波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

【その92】 来年はエジソンおじさんで行きます

2012年12月28日 | 【保管】一寸凡師コラム
Photo「天才とは、1%のひらめきと99%の努力の賜物である」(エジソン)
この言葉の意味は、広く世に知れ渡っている通り「人は才能ではなく、努力が大事なんだよ」、と凡師も思っていたのだが、興味深いエジソンのエピソードに出会った。
そのエピソードとは、
①エジソンは「人間や自然界すべての現象は、われわれの思いもよらぬ「はるかに大きな未知の知性」によって運命づけられているような気がする。数多くの発明もこれらの大きな力によって動かされて成し遂げることができた」と話していた。
②エジソンはこの「はるかに大きな未知の知性」のことを「リトル・ピープル・イン・マイ・ブレイン(頭の中に住む小人)」と呼んでいた。
③エジソンは、「発想の原点であるリトル・ピープルの声を聞くこと、つまり1%のひらめきを得ることが大事。最初のひらめきがよくなければ、いくら努力しても無駄になってしまう。ひらめきを得るためにこそ努力はするべきなのに、このことをわかっていない人があまりにも多い」と嘆いていた。
というもの。
このエピソードのおかげで、凡師の中の「点と点」が全て「線」で繋がった。凡師にまつわる全ての愚行は「ひらめき」を得るためだったのだ。日頃の堕落した生活、荒馬さんに内緒で買った品物、40歳らしからぬ言動・行動・・・、全ては「リトル・ボンシ・イン・マイ・ブレイン(凡師の中に住む小さな凡師)」の声を聞くことに繋がっていたのだ。
来年からは大手を振って行動できる。キーワードは「エジソンオジサン」。エジソンの発想を大事にするオジサンとして闊歩するのだ。
ただし、「ボンシ・オン・アラウマズ・パーム(荒馬さんの手のひらの上の凡師」を忘れてはならない。何事も遵守しなければならないルールがあるのだ。
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「凡師さんのコラム、きっと発信されているよな…」と思いつつ、雪はね三昧の年末年始。やはり届いていました、ちょうど世界と断絶したあの28日に。申し訳ありません。これに懲りず、凡師さん、今年もよろしくお願いいたします。小幸さんもよろしくお願いいたします。
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梅原真著「ニッポンの風景をつくりなおせ」

2012年12月26日 | 読書

Photo  久しぶりに、やる気湧く一冊「ニッポンの風景をつくりなおせ」。ためになっても、面白いはなかなか無い。この本、①抜群な商業デザイナーが、②一次産業で汗する人の魂を、ひょうひょうと、だが単刀直入にズバリ表現する凄さで、③デザイン化した前後でまるで違う世界を提示。とても面白い。全ページ洗練されている。

 扉に「一次産業にDesiginをかけあわせると…▼新しい価値が生まれる ▼新しい価値は経済となる ▼経済がうまくいけばその一次産業は生きのびる ▼そして風景が残る。」と記し、「一次産業×Desigin=風景」の方程式でニッポンの風景を残そう、とある。繰り返しになるが、梅原真氏のデザインは、シンプルにして先鋭的、かつ庶民的という、およそ矛盾のはずを軽々と乗り越えてしまう。味があって無駄が無いから強い。

 作者流に言うのは実におこがましいが、もう還暦だから遠慮無く言わせてもらう(笑)、「学校×デザイン=連携」が立男のもともとの考え方だ。「良い学校にしたい」という心をデザインで形にする、それはほぼ「ブランド」の考え方だ。「こういう形にしたら、もともとある凄い価値が誰にでも、自分自身でも気づかなかった世界が見事に見えてくるよ」という感じだ。町おこしをこういうふうにして提案する、考えをこんなふうにデザインする人間がいるのだ規模が大きな共通理解になるほど、そこには言葉、音楽、絵…を使った優れたデザイン力がErikku ある。

併読は 「ほどほどの恋」(香山リカ著:東京書籍)。書名は軽いが、真剣で個人的な対人関係に表れる驚くような現象(オジサン的に)を、精神科医として分析する「言葉」の使い方が何とも柔らかく親しみが持てて面白かった「エリック」(ションターン作、岩本佐知子訳:河出書房新書)は、「遠い町から来た話」(同)の中の一話の小型本化。本体の方を読み直し、メルヘン苦手な立男だが「良い話だ」と思った。繊細な鉛筆のイラストが超現実的世界に誘ういつ積もったんだ?朝5時半から約1時間の雪かき。真面目にやっていると、ブルも親切にしてくれる。

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新聞コラムの保管庫

2012年12月26日 | 新聞掲載

朝の食卓」を書いていた頃

 北海道新聞(朝刊)「朝の食卓」に掲載された2年間、全18回分のコラム。全道の執筆者40人が回り順で書くから40日目の「忘れた頃」新聞に出る。1回目(2011年1月17日)~終わりの18回目(2012年12月25日)までの時期は、38年間の教員生活最後の2年間で、それ以前とは少し違う精神状態で生活していた。やり残し感と達成感がない交ぜになった心があった。定年退職は「諦念退職」だと思うこともあった。

 もやもやしている心の空気を入れ換えるような気持ちで書いた。自分の仕事、生い立ちや境遇、家族や人生…とりとめもなく浮かんでは消え、消えてはまた思い出すようなことを言葉で書き残していた。ここに書くことで音信不通の方々と連絡がとれたり、思いもよらない方からの手紙や「読者の声」で感想をいただいたりした。

 今はまだ記憶にも新しいコラムだが、中級老人の頃には「俺もこんなに若かったんだ」ときっと感じるのだろうな。

                                                 平成26年9月28日

 

 ※ブログの構成上、投稿日時を新聞掲載終了の次の日にしてある。そうしなければこの記事が突然に今日のお目見えとなり混乱してしまうからです。

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北の街で  №18

2012年12月25日 | 新聞掲載

 先日、礼文の小学校を舞台にした評判の映画を妻と観た。巧みな脚Photo 本や演技もよかったが、最北の風景に圧倒された。雪の利尻富士に息を飲み、見知った町並みや海岸線で思い出が交錯した。私たちの歩いて来た道が、稚内と礼文だ。
 「稚内」と口にしたら、何を好んで、都会がもっと遠くなる北なんだと言われた。遠別から北は米が穫れないから人情が荒いという助言もあった。天売島の小学校が振り出しの教員生活で、次の希望地を聞かれた時だ。私も妻も20代半ばだった。
 その一年ほど前、羽幌で偶然、宗谷の話を聞いていた。若い私には難解な教育講演だったが、深さとロマンは感じた。北で修行を積んでから南へ帰っても遅くない、と思った。広大な宗谷も、活気ある稚内のことも、赴任するまで何一つ知らなかった。
 だが、勇んで赴任した稚内の中学校が荒れ、薄っぺらな教育観はすぐに吹き飛ばされた。出来ることは、ここから逃げない、という覚悟だけだった。必死だった。
 少しわかったことがある。人が人らしく生きるには、知恵と温もりとたくましさが必要なことだ。宗谷の自然と風土は、それを子どもに教える教材の宝庫だった。だが、素材が良質な分、上手に使いこなすには、大勢の協力が必要なことだ。
 こんなことを考え始めた頃なのだろう。稚内で老後を送ることに、何の疑問もなくなっていたのは。(21/24北海道新聞「朝の食卓」)

波風立男宛のクリスマスプレゼントが届いた。詳細は姉妹ブログ「波風食堂、準備中です」参照。

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【その91】  喜ぶ顔

2012年12月21日 | 【保管】一寸凡師コラム
91 Photo
 押しつぶされそうな感覚、腹の底から沸いてくるような感情、鉛色の海に向かって叫びたい衝動・・・全てを呑み込んでくれるのが、家族へのクリスマスプレゼントをラッピングしている時。朝仕事の時間を使ってクリスマスの準備をちょっとずつ。ラッピングは相変わらず下手くそ。でも、「つぎはぎだらけの紙」や「やたらと目立つセロテープ」にもギュッと思いが込められている。

   誰かが喜ぶ姿を想像しながら作業するのは本当に楽しい。やはり人は「誰かの為に」とか「周りのことを考えて」とか「奉仕の心」といった外側に向かうベクトルが大事だなとつくづく感じる。内側に向かうベクトルはその人をどんどん小さくしていく。誰かの為に踏み出す一歩は自分を大きくする一歩。自分のことばかり考えて踏み出す一歩は、自分を成長させるチャンスを摘んでいるのかもしれない。

    今日、職場の忘年会。「やりたがり」の精神で、幹事代行を買って出た。職場の仲間がたくさん笑い、楽しんでいる姿を思い浮かべながら忘年会をプロデュース。凡師が関わる以上、今までと同じような内容にはできない。「もう2度とあいつにはやらせるな!」とお達しが出るぐらい徹底的に、そして真面目に「みんなが笑って楽しめる」会を考えた。
 みんなの喜ぶ顔が楽しみだ。
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