波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

何とかならないか、の言葉

2016年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

  『半端ない』。気に入らない言葉、若者から生まれた言葉。先週の新聞に、4年前の文化庁の国語世論調査では日常使う人2割(16~19歳で6割以上)、「いずれ定着」するだろうと予想。昨年調査では「表記習慣」が定着し、省略形の『パネェ』が現在進行中とのこと。悲しさ超え怖い感じだ。
 そのうち、授業レポートや卒論に、「~は、とても強く心に残った。」と書くところを「~は、ぱねえだ。」を目にするかもしれない。そんなのなら内容もしれてる。不可だね。
    今だって、「基本的には」を「基本」、「その結果」を「結果」、文頭の「なので」の多用には頭が痛い。赤ペンで×つけ続けても容易に直らない。若者の日常に定着しているようだ。PTAの席や家庭訪問(そろそろ死語になりそうだが)では既に、子供の貧困や学力以前に、大人の言葉格差が起きているのだろうな。

 『絶対は否定の副詞』と厳しく教えられ、気づくと蔓延していた「絶対に良い」に違和感覚え、漱石も肯定の意味で使っていたと偉い人が言い出して、まあ仕方がないかなんて思ったが『パネェ』はな…。【次回、「言い得て妙な表現」に続く】 


  明日から月が替わる。働かないうちに今年度が終わる感じ。チョコレートや恵方巻のあたるはずの、2月だ。少し働くべし今晩、韓国の画家イ・ジュンソブ(1/24NHK教育「日曜美術館」)再放送。この番組で、「もう一度見たい」は久しぶり。関連動画を裏ブログにUP。

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『お知らせ』+『第92回/綴ること(上)』

2016年01月30日 | 【保管】腹ペコ日記

 



綴ること(上) 

    最前列の一番真ん中、教卓の前。そこが学校時代の腹ペコの座席だった。目が悪いことを理由にして、みんなが嫌がるその席を選び続けたのにはわけがある。授業中にものを書くには、その場所が最適だったからだ。その場所が実は一番先生の目が届きにくいこと、一生懸命書いているとまじめにノートをとっているかのように見えること。まじめそうに見えて不真面目、自分のやりたいことしかやりたくない。そんな性格は、この頃から基本的に変わっていない。

・・・

    以前波風先生から、「ペコさんにとって書くことは何か」とたずねられ、とっさに「ストレス発散」だと答えたが、わりとそれがあたっていたように思う。そう考えると、「学校」という場所は腹ペコにとってストレスの大きい場所だったのだな、と、改めて感じる。それは、「学校」という場所に対するものだったのか、「学校」を通して流し込まれるある種の「こうあらねばならない」という「社会規範」に対するものだったのか、分析が必要ではあるが。(続く)

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ブログの効用

2016年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

  『机の前に座らされる』のが一番の効用だ。そのうち、では仕事でもするか、目の前に鉛筆も紙もある、パソコンもある。そうだそうだ、表現姿勢転じて勤労姿勢に火をつけよう、の魂胆だ。
  波風立男氏は仕事が嫌い。『遊びみたいな仕事』には近づくが『仕事っぽい仕事』からは逃避する。ずうっとそうしてきた。今は、どんな種類の仕事も面倒だから、半強制的に仕事に向かわせる肉体的姿勢確保がブログの効用だ。指と頭を使うとボケるのが遅くなる、という話もあるし。                      
                    
  完全退職し社会的責任が無くなれば机に向かう必要もない。読書は昔からごろ寝姿勢だし、絵は机なんかで描かない。めんどうな文書作成からやっと解放される。もしそれでも何か書いているようなら本物だ。本物の変人。人生の前半でご奉公的な表現していたとしたら、後半は自分のための表現になる。自分のための表現って何だろう?別にそんなこと考えなくても良いのだが、年寄りの表現は偉そうにしていても見事に露わにされて怖い。もうその域に足を踏み入れてる立男だ。
 <追伸>裏ブログ書きました。今後の波風立男氏を予測する「手相占い」です。

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ブログ機能を変更しました。

2016年01月28日 | ご連絡

右袖に新しい機能を3つ設置しました。試してみてください。

(1)文字の大きさが変更可能に。 読者層のご年齢に配慮してます(笑)

(2)波風立男氏への直接メッセージ。お手紙くれると嬉しいです。

(3)アクセス数を表示。前日の波風ブログ訪問の人数と頁閲覧数です。

 これまで設置していた「読者数」は、gooブログ加入者だけしか登録できないことがわかり意味をなさないので削除しました。読者になっていただいた方のブログは愛読しております。今後も引き続きおつきあいください。<追伸>今日、公式裏ブログ「波風食堂、準備中です」更新しました。

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「村上春樹は、むずかしい」を読む。

2016年01月26日 | 読書
  村上春樹は、むずかしい」(加藤典洋著:岩波新書)読んでいる。「なぜ俺は、村上春樹がちっとも面白くないのか?」、「なぜこんなのを面白いと思う奴がいるのか」を知りたいからだ。『何かあるはず』と思いつつ、いつも「時間と金返せ」だった。こんなの他にない。だが、「人はなぜ小説を読むのか」を考えさせてくれる気もする。期待だ。前の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」も困った小説だった。                                                                                                    
                  
 そんなわけで刺激的な題名の新書。まだ前半。評論家というのは大したもの。いわく、村上の小説は「欲望に対する悲哀に満ちた肯定」、「否定性の欠けた小説」なんていう言葉を繰り出して刺激してくれる。思うに、何かに抗う、つまり何かを『否定』してこそ小説だと思っていたかも。村上の小説は、ゆで卵みたいにどこが正面でどこが裏側もわからず、ツルツル滑って感性にちっともひっかからず、実に中途半端な気持ちで最終頁を閉じてきた。その理由がわかるかもしれない。だが、読み進めるにつれ新書「『村上春樹は、難しい』は難しい」感じに…おい、おい。
                                               
 村上の小説の道具立てがファンには堪らないらしい。そんな一つに『旭川』も話題にのぼる。有名なのは、「でも人は旭川で恋なんてするものかしら?」、「やっと自由になって、行き先が旭川じゃあちょっと浮かばれないわよ。あそこはなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」(代表作らしい「ノルウェーの森」)だ。悪かったな、そんなところで産み落とされ、成人し、恋なんかもしたりして(笑)たばこポイ捨て中頓別町よりひどいが、まあ小説だし、リアル感の全然無い記号化された街だからな。

 昨日の新聞に、旭川は明治35年(1902年)1月25日に日本の公式最低気温-41℃とあった。そんなことを、変に物知りの奴が今の時期に必ず話題にするような感じ、話題にされる街が『作りそこねた街』のイメージなのかなあ。
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