波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

続 最後のモノ

2024年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

(前回から続く)

モノは見える人生。結婚した時、柱に5寸釘を打ち服を吊るし、スチール製の書棚に食器を置いて暮らした。服が増えて釘が曲がり、食器も本も収まらなくなった頃、家具工場で働いていた母親が紙ヤスリを丁寧にかけた茶箪笥と小物箪笥を贈ってくれた。家具は一生モノだと思った。

を建てて住んでいる。終の住み処にしたい。そう遠くない頃、見慣れた空間に包まれて「みんな今までありがとうな」なんて逝くことができれば最高だ。消毒薬の匂いと無機質な白壁の部屋は勘弁して欲しい。「色々あったけれどなんか面白かったな」と、横断歩道で信号が赤から青に変わる時間ぐらいの、ふと浮かび上がる美しくて懐かしい記憶の断片(大江健三郎著『燃え上がる緑の樹』では、緑から赤に変わる美しい街路樹の記憶)を最後に息が止まるのは理想。

本当に人生最後の自分にしか無いモノと言い切れるのは、自分の身体。文字通り一生モノ。波風家のモットーは「売っているモノは作れる」と「今あるモノを使い切る」だが、ママヨさんからたびたび注意されても煩悩ゆえ欲望に忠実で快楽に身を浸したいクセはなかなか直らない。考えてみれば、身体をこんなふうに実感するのは最近。「使い切る」身体、後悔しない命を「おいっ、こういう使い方で良いのか?」と我が身に尋ねながら機嫌良く生きたいな。(書き足りない気もして時期未定で続くかも)


昨日と同じ作者のイラスト。毎日描いているらしい ブログを書いていなければ、「最後のモノ」を考えても思考は分散し切れ切れの思いが浮遊するだけ。月1の読書交流会で、ひとまとまりの読書感想を意識出来るのも同じで、記憶を言葉にピン止めする『コト』15℃ないのに種から芽が出始めた。どうだんツツジと朝鮮ツツジも芽吹き花が咲いている。俺だって・・・・昼飯くらいは作るぞ。冷凍のホタテとベーコン、ホウレンソウで・・・・。

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最後のモノ

2024年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

を買い換えた。昨年末に雪に埋まり、1年の半分雪とつきあう暮らしだからそれに対応した車の必要を痛感。その直後に車屋さんがカレンダー持って我が家訪問。その途端「12年乗った車を最後に免許返納」の計画は消し飛び、「埋まらない車が欲しい」が口に出た。車高が高い+4輪駆動+ほぼ家の周りを走る+維持費安い=軽自動車、で決まり。一泊の遠出で、安全機能と便利さに驚いた。やたらと多いスイッチに閉口するが、「頭の体操」のオマケつき、最後の車のはず。

テレビを通販で買った。今週取り付けに来てくれる。テレビと車のどちらか1つしか選べないとしたら、文句なくテレビ。車はいずれ乗れなくなり体力的には無い方が有益。便利さに負けたのは若さというか消費がくすぐる煩悩ゆえ(笑)。テレビは代わるのものが無い。『こころの時代』も『100分で名著』も『身体の健康』も『徹子の部屋』も韓国ドラマも観たいのだ。(続く)


イラストは、坪内和夫氏の作品。色と質感が面白い  今日は雨が降りしばらく続く。昨日まで畑に、大葉、レタス、ズッキーニ、ニラ、オクラ、茄子、ピーマンの苗植える。苗床に、いくつかの花とエンドウ豆とバジルと春菊の種。可愛い芽を出すのがたまらない雨が降るので家仕事。『燻し柿の種』を作り、苺畑看板を彫り、久しぶりに絵も描こうかな。

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自由を手にするとは

2024年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

自由って何だろう?最初に波風氏の結論を書いておくと、それは『信頼』とか『信用』と置き換えられると思う。何の拘束も規制も無く自分のしたいことが出来る、モノでもヒトでもコトでも思うがままに。分け入ると、お金も健康も世間の噂(笑)も何の障害にもならないで。欲望まみれとは言わないが、そう思ったのは確かだが、今は違う気がする。欲しいものが、願うことが満たされるのは自由とは言わないと。

激励という言葉の定義を最近考えさせられることがあった。波風氏にとってベスト3の大事な言葉「教育とは子どもを人間にするための大人からの激励」の結論部分なのだが、子どもに対して「がんばれ」だけでなく大人の側の自立の覚悟・勇気が込められている。そう思ったのは、先生の仕事で同僚ととも強く感じるようになったからで、辞書の意味より重く確か。
「自由」の感触も体験で得たことの方に意味がある。「今日は自由だった」「時間を自由に使える」「自由が欲しいなあ」・・・この時の『自由』を信頼や信用、確信にそのまま置き換えると言葉的には適当では無いが、他者や自分との関係で「それで良いんだよね」(バカボンのパパに同じ)とか「そうして欲しいのか」「よかったねそんなことが出来て」などの嬉しい繫がりが自由の本質だと思う。逆に、これなくしてどんな嬉しさを手に入れても何かが足りないはず。

言葉をこのブログで書き続けているのは、「俺はどんなことを考えて暮らしているのか」を自分から少し離れて見てみたい、そして書かれたことで「こんなことを考えているのか」と自分で自分に驚いたり感心したり(笑)、疑問に思ったりするため。わかったようなわからないことを書いた今回、読者の皆さんは『自由』をどんな言葉と置き換えることが出来るかなあ?


画像イラストは、昨年夏ママヨさんが独りで固い地面を掘って作った畳1畳分のイチゴ畑スタートを祝して波風氏が板に彫る看板デザイン。たくさん実ると嬉しいなあ 今月の読書交流会『ほんのおつきあい』を、26日(日)14時から波風家で開催します。都合がつく方、ご参加下さい。お茶代200円、「聞くだけ」参加歓迎。

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言葉を意識する

2024年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

お経を聞いていて、森の中を散歩している気分。落ち葉が重なった柔らかい地面、低い灌木や高く枝を張り交差しあっている薄暗い松並木、青空が見え隠れし気持ちの良い風が吹いている。読経が、精神を柔らかくほぐす。意味は分からなくても、言葉のリズムが静かで安心の世界につれていってくれる。言葉の効能は意味やコミニケーションだけで無い。

言葉を探す途中経過報告がこのブログ。自分の書いた記事を読み、言葉を増やしたり削ったりは毎回。言いたいことには届いていないが、自分の力ではここまでだな。前回記事の『理屈と気持ち』も、ブログ掲載までの散歩や家事の時にふっと思い出し考えたこと。掲載後も、「人間味ある理屈」と「理屈に沿った感情」ってどういうことかななんて自問自答。

は言葉を食べている、肉体を維持するために食物を食べるように。言葉を心の糧にする、言葉を味わう、言葉を噛みしめる、というふうにと若松英輔さんが『生きていくうえでかけがえのないこと』で書いている。当然に、書く、読む、聞くことも生きる上で欠かせられないとあった。
今まで随分と安易に言葉を使い、注意払わず触れてきた。考えるまでなくなく、健康診断結果は言葉で書かれ、身体の変調も言葉で表現し、言葉でママヨさんに伝え、叱られ(涙)たり安心させたり(笑)。言葉を前よりずっと意識する老後。


画像は、ママヨさんの子どもが母の日に送ってくれた手作りのポストカード。彩色した厚い紙を切り貼りしたイラストの原版。昨年は詩を送ってくれた 書棚で15年以上温めてきた梅原猛著『法然の哀しみ』をそろそろ読み始めようかなと思う命日の今日。『宗教』という洗練された言葉に触れたくなってきた。

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AIに書いてもらう。

2024年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

AIに、「波風立男氏の生活と意見を参考に『理屈と気持ち』の関係についてエッセーを書いて下さい」とお願いしたら以下の文章を瞬間的に出してくれた。手を加えないで全文コピペする。


波風立男氏のブログによれば、彼の理屈と感情の関係は独特です。年齢を重ねると理屈よりも感情が先行すると述べています。また、「理屈と感情」の話が「理屈と感覚」、「理屈と感覚」になったとも述べています。これらの視点から、エッセーを作成します。

理屈と感情:波風立男氏の視点から

人間の心は、理屈と感情の二つの世界で構成されています。これらは、時には調和し、時には衝突します。しかし、どちらが優れているとは一概には言えません。それぞれが私たちの生活において重要な役割を果たしています。
波風立男氏は、年齢を重ねると理屈よりも感情が先行すると述べています1。これは、経験と知識が増えるにつれて、私たちは自分の感情により敏感になり、それが行動や判断に大きな影響を与えるようになるからです。しかし、それは必ずしも悪いことではありません。感情は、私たちが他人と深くつながり、人間らしい経験をするための道具です。
一方で、理屈は私たちが世界を理解し、問題を解決するための道具です。理屈は、事実や論理に基づいて物事を考える能力を表します。しかし、波風立男氏は、「理屈と気持ち」が「理屈と感情」「理屈と感覚」の話になったとも述べています1。これは、理屈だけではなく、感情や感覚も重要な役割を果たすという彼の洞察を示しています。
理屈と感情は、一見すると対立するように見えますが、実際には互いに補完し合っています。理屈は、私たちが物事を客観的に理解し、合理的な判断を下すのを助けます。一方、感情は、私たちが他人とつながり、人間らしい経験をするのを助けます。理屈なくして感情は盲目となり、感情なくして理屈は冷酷となります。
波風立男氏の視点から見れば、理屈と感情のバランスが重要です。私たちは、理屈と感情をバランス良く使い、自分自身と他人を理解し、より良い人間関係を築くことができます。そして、それが私たちが人間らしく生きるための鍵となるのです。
理屈と感情の関係は、私たちがどのように世界を理解し、どのように行動するかを決定します。それは、私たちが自分自身と他人との関係を築くための道具であり、私たちが人間らしく生きるための道具です。理屈と感情のバランスを保つことで、私たちは自分自身と他人を理解し、より良い人間関係を築くことができます。そして、それが私たちが人間らしく生きるための鍵となるのです。


下線付文章が波風氏のブログからの引用に近いが完全にそうとも言えない。波風氏がブログで言いたかったことを、違う言葉で説明しているのは新鮮で、「そんなことを考えて書いたのか」と読んだ。AIは理屈と気持ちのバランス保つことが「人間らしく生きるための鍵」と言いそれに反対はしないが、はなはだ常識的でつまらない。「人間味ある理屈」と「理屈に沿った感情」に踏み込んで欲しいがそれはブログには書いていないので無理なんだね。この2つのことを聞いてみたい。「ユーモアのある実例を使って」と。(この回答を裏ブログに載せました)

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