は波風氏の方が体調よろしく2択の結果は予想つかない。
思うのは、逝くことを日常の話題にして暮らすこと。躊躇なく口に出せる人との縁を大事にしたい。残る寿命を健全な笑いの種にできるなら人生は悪くない。


画像はたくさん実ったエンドウ豆。あそこの家の豆はもう花が咲いていた、日陰で風が強いから実らないのかなとぼやいていたママヨさん、今日はニッコニコ。花と野菜が隣どうしで生きている畑が好みの波風家 早朝に2時間弱の昆布干し作業、午後から畑の道具置き棚DIYと図書館通い、夕方パチンコ(勝利)、働きづめだったから、今日の読書交流会は急遽中止。気分は絶好調だが身体は休息を求めてる(涙)。

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