(前回『浮世の画家』から続く)
桃子さんの方は、「自分とは何か」を徹底的に追求する。老後はそのための時間と言う感じ。図書館でノートに書き写した人類誕生史だって自分史にしっかり引き込む。亡き夫とのなれそめや暮らし、子どもたちとの関係、人生指針のばっちゃん、いちいち自問自答で解説し自分を納得させる。この理屈っぽさ、素直さ、率直さ、行動力が『おらおらでひどり いぐも』を導く。『浮世の画家』の方は終始一貫理屈っぽさ漂う。読みやすいがその分、作者の巧妙な企て感じる。間接話法で、「私は私自身の責任で人生を全うする。色々あったが」なんだなあと最後の最後に思う。そこは桃子さんと一脈通じる人生の肯定。だから最後まで読み通せる。
昨日、70代の知人から白いキャンバスと額が宅配で届き、夜に80代の方から木枠、キャンバス布が届いた。事前に「もう描かないから貰ってくれたら嬉しい」と言われていた。お二人が絵を描いたんだと知ったのだが、この連続に「歳」と遊びの終わり、そして「手」を意識した。
今後5年ぐらいは未だ立ち向かえる気がするから、貰うと返事していた。絵の具を使うのは体力がいる。ずうっと裏返しにして立てかけてある描きかけの百号キャンバスは、「いつか再開、それまでに描く絵は全部その準備」と30歳から思っていたが、この頃「さていよいよ。決着つけてから逝かなければ」と意識変化。永く言葉を使う仕事してきたせいで、考えすぎて描けない習性を修整して終世を迎えたい。
ここらの動機というか執着は、能力や意欲以上に、自分の『手』を今一度信じてみたいからだ。鶴を折れないとか、リンゴの皮を剥けないとか、波風氏は実に不器用、そして偏って器用。退職後、家事を通じ、暮らしはすべて手の恩恵だと実感。絵は暮らしに全然関係無い分、手がそんな方面にも活用できたら嬉しい。手が作るのはすべて目に見えるモノ。だがそれ以上に、手作業の時は自分は何者かを発見できる機会、機嫌良く暮らしていける自信を手が最も雄弁に語ってくれる気がして。
画像は、捜すと無く、あると高価な定番コーヒカップセット使用の朝食。ママヨさんが見つけた格安の「処分品」。こんなカップが欲しかった。波風食堂の備品購入ひとつ終了 もっと時間が経てば、描けなくなり、書けなくなり、読めなくなるのだろうなあ。今のうちだな 公式裏ブログ「波風食堂、準備中です」を「葉も、根も…」でただ今更新。
・佐川氏の父上ご存命ならば泣くか叱るか証人喚問(近江八幡市 寺下吉則)
・福島の人間(ひと)は真っ正直という信念ゆらぐ証人喚問(下野市 若島安子)
・改竄を改ざんと書く手緩(ぬる)さよ穴の鼠(ねずみ)はつゆ出ざりき(東京都 高橋道子)
46の詩が集められた『あ・い・た・く・て』(大日本図書:工藤直子 詩、佐野洋子 絵)。最初が『あいたくて』で最後が『また あいたくて』。このブログで繰り返し繰り返し『あいたくて』の記事が読まれているので、久しぶりにこの詩集を開いた。
人だけでなく、自分にも、自然にも、猫にもあいたいという。この詩では、「さよならをくりかえし さよならをつみかさね」に立ち止まり、「また」なにかにあいたくて「きょうも あるいていく」で、やはり映画『あん』のエンドロールの言葉を思い出す。この詩も『あいたくて』も、幼年・青年・壮年・老年の全てにあてはまる感じ。今の波風氏には、隠居生活の道しるべのような。
話題の『おらおらで ひとりいぐも』(河出書房新社:若竹千佐子著)読み始める。「青春小説の対極、玄冬小説」「63歳の新人、新たな『老い』を生きるための感動作」と帯に 裏ブログ「蜜柑」を書き、ふと「柑橘類 遺伝子」で検索すると。紀州蜜柑がルーツとの京都大学の研究結果が。面白いなあ、こういうのも「あいたくて」あえた、ということになるのかも。