波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

第104回/責任と依存(中)

2016年04月30日 | 【保管】腹ペコ日記

責任と依存(中)

前回の続き】一方で近頃は、「親は、まめたの生活を彼が大人になるまで預かっていて、環境を整えてあげている」、というくらいの力の入れ様でいいのだな、とも思うようになった。まめたの病気や相方さん不在時、2人きりの時間をたっぷり過ごすと、「この子のことを1番わかってあげられるのは自分しかいない、他の人になんて任せられない」と、まめた依存症みたいな気持ちがグツグツと育っていることに気づく。

・・・

たぶん、腹ペコだからわかるまめたの様子もあるだろう。まめたはまだまだ、大人の支援が必要だ。でも、まめたは「まめた」という一人の独立した人間で、腹ペコのものではないのだ。可愛くて一見何もできない赤ちゃん期は、腹ペコに「親業」を勘違いさせるのに充分なくらい長いと思った。【続く】

コメント

嘘つく会社

2016年04月28日 | 新聞感想
  三菱自工の不正。四半世紀の間、架空データーで低燃費を売りにしてきた。ひどい話である。
                
 三菱車を見かけるたび、「(乗ってる人は)嫌だろうなあ」と思う。昭和育ちに「車」は「家」とともに庶民にとって夢の商品。大枚はたく最終決断は信頼の有無だ。ここで嘘つかれたら、怒り心頭というより、悲しみと、後悔と、恥ずかしさでいっぱいだろう。だが乗らないわけに行かず、「金返せ」も通用せず、「嘘ついた分のガソリン代返すのも考えてます(社長)」なんていう珍妙な反省まで出てきて、ユーザーは寝込んでしまうなあ。不正が何回も続く会社で働く従業員や販売店は堪らない。その家族も気の毒だ。「嘘つき」と言われたら誰だって平気ではいられない。走っていてタイヤが外れる、なんていう信じられない欠陥もあった…相当の苦労があっただろうに、この始末だ。
                       
 三菱車しか乗らない人がいた。どんな欠陥や不正が暴かれてもだ。今回だって「それでも三菱」と言う気がする。夢というのはそういうものだ。周りがなんと言おうと「俺はこれが好きなんだ」の『これ』のことを人は夢と呼ぶ波風立男氏は、子どもの頃からVWビートルが好きで、VWが三菱より手の込んだ燃費測定の不正をしようが、ニュービートルが「使いずらくて狭い」という評判多数でも、ヒットラーの命令で作られた歴史があってもだ。夢だから買うことはないが、嘘をついて庶民の夢を食いものにする根性は嫌なものだね。
コメント

ドウゾ アゲマス

2016年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

   チャーハン作る。玉子、玉ねぎ、長ネギ、レタスで昼飯。こういのを猛烈に食べたい時があり、レンゲで一口すくい「マイウ―」なんて悦に入る。「(自分で自分の食べたいものを作る)こういう旦那はありがたい存在だよなあ」、「俺もこういう旦那が欲しい」なんて言いながら食べる。テーブルの向こうで静かにトースト食べているママヨさん。立男は、何か言いたいことないかい?エッ?エッ?としつこく聞き返して遊ぶ。大きな声で促したら、「あげていいです」、「いや、あげます、うるさいから」の返事。ひとしきり笑い、また静かになって食べる。それぞれが、食べたいもの作り、たわいない話がオカズの昼飯どき。


 画像は、何日か前の「父さん」の次のページにあった「母さん」。これもやっぱり、情け容赦ない(笑)。「ドウゾ、アゲマス」の時の目がこれだった。悪魔に魂を売ったような眼差し(嘘ですよ)。こういう絵を見ると、9歳ぐらいでもその人特有の本質的なものを感じているのかなあ、なんて思う。

コメント

【その261】トン!

2016年04月25日 | 【保管】一寸凡師コラム
トン!
 久しぶりにゆっくり寝た気がする。週末、少し“ぐうたらできる時間”を作って、気分をリフレッシュ。本も一冊を読了。いつもは荒馬さんが落と してくれたコーヒーを頂くのだが、今日は、最近出番の少ないエスプレッソマシーンを使って、自分で。濃いめのコーヒーにお湯を足して、小生好みの薄さま で。「そんなことなら、もっと簡単に飲めるインスタントのほうが?」と思われる人もいるかもしれないが、久々の“ぐうたらできる時間”がそうさせるのだ。 お湯を足してもまだ苦いコーヒーをグイッと飲み込み、少し顔をしかめつつ舌を鳴らし、カップを机に「トン!」。ぐうたらできる時間をのんびりと過ごしてい る・・・、そんな感覚がたまらない。
   さて、あと一週間で黄金週間。予定は息子との映画のみなので、「トン」がたくさん響きそう。まずは、体調を崩さないよう今週を乗り切りたい。
コメント

第103回/責任と依存(上)

2016年04月22日 | 【保管】腹ペコ日記

責任と依存(上)

   まめたを産んだあとに思ったのは、「親をやめることはできない」という、ごくごく当たり前のことだった。そんな当たり前のことを、本当のところはよく理解していなかったのだということに気がついて、自分でも驚いた。

・・・

  「親になる」ことを軽く考えていたつもりはなかったけれど、考えているのと実際になるのとではやはり違った。考えてみれば、これまで取り組んできたあらゆることは、どうしようもなくなったら諦めたり、やめたりしてもいいことだったのだ。仕事だって研究だって、いやになったらやめる自由があったのだ。

・・・

   でも、「親であること」は「もうやーめた」というわけにはいかない。それはとても当たり前のことなのだけれど、こうした、「自分の都合でやめられない」ことと直面するのは、人生ではじめてなのではないかと思った。なんとしてでもこの子を健康に育てなければならない、と、バリバリに肩に力が入っていた。(続く)

コメント